新・ユートピア数歩手前からの便り -94ページ目

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(9)

人生は生命の二つの運動から成っている。再生産と消費だ。前者は主に「食」の欲望によって推進され、一般的には「食うために生きる」ことが人生の目的となる。これは個体としての生命の再生産を推進する欲望だが、もう一つ、個体を超える生命の再生産を推進するものに「性」の欲望がある。つまり、「異性と愛を営むために生きる」ということだ。ちなみに、「同性と愛を営むために生きる」ということもあり得るが、それが生命の再生産に繋がらないのは明らかだ。そもそも「性」の欲望の充足は「食」の欲望の充足なくしてあり得ないわけで、その意味では「食」の欲望こそ生命を再生産させる根源的な推進力であり、「性」の欲望はすでに生命の消費の次元に踏み込んでいると考えるべきかもしれない。しかし、やはり一般的には「食」と「性」の欲望が生命を再生産させる原動力の両輪と見做され、その二つが満たされれば人は基本的に幸福だと言える。それはイキモノの本能であり、少なくとも人間以外のイキモノは「食」と「性」の二つの欲望充足のためにのみ生きている。尤も、人間も例外ではないという考えもあるだろうが、私はそうは思わない。別に人間を殊更特別な存在に祀り上げるつもりはないが、幸か不幸か、人間は単なる生命の再生産の繰り返しだけでは満足できない存在になってしまった。言い換えれば、人間は生命の再生産とは質的に異なる次元での生命の消費を求めるように運命づけられている。そのような意味での「消費」はバタイユ流に「消尽」もしくは「蕩尽」と称した方が適切かもしれない。それが神からの使命なのか、それとも悪魔の誘惑にすぎないのか、私にはよくわからない。単なる「食」の欲望がやがて「美食」の欲望へと発展していく。それは明らかに「空腹を満たす」という基本的な生命の再生産の次元を超えている。同様に、「性」の欲望が「エロティシズム」の欲望に発展すると、そこには単なる生殖という生命の再生産を超える次元が開かれる。誤解を恐れず言えば、新たな生命を生み出さない同性愛は「生命の消尽もしくは蕩尽」としてのエロティシズムの典型なのかもしれない。何れにせよ、「生命の再生産」という確固たる意味を有する「食」や「性」の欲望は人間にとって必要不可欠な営みだが、「美食」や「エロティシズム」は不要不急の営みに他ならない。しかし、正にそうした不要不急の「生命の消費」にこそ人間本来の仕事がある。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(8)

「生命より大切なものはない」ということが真実だとしても、イキモノは他のイキモノの生命を奪うことでしか生きられない。それもまた真実であり、人間も例外ではない。たとい「生命を奪う」を「生命を戴く」と言い換えたところで、不殺生戒の実行不可能性に対する人間の束の間の気休めになるだけだ。真実は変わらない。そもそも不殺生の論理的帰結は断食死でしかないが、それは自らの生命を絶つことに他ならず、結局不殺生の徹底にはならない。自らの生命を肯定するためには他の生命を否定せねばならず、他の生命を肯定するためには自らの生命を否定しなければならない。自他共生など、原理的に不可能だ。生命においては肯定と否定が密接に絡み合っているからだ。端的に、生と死が密接に絡み合っていると言ってもいい。こうした生と死の絶対矛盾的自己同一のアポリアにおいて、生命の意味、もしくは生命の大切さは脱構築を余儀なくされる。それはもはや「他のイキモノの生命を犠牲にしてまで維持する自分の生命は、それだけ大切にしなければならない」というようなありきたりの一般常識(倫理)では収まらない。「生命を大切にする」は単なる「生命の維持」ではなく、むしろ「生命の消費」、すなわち「肉体の主体的使用」となる。そして、「生命の消費」が生活の次元を切り拓く。三島由紀夫が生命をかけて訴えた「生命尊重以上の価値」も、生活の次元においてこそ意味を成す。ちなみに、生命の次元では原理的に実現不可能であった自他共生も、生活の次元において初めてその理想としての輝きを発する。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(7)

