新・ユートピア数歩手前からの便り -95ページ目

「不要不急の仕事」の必要性

先日テレビを観ていたら、或る人気ミュージシャンが大略次のような発言をしていました。

「今回のコロナ禍で活動の自粛を要請されて、自分のやっている音楽は不要不急なものなんだと改めて思い知らされた。しかし、自分には音楽しかない。音楽が自分の仕事であり生き甲斐なのだ」

音楽に限らず、他の芸術・芸能やスポーツを生業にしている人も、それに誇りを感じていればいるほど、自分の仕事が不要不急である現実に戸惑うでしょう。尤も、単にお金を稼ぐためだけに労働しているのでなければ、それは基本的にあらゆる仕事について言えることです。問題はお金じゃない。全くの無報酬では生計が成り立ちませんが、人は報酬の多寡よりもプライド(やりがい)の有無を重視すると思われます。

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて死なむと思ふ

啄木はそう歌いましたが、その思いに共感する人は決して少なくないでしょう。「こころよくはたらく仕事」とは楽な仕事でもなければ儲かる仕事でもない。あくまでもプライドのもてる仕事なのです。報酬の多寡だけで仕事の価値を判断するのは短絡でしかありません。

ところで、相変わらずドラマ中毒から癒えぬ私は毎日様々なドラマを観続けていますが、その主人公の大半はプライドのもてる仕事に従事しています。その筆頭が医師、看護師、薬剤師といった医療の仕事であり、そのドラマは常に不要不急とは正反対の緊迫した現場で展開しています。つまり、人の生命(いのち)を救う医療の仕事は人々から最も必要とされる仕事であり、そこに仕事としての最高のプライドが得られるのは当然です。端的に、医療こそ最高の仕事だと言ってもいい。実際、成績優秀なお子様たちは判で押したように医学部を目指すのが通例となっており、医師になれてもなれなくても、医療が万人にとって必要不可欠な尊敬すべき仕事であることは間違いありません。勿論、現実社会は玉石混交、世の中には悪徳医師もいれば尊敬できない医療現場も少なくないでしょう。しかし、医療そのものの価値(必要性)を疑う人は皆無であり、それは永久に憧れの仕事なのです。

かく言う私も例外ではなく、生命(人命に限らず)を救うことに一生を捧げる医師のドラマなどを観たりすると、その仕事ぶりに憧憬を禁じ得ません。無条件に他者のために尽くし、他者からも無条件に必要とされる仕事には、間違いなく生の充実があるからです。できれば自分も赤ひげ先生のような仁術の医師になり、多くの人から必要とされる充実した人生を送りたい――これは決して私だけの願いではないでしょう。しかし、それにもかかわらず、結局私は医師にならなかった。私の能力ではなりたくてもなれなかったに違いありませんが、万一その可能性があったとしても、医師は私にとってついに最高の仕事ではなかったからです。誤解のないように断っておきますが、私は医師になれない自己を正当化するつもりもなければ、医師の仕事の重要性にケチをつけるつもりもありません。あくまでも私の求める最高の仕事は、医師の仕事が最高である次元とは質的に全く異なる次元に見出されるということなのです。では、それは如何なる次元なのか。

かつてサルトルは飢えて死んでいく子どもたちにとって自分の小説「嘔吐」は無力だと語りました。この嘆きは決してサルトル一人のものではなく、全ての心ある人たちに通底する問題を孕んでいます。しかし、「嘔吐」は本当に無力なのか。確かに今目の前で飢えて死につつある子どもに最も必要とされるのは医師であり、直接的には食べ物や薬でしょうが、それによってその子を救えても、その救いは問題の根源的な解決にはならないと思われます。だからと言って、目の前で苦しんでいる子を救うことが無意味になるわけではなく、むしろ絶対に必要なことですが、そうした必要性と「飢えて死んでいく子どもが一人もいなくなる世界の実現」という根源的解決の必要性との間には質的断絶があるのです。後者は「善きサマリア人」になりきれぬ次元の必要性だと言ってもいいでしょう。言い換えれば、苦悩する人間の問題を根源的に解決するためには、我々は「善きサマリア人」とは異なる次元を要請する、ということです。そもそも何故「飢えて死んでいく子ども」がこの世界に生じるのか。もはや自然環境や食糧生産技術の問題ではないとすれば、それは飢餓と飽食という貧富の格差を生み出す人間社会の問題だと考えられます。これはサルトルの言う「アンガジュマン」(社会参加)にも通じますが、芸術家のみならず、全ての人間に要請される問題です。勿論、自分と家族、親しい知人が飢えていなければ、見知らぬ場所で見知らぬ誰かが飢えていても関係ないとするのも一つの生き方です。と言うより、私も含めて殆どの人は世界の片隅で飢えて死んでいく人がいても気づかぬ振りをして日常を生きています。しかし、それが偽らざる現実だとしても、その現実が人間の理想ではないことは明白です。我々の理想はあくまでも「全世界の人間の飢えて死んでいく不幸からの解放」に他なりません。そして、その理想実現の道の一つがアンガジュマンなのです。「善きサマリア人」は目の前で苦しんでいる人を決して見捨てませんが、その慈悲の行いは未だ真のアンガジュマンとは言えません。いや、確かにそれも一つのアンガジュマンには違いありませんが、問題を根源的に解決するためには更に「精神世界の変革」という新たなアンガジュマンが要請されるのです。例えば、それは医学生であった魯迅が医学を断念せざるを得なかった決断に見出される要請です。彼は書いています、「私は、医学など肝要ではない、と考えるようになった。…病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。」この部分だけを抜き書きすると魯迅の真意に関して誤解を招くかもしれませんが、医学が救える不幸と医学が救えぬ不幸の間には質的断絶があることは事実です。大雑把に、前者を水平の次元における不幸だと言えば、後者は垂直の次元における不幸だと言えるでしょう。こうした質的断絶を前提にすれば、サルトルの「嘔吐」は水平の次元では無力かもしれませんが、垂直の次元では決して無力ではないのです。

