ラディカルな愚者(4)
私は正しいことしか述べていないと自負している。しかし、その正しいことが間違っていることも自覚している。全く矛盾しています。当面の論点は「愚者」ですが、目的意識を持たぬ愚者を批判しながら、私は常に目的意識に束縛された愚者を悲しく思っています。「実存は本質に先立つ」とサルトルは言いましたが、人間にはペーパーナイフのような「使用目的」などありません。尤も、ペーパーナイフは時にその本来の「使用目的」から逸脱して、例えば殺人の道具として誤用されることもあり得ます。しかし、それはペーパーナイフの責任ではないでしょう。ペーパーナイフは人間の「使用目的」に基づいてこの世に生まれてきたモノですが、ペーパーナイフ自体にその「目的意識」はないからです。ペーパーナイフ誤用の責任は、あくまでも誤用する人間にあるのは明らかです。このようなペーパーナイフと同様に、人間にも創造者である神によって予め書かれた「存在目的」があるならば、それに忠実であること以外の生き方などあり得ないでしょう。しかし、神が本当に存在するかどうかは別にして、人間の「存在目的」はペーパーナイフの「使用目的」のように明確ではありません。確かに、古来より神の言として記された人間の「存在目的」は様々な神話や宗教などを通じて伝えられています。けれども、ペーパーナイフと違って人間はそれを意識し、疑い、場合によっては反逆することさえできます。つまり、人間は自らの「存在目的」を不断に問い直し、真の「存在目的」(この道!)を求めることができるのです。端的に「人間はペーパーナイフと違って自由だ!」と言えますが、この自由は人間を本当に幸福にしてきたでしょうか。極端な話、「人デナシ!」と罵倒される鬼畜の行為があっても、それが人間の「存在目的」ではないと反証できるだけの確固たる根拠はなく、むしろそれこそが人間の真の姿だという可能性は決して否定できません。それに、どんなに出来損ないの人間がいても、その責任は創造者である神が負うべきでしょう。尤も、人間の悲惨な現実に対して責任を取れるだけの神は存在せず(存在するかもしれないが、沈黙する神は存在しないも同然)、イヴァン・カラマーゾフの言うように「神が存在しなければ、人間には全てが許されている」のです。つまり、「人間ならこう在るべきだ」とか「人間はこう生きるべきだ」というSollenはなく、人間は何をしてもいいし、何もしなくてもいい、自然に流されて勝手気儘に生きればいいのです。果たしてこれは人間の理想と言えるでしょうか。いや、この問い自体、目的意識の真空状態に生きる美的愚者には意味を成しません。理想など、人生に百害あって一利なし。むしろ、理想なき人生こそ理想なのです。
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言うまでもなく、美的愚者の理想社会は原理的に不可能です。犯罪を含む「全てが許されている」状態は社会になり得ないからです。そこには確かに絶対的自由がありますが、それは人間には重すぎて担いきれないでしょう。サルトルは「人間は自由に呪われている」と述べましたが、人間は通常そのような自由から逃走して、何らかのSollen、延いては絶対的な権威に依りかかろうとします。私はそこに自らの意志で大審問官の奴隷となる大衆の姿を重ね合わせますが、それは美的愚者の対極に位置する倫理的愚者に他なりません。あらゆる「存在目的」から解放される絶対的自由という夢を見続ける美的愚者と他律的に「存在目的」を与えてくれる絶対的権威の下での幸福を望む倫理的愚者の狭間で、私の行き場(生き場)にない苛立ちはますます募るばかりです。