最近始まった新しいテレビドラマの中で、主人公が「生命(いのち)より大切なものがありますか」と問いかけていた。「ある!」と答えるにせよ、それは生命がなければ存在し得ない。生命が全ての大前提であり出発点となる。生命そのものに貴賤・優劣はなく、その意味において、医者はあらゆる生命を救おうとする。敵であろうが悪人であろうが関係ない。そこに生命の危機に瀕している人がいれば救う、それが医者の仕事だ。しかし問題は、その先にある。人は生命という土台の上に生活という家を建てる。誰しも幸福な家にしたいと願う。生命の維持を前提に、自らの生命を可能な限り豊かにしたいと望む。その願望が生命を歪める。それは自然に反するものかもしれないが、人間にとっては反自然が自然になる。「病むべく創られて、健やかにと命ぜられ」とはブレイクの言葉だが、人間の生活は根源的な逆説を孕んでいる。中世ヨーロッパにおける具体例を一つ。瀕死の自殺未遂者が医者の懸命な努力によって一命をとりとめる。しかし、健康を取り戻したその男はやがて裁判にかけられ、自殺未遂という大罪故に死刑を宣告される。医者は生命を救い、裁判官は生命を奪う。その逆説に人間の生活がある。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(6)

太宰は「藁一すぢの自負」などと謙遜しているが、これはどうして大変な自負だ。若い頃、私もこうした言葉に感動して、まるで自分が釈迦かイエスにでもなったかのように、人間の苦悩を極め尽くさねばならぬ、などと思ったものだ。安吾にも似たような思いがあったらしく、「風と光と二十の私と」という作品に次のような場面がある。

 

「満足はいけないのか」

「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」

「なんのために?」

「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」

 

しかし、人間の苦悩を極めるとは如何なることか。そもそもそれは可能なのか。太宰も安吾も名家の出で、おそらく「飢えの苦しみ」など知らずに育ったと思われる。身体的にも、後にヒロポンなどの薬物中毒に苦しむことになるにせよ、二人とも大柄で元来は健康体であったのではないか。従って、殊に憂い顔の太宰など、苦悩の権化を気取っていても、明日食べるコメもないような赤貧とか不治の病に苦しんでいる人たちからすれば、「いくら深刻ぶっても、文学者の苦悩なんかチャンチャラおかしい」ということになりかねない。そこには、飢えて死んでいく子どもたちに対して「嘔吐」は無力だと言うサルトルの嘆きと同様の事情がある。必要とされるのは食べ物やお金、あるいは病を治す薬などであって、文学や哲学ではない。飢餓とか病気といった生命の危機に対して文学や哲学は無力だ。それらは「不要不急の仕事」に他ならない。しかし、文学や哲学が不要不急であるような次元に人間の理想があるだろうか。生命が脅かされる不幸に苦しむ人は幸福になりたいと願う。飢えが満たされ、病が癒える。心身ともに健康であることの幸福。ところが、その幸福が新たな苦悩を分泌し始める。それが人間の根源的な苦悩となる。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(5)

太宰治の「富嶽百景」に次のような言葉がある。

「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁一すぢの自負である。」

この太宰の「藁一すぢの自負」はパスカルの「考える葦の自負」に通じる。人間は考える。考えるから苦悩する。無になって考えなければ苦悩は生じない道理だが、そういうわけにはいかない。一般衆生は考えることを滅却できず、悟りはなかなか開けない。何かしら考える。人間以外のイキモノでも、それなりに考えているだろう。しかし、それは「自分の生命を如何に維持するか」という本能にすぎない。赤ん坊の泣き声も苦悩の一表現だと考えられるが、それも本能の叫びに他ならない。ミルクを与えるとかオシメを替えるとか、生命の欲することが満たされれば、赤ん坊は泣き已む。それは基本的に大人も変わらない。その苦悩の大半は生命の欲望が満たされないことから発する。しかし、それだけではない。たとい生命の欲望が全て満たされても、なお満たされぬものがあるのではないか。そこにこそ人間の真の苦悩があるのではないか。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(4)