何れにせよ、医療の仕事を筆頭に、水平の次元における不幸を救おうとする仕事が不要不急の対極にあることは明らかです。それは現在のコロナ禍によって一層浮き彫りになり、失われた日常生活を取り戻すことが切実に求められています。当たり前に働いて、当たり前に余暇を楽しむ毎日です。しかし、その失われた日常生活は本当にそんなに素晴らしいものであったのか。確かに、身体の健康は言うに及ばず、経済(economy)においても環境(ecology)においても健康な毎日は幸福に値する生活でしょう。すなわち、身体の健康を大前提として、衣食住の欲求が満たされる平穏な生活こそ水平の次元における幸福の基本なのです。意味のある仕事、無条件にプライドがもてる仕事は、全てこの基本に関係しています。冒頭に述べた音楽の仕事などは、日常生活の基本が満たされた後に初めて意味あるものとなり、その意味において不要不急なのです。しかし、商業(流行)音楽はともかく、芸術の仕事は人々が日常生活の余暇に楽しむためだけにあるものなのでしょうか。もしそうなら、人間に垂直の次元は不必要になります。実際、日々の生活において垂直の次元の必要性を意識する人など殆どいないのが現実です。人々の生活の苦しみは専ら水平の次元において生じるからです。一般的には、垂直の次元に関心を抱く人は一部の哲学好きなインテリか、さもなければオカルト趣味の宗教フリークに限られると言えるかもしれません。たとい垂直の次元に人間のなすべき仕事が認められたとしても、それは多くの人たちにとって余暇の娯楽としての音楽同様「不要不急の仕事」でしかないでしょう。しかし、それは致命的な誤解です。水平の次元における不幸を根源的に解決するためには、垂直の次元における仕事が必要不可欠なのです。その必要性について、更に具体的に考えたいと思います。

不要不急の毛呂山

毛呂山とは今の新しき村がある場所です。詳しく言えば、埼玉県入間郡毛呂山町ですが、御多分に漏れずそこは限界集落化しており、「新しき村」としての活動など殆ど何もしていないのが現状です。しかし、一昨年(2018)の「新しき村創立百年」を期に、もう一度毛呂山を「新しき村」として再生させようという機運が高まり、「日々新しき村の会」が結成されました。以後、様々な改革案を村に提示してきましたが、ことごとく難色を示され、結局十五年前の「新生会」と同じ轍を踏んで停滞を余儀なくされています。かくして今、「新しき村」は消滅の危機に瀕しているわけですが、今一度最後の「改革の提言」を毛呂山の村に訴えようということで、私も下記の文章を書いてみました。これが毛呂山に対する今の私の偽らざる心境です。

不要不急の毛呂山

 

現代のパンデミック、コロナ禍においてはソーシャルディスタンスが声高に叫ばれ、三密を伴う不要不急の場所への外出は極力自粛するように要請されている。しかし、不要不急の場所とは何か。一般的には日常生活の維持に必要のない場所であり、具体的には酒場や遊園地といった娯楽の場だと考えられる。では、毛呂山の村はどうか。

 

言うまでもなく、そこに住んでいる人たちの生活の場としては必要不可欠だが、それ以外の人々には不要不急の場所だということになる。尤も、毛呂山の村は三密とは程遠い場所なので、娯楽の場として散歩などで訪れても一向に構わない。とは言え、特に一般の人々がわざわざ訪れる必要はなく、娯楽の場としての魅力は皆無に等しい。そこは単に数名の奇特な人たちが「新しき村」の名の下に曲がりなりにも共同生活を営む生活の場にすぎない。しかし、本当にそうか。それでいいのか。毛呂山の村が「新しき村」であるならば、そこは単なる生活の場ではない筈だ。人にはそれぞれ自分の生活の場があり、そこに住んでいない他人には基本的に無縁の地となるが、毛呂山の村はその住人だけのものではないと私は思う。何故か。「新しき村」としての毛呂山の村は、そこに住む人たちの生活の場である以上に、「人間が本当に人間らしく生きる」という理想を実現するための運動の場であるべきだからだ。

