Celkonscioもしくは不幸な意識(10)
野暮を承知で身も蓋もないことを言えば、二種類の「愚者」が要請されます。美的、倫理的、宗教的という人生行路の三段階から成るキルケゴールの実存弁証法に即して言えば、美的愚者と宗教的愚者です。前者の典型は、所かまわずクソションベンを垂れ流す赤ん坊です。勿論、赤ん坊とはそういうものであり、自然のまま、本能のままに生きる赤ん坊を誰も愚者とは思わないでしょう。しかし、赤ん坊は成長します。成長して、物心がつく頃になっても相変わらず赤ん坊のように振る舞っていたら、それは愚者です。つまり、赤ん坊はやがて所かまわずクソションベンをしないように躾られるのであり、その躾がなされない人間は愚者と見做されるのです。それは基本的に犬猫の場合も同様でしょう。しっかりと調教された犬猫が「賢い動物」として愛され、野良犬・野良猫の類は「危険な動物」として敬遠、場合によっては殺処分されます。ただし、これは全て人間の都合によるものであり、犬猫本来の在り方が野生にあることは言うまでもありません。いや、犬猫は人間との長い付き合いを通じて作られてきた(家畜化)動物なので、もしかしたら野生よりも人間の目的に適った在り方(猟犬やペット)の方が本来的なのかもしれません。野生と調教、どちらが本来の姿なのかは犬猫自身に訊いてみなければ分かりませんが、人間の場合は明白です。調教、否、躾や教育なき野生児は実質的には人間と見做されないでしょう。本能のままに生きる美的段階から規律を重んじる倫理的段階へと移行して、ヒト(野生児)は初めて人間になるのです。
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しかしながら、倫理的段階が人間本来の在り方かと言えば、やはり疑問が残ります。倫理的人間は不自由だからです。「人間は自由なものとして生まれたが、至る所で鎖に繋がれている」とはルソーの言葉ですが、ならば鎖を断ち切って再び生来の自由(自然状態)を取り戻せばいいかと言えば、事はそう単純ではありません。幼児退行(赤ちゃん返り)が問題外なのは言うに及ばず、自由な自然状態とは弱肉強食の過酷な環境(無法地帯)に他ならず、鎖の御蔭で人間はそうした過酷な環境から安全に守られているという一面もあるからです。確かに鎖はヒトを縛るものですが、少なくとも善良なる市民は法律(及びそれに基づく権力)という鎖に繋がれた(守られた)倫理的人間の生活に幸福を見出すでしょう。それはパラダイスの理想です。しかし、このパラダイスが人間の究極的な理想なのでしょうか。殆どの人はそこに至上の幸福を見出すかもしれませんが、私はパラダイスという理想に大きな疑問を抱いています。それは人間の倫理的段階に対する疑問でもありますが、美的段階と倫理的段階の相剋、それを超克する宗教的段階については別の機会にじっくり思耕するとして、当面の問題は法律です。先述したように、法律に守られて平穏無事な市民生活が可能になっているとは言え、その法律が権力者(富裕層)の都合のいいように作られていることもまた事実です。それでも自分たちの平穏無事な生活が曲がりなりにも維持できてさえいれば、或る程度の格差は容認すべきなのでしょうか。貧しき人々、虐げられた人々、引きこもり、自殺者――そんな人間がどんなにいても、それはパラダイスのプログラム全体からすれば些細なバグのようなもので、通常は無視しても支障のないものでしょうか。現実の社会は常にすでにそのように進行しており、これからもパラダイスの支配は当分続きそうです。しかし、それにもかかわらず、もしパラダイスを超える理想を求める契機があるとすれば、それはやはりパラダイスのプログラムに巣食うバグたち、すなわち出来損ないの愚者たちに他なりません。とは言うものの、愚者に一体何ができるのか。
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ここで改めて留意しておくべきことは、全ての愚者がパラダイスの超克を求めるわけではないという現実です。むしろ、愚者の大半はできれば何とかしてパラダイスを享受したいと思っています。引きこもる人たちにしても、その多くは閉じられた自分の部屋をパラダイスにしているにすぎません。言うまでもなく、私が問題にする「ラディカルな愚者」はそうした中途半端な輩ではなく、あくまでもパラダイスに対する絶望を徹底させた人たちです。それは倫理的段階への絶望でもありますが、もはや美的段階への退行に希望がないのは明らかです。では、どうするか。鄙見によれば、「ラディカルな愚者」は目的意識を持つという逆説を生きることを余儀なくされるでしょう。それは宗教的愚者への道を切り拓く逆説に他なりません。