金剛石のある生活とない生活、という対比は分かりにくいかもしれない。電気のある生活とない生活、自動車のある生活とない生活、パソコン(スマホ)のある生活とない生活、という対比ならどうだろう。電気も、自動車も、パソコンも知らない所謂「未開人」(archaic man)の生活の輝きは殆ど野生の生命の輝きに等しい。それが人間生活の輝きの原点だとすれば、その輝きは文明(科学技術)の発展とともに増大し、今や「現代人」(modern man)の生活のまばゆいばかりの輝きに至っている。確かに、現代人の生活は飛躍的に便利で快適なものになった。楽になった。もう未開人が味わっていたような生活の過酷な苦労はない。しかし、現代人の生活の輝きは本当に望ましいものなのか。人間にとって本当に理想的な輝きだと言えるのか。未開人の生活の輝きが太陽の光だとすれば、現代人のそれは言わば原子爆弾の光のようなもので、やがて我が身を焼き尽くす運命にあるのではないか。さりとて現代人はもはや未開人の生活には戻れない。現代人の生活からいくら虚飾な輝きを削ぎ落としても、未開人の野生の生命の輝きを取り戻すことはできない。そもそも未開人の野生も、それが人間の生である限り、もはや自然そのものではあり得ない。常にすでに自然から一歩踏み出している。人間にとって、生命から生活への移行は不可避だ。自然の光から人工の光へ。人工の光を生み出すことが、たとい「不要不急の仕事」だとしても、また原爆のような破滅的な光を生み出してしまう危険性を常に孕んでいても、我々はその歩みを止めることはできない。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(3)

私は哲学が自分の仕事だと思っている。もう大学で教えてなどいないし、そもそも論文らしきものを書いて原稿料を戴いたのは一度しかない。到底自ら「哲学者」を名乗る資格はない。けれど、自分の仕事は哲学しかないと思っている。しかし、それは私に限ったことではないだろう。あらゆる人間にとって、哲学は不可避だ。生きていれば、哲学は必要になる。生き続けるために、哲学は必要になる。時に自ら死ぬために哲学を必要とする場合もあるが、それはあくまでも邪道だ。哲学の本道は生を輝かせることにこそある。それは生命の輝きとは違う。生活の輝きとも違う。そうした二つの輝きに比べれば、哲学は「不要不急の仕事」に他ならない。しかし、必要なのだ。私は一生、その必要性を思耕していきたい。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(2)

生命の輝きなくして生活の輝きはあり得ない。どんなに超人的な能力に恵まれた天才も、基本となる生命の輝き(健康)という大前提を欠いてはその類稀なる才能を発揮することはできない。従って、健康の維持もしくは回復を目的とする医療の仕事は絶対的な必要性を有する。しかし、それはあくまでも人生の大前提に関するものであって、そこから始まるであろう生活の輝きにまでは及ばない。勿論、生命の輝きに関わる医療の仕事に比べれば、生活を輝かせようとするのは「不要不急の仕事」にすぎない。ただ、一口に生活の輝きと言っても、食料やライフラインといった基本的な必要から芸能音楽などの娯楽の必要まで実に幅広い。前者は殆ど生命の輝きに関わる根源的な必要だと言ってもいい。「もし馬鈴薯が金剛石より大切になったら人間はもう駄目だ」とは代助(漱石の「それから」の主人公)の言葉だが、金剛石などなくても人は生きていける。むしろ、邪魔だと思う人さえいるだろう。馬鈴薯を生命の輝きの象徴、金剛石を生活の輝きの象徴と考えるならば、前者の根源的必要性を疑う人はいないが、後者の必要性については問題が生じる。金剛石のある生活とない生活、どちらが人間の「本当の生活」なのか。

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章

自分の仕事に不意に自信が持てなくなることがある。その場合の仕事は日々の労働とは質的に異なる。たとい嫌な労働でも、そこには曲がりなりにも給料という意味がある。最低限の意味がある。そして、それは生活には必要な意味だ。しかし、私は生活のために生きているのではない。あくまでも生を輝かせるために生きている。その生を輝かせることが私にとって仕事になる。勿論、生活それ自体の輝きというものはあるだろう。日々真面目に労働し、それなりに余暇を楽しむ生活の輝き。好きな人ができて結婚し、やがて子どもでも生まれれば、そこには家庭の幸福が生まれる。生活の輝きは家庭の幸福に極まると言えるかもしれない。そして一般的には、人々の仕事は自他を問わず生活の輝きを得るためにあると考えられる。しかし、大きな災害や今回のコロナ禍のような状況に陥ると、生活の輝きはおろか、生命の輝きさえ危うくなる。実際、事故や病気で生命の危機に瀕すると、人は医療の仕事に頼らざるを得なくなる。医療の仕事は生命の輝きに関わる根源的に必要とされる仕事だ。しかし、その御蔭で生命の輝きを取り戻せても、それがそのまま生活の輝きになるとは限らない。むしろ、生命と生活の間には質的な断絶があると思われる。それは自殺者の存在によっても証明される。何故、生命の輝きに問題のない人間が「人生は生きるに値しない」などと考えて自殺するのか。生命の輝きがその人の生活の輝きにならないからだ。実にバチアタリなことだ。難病に絶望的に苦しんでいる人にとって、生命の輝きの無駄な放棄は言語道断な所業に他ならない。しかし、それにもかかわらず、生命と生活の間に質的断絶があることは厳然たる事実だ。少なくとも私はそう思い、その断絶の超克をこそ自分の仕事だと考えている。確かに、生命の輝きを目的とする医療の仕事に比べれば、それは「不要不急の仕事」だろう。しかし、私はその必要性を信ずる。そして、その必要性は生活の輝きさえ超えていく。とは言え、不意に自分の仕事に自信が持てなくなることがある。生命の輝き、生活の輝き、そして生の輝き。果たして、こうした諸段階にどんな意味があるのか。