 

ところで、私は折に触れて今の毛呂山の村は「腐っている」と非難してきた。真面目に農業を営んでいる人たちの生活の場を「腐っている」などと言うのは暴言だと不快に感じる人も少なくないだろう。しかし、毛呂山の村に限らず、私は誠実に生活している人の場を冒涜するつもりもなければ、その資格もないと思っている。逆に言えば、どんなに貧しい村でも、そこで人々が誠実に生活しているならば、その場所を「腐っている」などとは決して思わないだろう。むしろ、いくら経済的に豊かな都市であっても、その豊かさが不正に基づくものであるならば、私はその場所を「腐っている」と思うに違いない。従って、私が毛呂山の村を敢えて「腐っている」と断言するのは、そこが経済的に行き詰っている貧しい村だからではなく、あくまでも人間の究極的な理想を実現する運動の場であるべきなのに、その本来の使命を忘れた「理想なき生活の場」と化しているからに他ならない。ただ「生活の場」としてだけ存続する毛呂山はもはや「新しき村」ではない。

 

とまれ、今の毛呂山の村が単に数人が農業を中心に生活しているだけの不要不急の場に堕しているのは厳然たる事実だ。幸い「新しき村創立百年」を機に、こうした醜悪なる現実を変革するために「日々新しき村の会」が結成された。端的に言えば。それは毛呂山の村を今一度「理想実現の運動体」として甦らせることを目的とする。ただし、誤解のないように断っておくが、これは生活の場を軽視することでは全くない。生活の場を「肉体の糧を得るための活動領域」、運動の場を「魂の糧を得るために活動領域」と解するならば、その二つを相即させることこそが「新しき村」の使命に他ならない。余談ながら、生活の場と運動の場の間に娯楽の場というものがある。大雑把に言えば、現代社会は労働と娯楽の循環から成っていると言える。すなわち、殆どの人は食うために働き、その憂さを晴らすために娯楽の場を必要としている。実際、余暇に酒場や遊園地で楽しい時間を過ごすことが苦しい日常の食うための労働への活力になっている人も少なくないだろう。精一杯働いた後で、思い切り遊ぶ。そこに生活の喜びを見出す人生観は確かにある。しかし、実篤は言っている、「食うために働く人が一人でもいる限り、その世界は未だ理想ではない」と。これは一体何を意味するのか。人はパンのみにて生くるにあらず。さりとてパンなくしては生きられない。新しき村はこうした人生の二律背反と格闘してきたのであり、その百年に及ぶ歴史はパン(肉体の糧)を重視する農業現実派とパン以上の何か(魂の糧)を追求する芸術理想派との軋轢の連続だったと言える。総じて言えば、前者が村内で生活し、後者は村外での活動を余儀なくされるという二極構造という様相を呈するが、新しき村の使命は本来、そうした相反する二極のcoincidentia oppositorumにこそあるのだ。ラスキン・モリスに即して言えば、その使命は「生活の芸術化」に他ならない。

 

さて、新型コロナウイルスの影響で、大は東京オリンピックから小は町内の夏祭りや家族の小旅行まで、様々なイベントが中止を余儀なくされている。おそらく、その当事者にとっては規模の大小など関係なく、それぞれの中止に際して流された悔し涙にはそれなりの重さがあったに違いない。とは言え、オリンピックで金メダルを取るために血の滲むような猛練習に耐えてきた選手たちの悔し涙、あるいは甲子園出場だけを夢見て頑張ってきた高校球児たちの悔し涙には格別の重さがあるだろう。しかし、その極めて重い悔し涙にもかかわらず、大会は中止された。何故か。オリンピックにせよ、甲子園大会にせよ、どんなに世間の注目を集める大イベントであっても、結局は「不要不急」だと見做されたからだ。果たしてこの判断は正しかったのか。鄙見によれば、この問いは当事者と観客という二つの観点に分けて考えるべきだ。すなわち、当事者にとっては自らの生き甲斐を賭けたイベントでも、観客にとっては娯楽の場にすぎない、ということだ。オリンピックや甲子園が「不要不急」と見做されるのは、あくまでも観客の観点からに他ならない。

 

