「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(9)
人生は生命の二つの運動から成っている。再生産と消費だ。前者は主に「食」の欲望によって推進され、一般的には「食うために生きる」ことが人生の目的となる。これは個体としての生命の再生産を推進する欲望だが、もう一つ、個体を超える生命の再生産を推進するものに「性」の欲望がある。つまり、「異性と愛を営むために生きる」ということだ。ちなみに、「同性と愛を営むために生きる」ということもあり得るが、それが生命の再生産に繋がらないのは明らかだ。そもそも「性」の欲望の充足は「食」の欲望の充足なくしてあり得ないわけで、その意味では「食」の欲望こそ生命を再生産させる根源的な推進力であり、「性」の欲望はすでに生命の消費の次元に踏み込んでいると考えるべきかもしれない。しかし、やはり一般的には「食」と「性」の欲望が生命を再生産させる原動力の両輪と見做され、その二つが満たされれば人は基本的に幸福だと言える。それはイキモノの本能であり、少なくとも人間以外のイキモノは「食」と「性」の二つの欲望充足のためにのみ生きている。尤も、人間も例外ではないという考えもあるだろうが、私はそうは思わない。別に人間を殊更特別な存在に祀り上げるつもりはないが、幸か不幸か、人間は単なる生命の再生産の繰り返しだけでは満足できない存在になってしまった。言い換えれば、人間は生命の再生産とは質的に異なる次元での生命の消費を求めるように運命づけられている。そのような意味での「消費」はバタイユ流に「消尽」もしくは「蕩尽」と称した方が適切かもしれない。それが神からの使命なのか、それとも悪魔の誘惑にすぎないのか、私にはよくわからない。単なる「食」の欲望がやがて「美食」の欲望へと発展していく。それは明らかに「空腹を満たす」という基本的な生命の再生産の次元を超えている。同様に、「性」の欲望が「エロティシズム」の欲望に発展すると、そこには単なる生殖という生命の再生産を超える次元が開かれる。誤解を恐れず言えば、新たな生命を生み出さない同性愛は「生命の消尽もしくは蕩尽」としてのエロティシズムの典型なのかもしれない。何れにせよ、「生命の再生産」という確固たる意味を有する「食」や「性」の欲望は人間にとって必要不可欠な営みだが、「美食」や「エロティシズム」は不要不急の営みに他ならない。しかし、正にそうした不要不急の「生命の消費」にこそ人間本来の仕事がある。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(8)
「生命より大切なものはない」ということが真実だとしても、イキモノは他のイキモノの生命を奪うことでしか生きられない。それもまた真実であり、人間も例外ではない。たとい「生命を奪う」を「生命を戴く」と言い換えたところで、不殺生戒の実行不可能性に対する人間の束の間の気休めになるだけだ。真実は変わらない。そもそも不殺生の論理的帰結は断食死でしかないが、それは自らの生命を絶つことに他ならず、結局不殺生の徹底にはならない。自らの生命を肯定するためには他の生命を否定せねばならず、他の生命を肯定するためには自らの生命を否定しなければならない。自他共生など、原理的に不可能だ。生命においては肯定と否定が密接に絡み合っているからだ。端的に、生と死が密接に絡み合っていると言ってもいい。こうした生と死の絶対矛盾的自己同一のアポリアにおいて、生命の意味、もしくは生命の大切さは脱構築を余儀なくされる。それはもはや「他のイキモノの生命を犠牲にしてまで維持する自分の生命は、それだけ大切にしなければならない」というようなありきたりの一般常識(倫理)では収まらない。「生命を大切にする」は単なる「生命の維持」ではなく、むしろ「生命の消費」、すなわち「肉体の主体的使用」となる。そして、「生命の消費」が生活の次元を切り拓く。三島由紀夫が生命をかけて訴えた「生命尊重以上の価値」も、生活の次元においてこそ意味を成す。ちなみに、生命の次元では原理的に実現不可能であった自他共生も、生活の次元において初めてその理想としての輝きを発する。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(7)
最近始まった新しいテレビドラマの中で、主人公が「生命(いのち)より大切なものがありますか」と問いかけていた。「ある!」と答えるにせよ、それは生命がなければ存在し得ない。生命が全ての大前提であり出発点となる。生命そのものに貴賤・優劣はなく、その意味において、医者はあらゆる生命を救おうとする。敵であろうが悪人であろうが関係ない。そこに生命の危機に瀕している人がいれば救う、それが医者の仕事だ。しかし問題は、その先にある。人は生命という土台の上に生活という家を建てる。誰しも幸福な家にしたいと願う。生命の維持を前提に、自らの生命を可能な限り豊かにしたいと望む。その願望が生命を歪める。それは自然に反するものかもしれないが、人間にとっては反自然が自然になる。「病むべく創られて、健やかにと命ぜられ」とはブレイクの言葉だが、人間の生活は根源的な逆説を孕んでいる。中世ヨーロッパにおける具体例を一つ。瀕死の自殺未遂者が医者の懸命な努力によって一命をとりとめる。しかし、健康を取り戻したその男はやがて裁判にかけられ、自殺未遂という大罪故に死刑を宣告される。医者は生命を救い、裁判官は生命を奪う。その逆説に人間の生活がある。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(6)