「不要不急の仕事」の必要性

先日テレビを観ていたら、或る人気ミュージシャンが大略次のような発言をしていました。

「今回のコロナ禍で活動の自粛を要請されて、自分のやっている音楽は不要不急なものなんだと改めて思い知らされた。しかし、自分には音楽しかない。音楽が自分の仕事であり生き甲斐なのだ」

音楽に限らず、他の芸術・芸能やスポーツを生業にしている人も、それに誇りを感じていればいるほど、自分の仕事が不要不急である現実に戸惑うでしょう。尤も、単にお金を稼ぐためだけに労働しているのでなければ、それは基本的にあらゆる仕事について言えることです。問題はお金じゃない。全くの無報酬では生計が成り立ちませんが、人は報酬の多寡よりもプライド(やりがい)の有無を重視すると思われます。

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて死なむと思ふ

啄木はそう歌いましたが、その思いに共感する人は決して少なくないでしょう。「こころよくはたらく仕事」とは楽な仕事でもなければ儲かる仕事でもない。あくまでもプライドのもてる仕事なのです。報酬の多寡だけで仕事の価値を判断するのは短絡でしかありません。

ところで、相変わらずドラマ中毒から癒えぬ私は毎日様々なドラマを観続けていますが、その主人公の大半はプライドのもてる仕事に従事しています。その筆頭が医師、看護師、薬剤師といった医療の仕事であり、そのドラマは常に不要不急とは正反対の緊迫した現場で展開しています。つまり、人の生命(いのち)を救う医療の仕事は人々から最も必要とされる仕事であり、そこに仕事としての最高のプライドが得られるのは当然です。端的に、医療こそ最高の仕事だと言ってもいい。実際、成績優秀なお子様たちは判で押したように医学部を目指すのが通例となっており、医師になれてもなれなくても、医療が万人にとって必要不可欠な尊敬すべき仕事であることは間違いありません。勿論、現実社会は玉石混交、世の中には悪徳医師もいれば尊敬できない医療現場も少なくないでしょう。しかし、医療そのものの価値(必要性)を疑う人は皆無であり、それは永久に憧れの仕事なのです。

かく言う私も例外ではなく、生命(人命に限らず)を救うことに一生を捧げる医師のドラマなどを観たりすると、その仕事ぶりに憧憬を禁じ得ません。無条件に他者のために尽くし、他者からも無条件に必要とされる仕事には、間違いなく生の充実があるからです。できれば自分も赤ひげ先生のような仁術の医師になり、多くの人から必要とされる充実した人生を送りたい――これは決して私だけの願いではないでしょう。しかし、それにもかかわらず、結局私は医師にならなかった。私の能力ではなりたくてもなれなかったに違いありませんが、万一その可能性があったとしても、医師は私にとってついに最高の仕事ではなかったからです。誤解のないように断っておきますが、私は医師になれない自己を正当化するつもりもなければ、医師の仕事の重要性にケチをつけるつもりもありません。あくまでも私の求める最高の仕事は、医師の仕事が最高である次元とは質的に全く異なる次元に見出されるということなのです。では、それは如何なる次元なのか。