しかしながら、何が「不要不急」でないかという判断は、本来極めて主体的な問題であるべきだ。カミュは「シーシュポスの神話」の冒頭で「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するかどうかを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのだ」と述べているが、これに準じて言えば、自らの人生を賭けるに値しないものは全て「不要不急」ということになるだろう。つまり、観客という客観的な立場は二次的な問題にすぎず、あくまでも当事者の主体的な生き方が問われる、ということだ。勿論、大会は選手と観客から構成されるものであり、どちらが欠けても成立しない。従って、観客の安全を考慮して大会が中止になるのはやむを得ないとしても、それと各種オリンピック競技や野球が「不要不急」であるかどうかという判断は別問題だと思われる。極論すれば、もしスポーツが本当に自分の全実存を賭けるに値する絶対的なもの、キルケゴールの言う「自分がそのために生きかつ死ぬことができる主体的真理」を反映するものであるなら、その断念は人生の虚無化を意味するに違いない。言うまでもなく、スポーツが絶対的なものである道理はなく、どんなに熱中しても、スポーツに殉じるなどということは通常あり得ない。尤も、足の故障で満足に走れなくなったマラソン選手が自殺したというような例はあるが、そのような不幸な場合でも、マラソンに殉じたとは言えないのではないか。同様に、失恋自殺や受験に失敗して自殺する場合でも、そこに絶対的なものがあるとは思えない。結局、厳密に言えば、水平的な日常世界には「不要不急」ではない絶対的なものなど存在しないと思われる。では、「新しき村」はどうか。

 

周知のように、六月に予定されていた「新しき村を考える会」がコロナ禍で延期され続けている。これは多くの人にとって「新しき村」の将来が「不要不急」の問題だと見做されている証拠に他ならない。しかし、本当にそうか。それでいいのか。少なくとも私はそうは思わない。先述したように、「新しき村」は単なる一農村の存続といった水平的な問題に尽きるものではなく、それ以上に(コロナ禍においても)「人間が本当に人間らしく生きる」理想を追求するという垂直的課題に取り組む場所であるべきだからだ。そこにティリッヒのいう「究極的関心」(ultimate concern)があるか否か、それが「新しき村」の問題が「不要不急」かどうかを決定するに違いない。もし「新しき村」に対して究極的関心がないなら、そもそも無理に「新しき村」について考える会など開く必要さえないだろう。

 

何れにせよ、今我々が為すべきことは不要不急の場所と化した毛呂山の村を再び人間の究極的な理想実現に関心を抱く全ての人が結集する「不可欠の拠点」にすべきことに他ならない。村内・村外を問わず、それこそが新しき村の喫緊の課題だと私は信ずるが、皆さんはどうか。毛呂山の村は単なる生活の場でいいのか。もしその現実に甘んじると言うなら、そこで生活し続ける意味は何か。皆さんの率直なご意見をお伺いしたい。

 

どうしようもない私の違和感

「新しい葡萄酒には新しい革袋を!」などと常々主張しているものの、私はその根源において全く古い人間なのかもしれない。「新しきもの」を熾烈に求めていることは間違いありませんが、「古きもの」も棄て切れないからです。この矛盾した心性は「新しき村」の理想とも密接に関係しています。繰り返しになりますが、そもそも「新しき村」という表現は撞着語法(oxymoron)に他なりません。つまり、「冷たい炎」という表現における「冷たい」と「炎」の関係のように、「新しき」と「村」の関係は矛盾しているのです。「新しき社会」なら矛盾もなくて無難なのに、どうして実篤は「新しき村」という表現を選んだのか、不勉強で未だ調べていませんが、村とは本来古いものであり、新しくなった村はもはや村ではないでしょう。実際、農村がその古い体質から脱却していくことは近代化を受け容れることに他ならず、その生活様式は都市と大差ないものになりました。今後も農業の機械化・IT化が更に進めば、農村におけるムラ的要素は確実に減少していくものと思われます。それが「新しき村」なのか。そう考えることも可能ですが、私には違和感があります。確かにムラ的要素には「古きもの」がこびりついていますが、さりとて近代化の波によってきれいさっぱり洗い流されていいとは思い切れないからです。

言うまでもなく、私の違和感は「新しい農村」に限りません。古い商店がスーパーマーケットやコンビニエンスストアに「進化」していく「新しい都市」の在り方にも違和感を覚えます。この「進化」は今やネットショップにまで達し、自宅から一歩も外に出ることなく自分の欲しいモノが手に入る時代になりました。果たしてこれは幸福なことなのか。他者との関係が減少すれば個人の自由が増大するのは理の当然です。自分との関係だけに集中できるからです。他者に干渉されずに自分の好きなように生活する、そこに現代人の幸福があることは間違いないでしょう。しかし、それが人間の本当の幸福なのか。

ここで視点を一転させて、古い商店街について考えてみます。もし「今のスーパーやコンビニは味気ない。昔の商店街には人情があった」という人がいたらどうでしょうか。彼は現代人の共感を得ることができるでしょうか。難しいところです。「三丁目の夕日」で描かれるような昭和三十年代の世界を懐かしく思うことはあっても、それは所詮過ぎ去った時代へのノスタルジアにすぎず、結局のところ人情は利便性に勝てません。それは安吾が「生活の必要」を喝破している通りです。いくら人情が大切だと言っても、今時誰が肉や醬油の面倒な量り売りを歓迎するでしょうか。忙しい現代人の「生活の必要」は人と人が触れ合う人情の商店街よりも安くて便利なスーパーやコンビニの方を選ぶのです。これは正しい選択であり、古い商店街から人情などというムラ的要素が消え去って、そこに利便性や機能性だけが追求されていくことは商店の「進化」と考えることもできます。この「進化」は何も間違っていません。しかし、違和感があります。

