「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(6)
太宰は「藁一すぢの自負」などと謙遜しているが、これはどうして大変な自負だ。若い頃、私もこうした言葉に感動して、まるで自分が釈迦かイエスにでもなったかのように、人間の苦悩を極め尽くさねばならぬ、などと思ったものだ。安吾にも似たような思いがあったらしく、「風と光と二十の私と」という作品に次のような場面がある。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
しかし、人間の苦悩を極めるとは如何なることか。そもそもそれは可能なのか。太宰も安吾も名家の出で、おそらく「飢えの苦しみ」など知らずに育ったと思われる。身体的にも、後にヒロポンなどの薬物中毒に苦しむことになるにせよ、二人とも大柄で元来は健康体であったのではないか。従って、殊に憂い顔の太宰など、苦悩の権化を気取っていても、明日食べるコメもないような赤貧とか不治の病に苦しんでいる人たちからすれば、「いくら深刻ぶっても、文学者の苦悩なんかチャンチャラおかしい」ということになりかねない。そこには、飢えて死んでいく子どもたちに対して「嘔吐」は無力だと言うサルトルの嘆きと同様の事情がある。必要とされるのは食べ物やお金、あるいは病を治す薬などであって、文学や哲学ではない。飢餓とか病気といった生命の危機に対して文学や哲学は無力だ。それらは「不要不急の仕事」に他ならない。しかし、文学や哲学が不要不急であるような次元に人間の理想があるだろうか。生命が脅かされる不幸に苦しむ人は幸福になりたいと願う。飢えが満たされ、病が癒える。心身ともに健康であることの幸福。ところが、その幸福が新たな苦悩を分泌し始める。それが人間の根源的な苦悩となる。