かつてサルトルは飢えて死んでいく子どもたちにとって自分の小説「嘔吐」は無力だと語りました。この嘆きは決してサルトル一人のものではなく、全ての心ある人たちに通底する問題を孕んでいます。しかし、「嘔吐」は本当に無力なのか。確かに今目の前で飢えて死につつある子どもに最も必要とされるのは医師であり、直接的には食べ物や薬でしょうが、それによってその子を救えても、その救いは問題の根源的な解決にはならないと思われます。だからと言って、目の前で苦しんでいる子を救うことが無意味になるわけではなく、むしろ絶対に必要なことですが、そうした必要性と「飢えて死んでいく子どもが一人もいなくなる世界の実現」という根源的解決の必要性との間には質的断絶があるのです。後者は「善きサマリア人」になりきれぬ次元の必要性だと言ってもいいでしょう。言い換えれば、苦悩する人間の問題を根源的に解決するためには、我々は「善きサマリア人」とは異なる次元を要請する、ということです。そもそも何故「飢えて死んでいく子ども」がこの世界に生じるのか。もはや自然環境や食糧生産技術の問題ではないとすれば、それは飢餓と飽食という貧富の格差を生み出す人間社会の問題だと考えられます。これはサルトルの言う「アンガジュマン」(社会参加)にも通じますが、芸術家のみならず、全ての人間に要請される問題です。勿論、自分と家族、親しい知人が飢えていなければ、見知らぬ場所で見知らぬ誰かが飢えていても関係ないとするのも一つの生き方です。と言うより、私も含めて殆どの人は世界の片隅で飢えて死んでいく人がいても気づかぬ振りをして日常を生きています。しかし、それが偽らざる現実だとしても、その現実が人間の理想ではないことは明白です。我々の理想はあくまでも「全世界の人間の飢えて死んでいく不幸からの解放」に他なりません。そして、その理想実現の道の一つがアンガジュマンなのです。「善きサマリア人」は目の前で苦しんでいる人を決して見捨てませんが、その慈悲の行いは未だ真のアンガジュマンとは言えません。いや、確かにそれも一つのアンガジュマンには違いありませんが、問題を根源的に解決するためには更に「精神世界の変革」という新たなアンガジュマンが要請されるのです。例えば、それは医学生であった魯迅が医学を断念せざるを得なかった決断に見出される要請です。彼は書いています、「私は、医学など肝要ではない、と考えるようになった。…病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。」この部分だけを抜き書きすると魯迅の真意に関して誤解を招くかもしれませんが、医学が救える不幸と医学が救えぬ不幸の間には質的断絶があることは事実です。大雑把に、前者を水平の次元における不幸だと言えば、後者は垂直の次元における不幸だと言えるでしょう。こうした質的断絶を前提にすれば、サルトルの「嘔吐」は水平の次元では無力かもしれませんが、垂直の次元では決して無力ではないのです。

何れにせよ、医療の仕事を筆頭に、水平の次元における不幸を救おうとする仕事が不要不急の対極にあることは明らかです。それは現在のコロナ禍によって一層浮き彫りになり、失われた日常生活を取り戻すことが切実に求められています。当たり前に働いて、当たり前に余暇を楽しむ毎日です。しかし、その失われた日常生活は本当にそんなに素晴らしいものであったのか。確かに、身体の健康は言うに及ばず、経済(economy)においても環境(ecology)においても健康な毎日は幸福に値する生活でしょう。すなわち、身体の健康を大前提として、衣食住の欲求が満たされる平穏な生活こそ水平の次元における幸福の基本なのです。意味のある仕事、無条件にプライドがもてる仕事は、全てこの基本に関係しています。冒頭に述べた音楽の仕事などは、日常生活の基本が満たされた後に初めて意味あるものとなり、その意味において不要不急なのです。しかし、商業(流行)音楽はともかく、芸術の仕事は人々が日常生活の余暇に楽しむためだけにあるものなのでしょうか。もしそうなら、人間に垂直の次元は不必要になります。実際、日々の生活において垂直の次元の必要性を意識する人など殆どいないのが現実です。人々の生活の苦しみは専ら水平の次元において生じるからです。一般的には、垂直の次元に関心を抱く人は一部の哲学好きなインテリか、さもなければオカルト趣味の宗教フリークに限られると言えるかもしれません。たとい垂直の次元に人間のなすべき仕事が認められたとしても、それは多くの人たちにとって余暇の娯楽としての音楽同様「不要不急の仕事」でしかないでしょう。しかし、それは致命的な誤解です。水平の次元における不幸を根源的に解決するためには、垂直の次元における仕事が必要不可欠なのです。その必要性について、更に具体的に考えたいと思います。