ちなみに「生活の必要」に関連して思い出しましたが、私は昨夜「不要不急の銀河」というドラマをテレビで観ました。これはコロナ禍におけるドラマ制作の苦闘のドキュメンタリーを兼ねた番組でしたが、「銀河」という名のスナックをめぐる悲喜劇(脚本は又吉直樹)はそれなりに興味深い問題を孕んでいました。それは三密の元凶とも言うべきスナックの存在と不要不急との関係の問題です。ドラマのスナック経営者によれば、本当かどうか定かではありませんが、「日本にはコンビニによりもスナックの方が数多く、コンビニのない僻地でもスナックはある」そうです。つまり、それだけスナックは人々に親しまれ必要とされている、ということです。では、スナックの必要性とは何か。それは人と人との触れ合い、すなわちスナックへ行けば見ず知らずの人と出会い、すぐに仲良くなって一緒にカラオケを楽しめるようになる関係性です。鄙見によれば、これは正にムラ的要素であり、スナックにおいて一つの家族が形成されていると考えられます。ところが今回のコロナ禍によって営業自粛を余儀なくされ、近隣住民からも脅迫に等しい苦情が突きつけられます。これはスナックが三密の元凶であるとの認識からすれば正しい要請だと言えます。誰も何も間違ってはいない。けれども、やはり違和感があります。スナックは本当に不要不急の場所なのか。スナックに限らず、他の夜の街のお仕事、プロスポーツの観戦、音楽のコンサートや絵画などの展覧会、そうしたものは人間にとって本当に不要不急なのか。一体何を基準にして不要不急が決められるのか。私の違和感は尽きません。

 

マスクを捨てよ、街をつくろう

かつて寺山修司は「書を捨てよ、町へ出よう」と言いましたが、それが六十年代後半から七十年代にかけての時代精神(Zeitgeist)を反映していたことは明白です。同様の反映はブルース・リーの「Don’t think. Feel it!」という叫びへの共感にも見出されます。しかし、そのようにして町へ出て来た人たちは一体何をしたのか。町で幸福をつかめたのか。確かに、その後の高度経済成長を振り返れば、町は大衆にとってパラダイスになったと言えます。しかし、パラダイスは本当に人間を幸福にしたでしょうか。いや、たとい大衆の幸福が事実だとしても、パラダイスにおける幸福が人間の究極的な理想なのでしょうか。私個人は甚だ疑問に思いますが、大衆は理想よりも幸福を選ぶかもしれません。しかし、パラダイスが長続きしないのは厳然たる事実です。どんな好況もやがて不況に転じていくように、パラダイスのバブルが弾けるのは人間社会の運命に他ならないからです。その意味において、寺山の「書を捨てよ、町に出よう」という言葉は谷川雁の「東京へゆくな、ふるさとをつくれ」という言葉と逆対応しなければなりません。つまり、パラダイスとしての町は魂のふるさとの街として生まれ変わるべきなのです。

さて、パラダイスの運命は町へ出ることの自粛を余儀なくされている今回のコロナ禍にも如実に現れています。宗教的に表現すれば、新型コロナウイルスはパラダイスの享楽が渦巻くソドムを焼き払う神の怒りの火だと言えるでしょう。実際、今、新宿などの町に出て、盛り場の享楽に浮かれ騒いでいる若者がいるとすれば、それは神をも恐れぬ愚か者の所業だと見做されます。逆に言えば、常識ある善良なる市民は四六時中マスクを着用し、町に出ないで極力ステイホームすることを自らの義務と心得ています。これが現在の「正しい生活」の在り方であることに議論の余地はありません。しかし、それにも拘わらず、私はこの「正しい生活」に対する違和感を禁じ得ないのです。

「正しい生活」に対する違和感とは、論理的に言えば、間違った生活への親和感になりますが、そういうわけでもないのです。確かに、マスクもしないでソーシャルディスタンスも無視する生活は現状では明らかに間違っており、世間はそれを許しません。私はそれを認めます。どこかの国の大統領や先の東京都知事選の泡沫候補のように「コロナは風邪だ」と嘯(うそぶ)いてマスクの着用を拒否するつもりはないのです。しかし、マスクの着用が正しいことを重々承知の上で、私は敢えて「マスクを捨てよ」と言いたい。これは全く無茶苦茶な主張であり、誰も理解できないでしょう。私としても、殆ど誰の目にも触れないこの場所だからこそ「マスクを捨てよ」などという暴言を吐いているのであり、これが誰かに理解されるとは思っていません。私はただ、皆が判で押したようにマスクをして他者との関係を遮断しようとする「正しい生活」への違和感を率直に表明しているだけです。