太宰は「藁一すぢの自負」などと謙遜しているが、これはどうして大変な自負だ。若い頃、私もこうした言葉に感動して、まるで自分が釈迦かイエスにでもなったかのように、人間の苦悩を極め尽くさねばならぬ、などと思ったものだ。安吾にも似たような思いがあったらしく、「風と光と二十の私と」という作品に次のような場面がある。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
しかし、人間の苦悩を極めるとは如何なることか。そもそもそれは可能なのか。太宰も安吾も名家の出で、おそらく「飢えの苦しみ」など知らずに育ったと思われる。身体的にも、後にヒロポンなどの薬物中毒に苦しむことになるにせよ、二人とも大柄で元来は健康体であったのではないか。従って、殊に憂い顔の太宰など、苦悩の権化を気取っていても、明日食べるコメもないような赤貧とか不治の病に苦しんでいる人たちからすれば、「いくら深刻ぶっても、文学者の苦悩なんかチャンチャラおかしい」ということになりかねない。そこには、飢えて死んでいく子どもたちに対して「嘔吐」は無力だと言うサルトルの嘆きと同様の事情がある。必要とされるのは食べ物やお金、あるいは病を治す薬などであって、文学や哲学ではない。飢餓とか病気といった生命の危機に対して文学や哲学は無力だ。それらは「不要不急の仕事」に他ならない。しかし、文学や哲学が不要不急であるような次元に人間の理想があるだろうか。生命が脅かされる不幸に苦しむ人は幸福になりたいと願う。飢えが満たされ、病が癒える。心身ともに健康であることの幸福。ところが、その幸福が新たな苦悩を分泌し始める。それが人間の根源的な苦悩となる。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(5)
太宰治の「富嶽百景」に次のような言葉がある。
「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁一すぢの自負である。」
この太宰の「藁一すぢの自負」はパスカルの「考える葦の自負」に通じる。人間は考える。考えるから苦悩する。無になって考えなければ苦悩は生じない道理だが、そういうわけにはいかない。一般衆生は考えることを滅却できず、悟りはなかなか開けない。何かしら考える。人間以外のイキモノでも、それなりに考えているだろう。しかし、それは「自分の生命を如何に維持するか」という本能にすぎない。赤ん坊の泣き声も苦悩の一表現だと考えられるが、それも本能の叫びに他ならない。ミルクを与えるとかオシメを替えるとか、生命の欲することが満たされれば、赤ん坊は泣き已む。それは基本的に大人も変わらない。その苦悩の大半は生命の欲望が満たされないことから発する。しかし、それだけではない。たとい生命の欲望が全て満たされても、なお満たされぬものがあるのではないか。そこにこそ人間の真の苦悩があるのではないか。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(4)
金剛石のある生活とない生活、という対比は分かりにくいかもしれない。電気のある生活とない生活、自動車のある生活とない生活、パソコン(スマホ)のある生活とない生活、という対比ならどうだろう。電気も、自動車も、パソコンも知らない所謂「未開人」(archaic man)の生活の輝きは殆ど野生の生命の輝きに等しい。それが人間生活の輝きの原点だとすれば、その輝きは文明(科学技術)の発展とともに増大し、今や「現代人」(modern man)の生活のまばゆいばかりの輝きに至っている。確かに、現代人の生活は飛躍的に便利で快適なものになった。楽になった。もう未開人が味わっていたような生活の過酷な苦労はない。しかし、現代人の生活の輝きは本当に望ましいものなのか。人間にとって本当に理想的な輝きだと言えるのか。未開人の生活の輝きが太陽の光だとすれば、現代人のそれは言わば原子爆弾の光のようなもので、やがて我が身を焼き尽くす運命にあるのではないか。さりとて現代人はもはや未開人の生活には戻れない。現代人の生活からいくら虚飾な輝きを削ぎ落としても、未開人の野生の生命の輝きを取り戻すことはできない。そもそも未開人の野生も、それが人間の生である限り、もはや自然そのものではあり得ない。常にすでに自然から一歩踏み出している。人間にとって、生命から生活への移行は不可避だ。自然の光から人工の光へ。人工の光を生み出すことが、たとい「不要不急の仕事」だとしても、また原爆のような破滅的な光を生み出してしまう危険性を常に孕んでいても、我々はその歩みを止めることはできない。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(3)
私は哲学が自分の仕事だと思っている。もう大学で教えてなどいないし、そもそも論文らしきものを書いて原稿料を戴いたのは一度しかない。到底自ら「哲学者」を名乗る資格はない。けれど、自分の仕事は哲学しかないと思っている。しかし、それは私に限ったことではないだろう。あらゆる人間にとって、哲学は不可避だ。生きていれば、哲学は必要になる。生き続けるために、哲学は必要になる。時に自ら死ぬために哲学を必要とする場合もあるが、それはあくまでも邪道だ。哲学の本道は生を輝かせることにこそある。それは生命の輝きとは違う。生活の輝きとも違う。そうした二つの輝きに比べれば、哲学は「不要不急の仕事」に他ならない。しかし、必要なのだ。私は一生、その必要性を思耕していきたい。