同様の違和感は今回のコロナ禍以前から様々な場面で表面化しています。例えば、高校野球における投手の球数や延長戦の制限です。これについては以前にも述べたことがありますが、そうした高校球児の健康に配慮した新たな措置は間違っていません。かつては一人のエースが地方予選から連投に次ぐ連投で肩を酷使することが美談とされ、たといその甲斐なく甲子園で優勝できなかったとしても、そうした死に物狂いの姿は大きな感動を呼びました。しかし今は、単に無理を重ねて健康を害するだけの愚かな行為でしかなく、むしろ世間の嘲笑の的になっています。おそらく、これは正しい変化でしょう。何事も健康第一。常に若者たちの体調を科学的に管理し、決して無理をさせないことは望ましいことです。しかし、私には違和感があります。

また、最近私は新宿歌舞伎町についてのドキュメンタリーをテレビで観ましたが、国家戦略特区に指定されて新たなエンターテインメントの町として再開発が進む現状に大きな違和感を覚えました。これも一般的な理解を超えた違和感でしょう。ヤクザに代表されるような暴力が排除され、薄汚い路地も整理されて「キレイで安全な町」に生まれ変わっていくことが悪い道理などなく、むしろ歓迎すべきことです。「キレイで安全な町」は正しい。私とて反社会的勢力や不潔さを肯定するつもりはありません。しかし、「ドブネズミの美しさ」が排除されることに違和感を禁じ得ないのです。

他にも、禁煙社会に対する違和感もあります。尤も、私はタバコを吸わず、周囲で誰かが喫煙していると途端に頭痛に襲われるので、全面禁煙は歓迎すべきことなのですが、それでも喫煙者を排除していく社会には違和感があります。全く矛盾していますが、この違和感はどう仕様もありません。

何れにせよ、最近、私が求めている理想社会はどうも「正しい社会」とは違うような気がしてきました。では、不正がはびこる社会を容認するのかと言えば、勿論違います。正義は貫かれねばならない。しかし、本当の正義は「正しい社会」にはないのではないか。全く支離滅裂なことですが…。

 

コロナ禍における新しいライフスタイル

私は最近、「故郷喪失」と題する次のような小文を書きました。

 

今回のコロナ禍で露呈した問題の一つに故郷喪失があります。単純にホームレスの問題だと言ってもいい。ただし、これは貧しい失業者だけの問題ではありません。立派な建物としてのハウスはあっても、そこはもはや魂の安らぎが得られるホームではなくなっている人たちも少なくないでしょう。極端な話、豪邸に住む大金持でもホームレスであることに苦しんでいる場合だってあります。行き場がなくてゲームセンターなどを彷徨っている中高生から帰宅恐怖症で盛り場を飲み歩いている中高年のサラリーマンまで、現代人は潜在的にホームを求めていると言えます。では、ホームとは何か。それは「魂のふるさと」に他なりません。しかし、この世俗化された世界のどこに「魂のふるさと」があるのでしょうか。日本の高度経済成長が正に始まろうとしていた時、或る詩人が「東京へゆくな ふるさとを創れ」と歌って熱い共感を得ました。東京とはお金さえあれば殆ど何でも手に入る近代都市の象徴であり、様々な快楽装置に満ちたパラダイスです。我々はそうした東京を一概に否定するつもりはありませんが、人間の理想はそれに尽きるものではないと確信しています。とは言え、アルカディアの如きふるさと、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の古きよきふるさとは近代化の大波に呑み込まれて失われてしまいました。とすれば、我々は自身の理想とする「魂のふるさと」(祝祭共働態)を新たに創るしかないでしょう。その新しきふるさとこそ「新しき村」なのです。共にその実現のために汗を流そうではありませんか。

相変わらずの大風呂敷を広げれば、私はこうしたホームづくりを自らのライフワークにしたいと思っていますが、新型コロナウイルスのパンデミック以来、世の中の風潮はそれに対する逆風の様相を呈しています。逆風? むしろ「ステイホーム」の風潮は順風ではないかと訝しく思われる人の方が多いかもしれません。しかし、「ステイホーム」は3密を回避するために他者との距離を極力とる「ソーシャルディスタンス」と表裏一体であり、他者との関係を断って閉じこもるホームは私が求めている「ホーム」とは質的に全く異なります。端的に言えば、最近の「ステイホーム」が閉鎖的なホームであるとすれば、「新しき村」はあくまでも開放的なホーム、すなわち自己と他者が自由に交通するホームであるべきなのです。勿論、そうした自由な交通を抑制する「ソーシャルディスタンス」はこの緊急事態を乗り切るために余儀なくされた必要不可欠な措置であることは重々承知しているつもりです。誰も好き好んで「ソーシャルディスタンス」に従っているわけではありません。しかし、マスコミなどによってそれが新しいライフスタイルであるかのように喧伝される現状は何かおかしいと思わずにはいられません。それを排除の論理に対する違和感と言うと誤解を招くでしょうか。確かに、新型コロナウイルスは我々の人体にとって脅威であり、他者との接触を極力排することで、その侵入を遮断することは重要なことです。しかし、より重要なことは、たといウイルスに侵入されても、それに打ち勝つ力、すなわち免疫力を高めることではないでしょうか。

これはかつてO157が猛威を振るった時に言われたことですが、その原因の一端は猫も杓子も抗菌・無菌を有難がるキレイ過ぎる日本の環境にあるという意見がありました。つまり、様々な雑菌が殆ど排除された環境だからこそ、そこはO157の独り舞台と化し、思う存分猛威が振るえる状態になったということです。だからと言って雑菌がウヨウヨしている不潔な環境が推奨されるわけではなく、不潔より清潔な環境が望ましいのは当然です。しかし、体内に寄生虫がいたり洟垂れ小僧の袖口がテカテカに光っていた時代には花粉症に代表されるようなアレルギーに苦しむ人も少なかったのは事実です。また、田圃などの農場においても、様々な虫が乱舞している環境では害虫とその天敵のバランスも自然に維持されていたのに、農薬でイキモノのいない一種の無菌状態が確立されると、逆に特定の病気が周囲を席巻するようになるそうです。今回のコロナ禍においても、恐るべきウイルスそのものの遮断もさることながら、その暴走を許さないような環境を再構築することの方が肝要だと思うのです。誤解と非難を恐れずに言えば、それはウイルス並びにウイルスを媒介する他者との関係を排除するのではなく、むしろその関係を再構築することに他なりません。

言うまでもなく、私は医療の専門家でもなければウイルスの研究者でもないので、「ソーシャルディスタンス」に対する違和感は単に私の致命的な無知によるものかもしれません。それ故、私の違和感を裏付けてくれるような専門家の意見はないものかと常々考えていたところ、先週の土曜日(74日)に放送されたNHKスペシャル「人体vs.ウイルス」という番組から実に興味深い考えを知りました。それは人体の免疫システムはウイルスとの戦いを通じて進化してきたという考えです。そもそも免疫というものは自己を非自己から守るシステムですが、それは決して排除の論理に基づくものではないと思います。また番組では免疫と生殖の関係にも言及していましたが、生殖とは女性から言えば自己(卵子)が非自己(精子)を受け容れることから始まるのであり、そのメカニズムはウイルスとの戦いを通じて獲得されたものだそうです。尤も、こうした私の理解が正しいのかどうか定かではありませんが、私としては今回の新型コロナウイルスとの戦いも他者(非自己)を排除するのではなく、あくまでも自己と他者の新たな関係を創造していくための試練だと考えたいのです。これは余りにも我田引水すぎるでしょうか。たといそうであったとしても、「ソーシャルディスタンス」が新しいライフスタイルなどとは私には到底考えられません。別に他者とベタベタしたいわけではありませんが、「新しきホーム」は断じて「ソーシャルディスタンス」による「ステイホーム」によってもたらされるものではなく、むしろ「ソーシャルディスタンス」のディコンストラクションによってこそ実現するものだと私は考えています。

 

補遺:人間検定、あるいは人間存在のプラス・マイナス

「障害者は人間か」などと問えば、そのような問いを立てる人の人間性が疑われます。しかし、それを承知の上で、人間機械論に即して人間存在を問い直したいと思います。言うまでもなく、どんなに深く問い直したところで、その議論も最終的には「人間は機械ではない」という前提に立ち戻れば一瞬のうちに雲散霧消してしまうでしょう。それでも敢えて問い直すのは、「人間は機械ではない」という前提そのものから生み出される現実を改めて見極めたいからです。

そこでやや突飛な例から始めれば、新車を購入する場合、そこには如何なる欠陥の存在も許されません。中古車なら、それ相応の経年劣化は当然のこととして許容されるでしょうが、新車は違います。尤も、値下げと引き換えに、或る程度の「ワケアリ」の欠陥(ボディの傷やシートの汚れなど)は大目に見られることはあるかもしれませんが、厳密に言えば、「ワケアリ」の車はもはや新車ではありません。それに「ワケアリ」の車で妥協できるならば、わざわざ新車を求める必要などないでしょう。新車はあくまでも完璧であるべきです。しかし、一口に新車と言っても、百万円台で購入できる新車もあれば、一千万円以上する新車もあります。当然そこにはスペックの違いがありますが、どちらも自動車であることに変わりはありません。ちなみに中古車も自動車であり、中には下手な新車よりも高価な中古車だってあるでしょう。私はここで道路交通法や車検制度も考慮した自動車の厳密な定義を試みるつもりはなく、単に人々が一般的に自動車として認識するモノの基本的なスペックだけを問題にしたいのです。端的に言えば、それは動力の問題です。かつては人間や牛馬の力によって動いていた車が原動機の力によって動く自動車になります。原動機自体にも蒸気機関、内燃機関、電気、ハイブリッドなどという変遷の歴史がありますが、原動機を中心としたスペックが自動車の核心だと思われます。勿論、原動機で動くのは自動車に限りませんが、それは今問題ではありません。タイヤの数とかレールの要不要という客観的な要素もさることながら、より重要なことは一般的に「あれは自動車だ」という認識を成立させる基本的なスペック(これが欠けたら、もはや自動車とは言えないというスペック)なのです。従って、その基本的スペックに少しでも異常が生じれば、それは欠陥車となり自動車としては失格します。当然、その欠陥は修理されなければならず、修理不可能であれば廃車とするしかありません。欠陥車のまま一般道を走行するのは法律的にも道義的にも許されないことは明白です。

さて、冒頭の問いに戻れば、それは障害者と欠陥車の関係において考えることができます。これは実に酷い言い方になりますが、障害が人体の故障であり、一つの欠陥であることは厳然たる事実です。それ故、障害者と欠陥車の間にアナロジーが成立すれば、故障が改善されない限り、欠陥車が自動車失格であるように、障害者もまた人間失格となるのです。実際、病気や怪我で日常生活に支障をきたすに至った病人は一時的な人間失格者として病院に滞在し、快癒と共に退院して再び人間合格者となって日常生活に復帰します。それは故障車が修理工場で直されて出てくるのと全く同じです。問題は、その故障が修理し切れずに欠陥として残る場合です。先述したように、自動車の場合、欠陥が残れば廃車としてスクラップ工場に送るしかありません。では人間の場合も、故障が治り切らずに障害として残った者は廃人として一般社会から排除されるべきでしょうか。シガリョフや相模原事件の犯人などはそう考えたに違いありません。彼等にとって、障害者施設とはスクラップ工場に等しいものでしかないからです。恰も車検に合格した自動車のみが一般道を走行できるように、「人間検定」に合格した人間のみが一般社会で生活できるのです。

とは言え、この世界に「人間検定」などという非人間的なものなどありません。それは人間機械論に基づいてのみ可能となる概念です。しかし現実には、受験に象徴される今の教育制度は車検制度に等しいと言えるのではないでしょうか。そもそも試験というものは人間のスペックの数値化に他ならず、煎じ詰めれば人間機械論を前提にしています。それは資格試験において顕著に示され、例えば医師の資格試験はその人に医師としてのスペックがあるかどうかを問うものに他なりません。医療にどんなに熱い情熱を抱いていたとしても、それに見合うだけのスペックがなければ医師になることは断念すべきです。むしろ、スペックもないのに金の力で医師になることの方が問題でしょう。その意味において、人間も機械と同様に、そのスペックを厳格に検定される必要があると言えます。このように人間機械論に基づく「人間検定」はすでに現代社会の至る所に潜在しています。つまり、「人間は機械ではない」と誰もが思っているものの、それは建前にすぎず、実際に世の中を動かしているのは人間機械論なのです。果たして我々は人間機械論を真に超克することができるでしょうか。

率直に言って、人間機械論は現代人の心を深く蝕んでいます。かく言う私も例外ではなく、もし自分に子どもが授かるとすれば、それは新車のように完璧でなければならないと考えてしまいます。幸か不幸か私は未だに独身なので、これは空想でしかありませんが、私の子どもに大したスペックが望めないのは当然ながら、少なくとも人間としての基本的なスペックだけは完備して生まれてきて欲しいと願います。もしその願いが叶わず、何らかの障害を背負って生まれてきたならば、私は欠陥のある新車をつかまされたような気分に陥るに違いありません。そして、できることなら欠陥のない新車と取り替えて欲しいと思うでしょう。こうした人非人の態度こそ、人間機械論に毒されている証拠です。勿論、現代人の全てが私のような人非人であるわけではなく、むしろ大半の人はどんなスペックの子でも等しく愛すると思われます。しかし、それでも愛する我が子を虐待する親の悲惨な事件が絶えない現実からすれば、子どもをモノとしか見做せない人間が決して少なくないことを示しています。それは様々なお稽古事を幼児に課して、そのスペックを少しでも高めたいと思う親心も同様です。つまり、子どもを虐待する親も、過剰な幼児教育に血道を上げる親も、子どもを自分の思い通りのモノに仕上げようとすることにおいて変わりがないのです。従って、夜泣きし続ける赤ん坊、親の言うことを聞かないワルガキは容易に廃棄処分の対象になるわけで、もし神様がいるならば、返品して「良い子」の新品に交換して欲しいと思うでしょう。私はここで交通事故で愛する息子トビオを亡くし、その代わりにアトムを生み出した天馬博士のディレンマについて述べたい誘惑に駆られますが、それをすると収拾がつかなくなるので他日を期すことにします。

何れにせよ、人間機械論とシガリョフの誘惑とは密接に関係しており、健常者と障害者の区別もさることながら、能力のある人間とない人間を区別するのは現代社会においては避けられない宿命と化しています。先述したように、それは人間のスペックの数値化に他ならず、それによって人間の階層化が加速します。逆に言えば、「人間は機械ではない」という信念の徹底、すなわち人間をモノとしてではなく、あくまでも人格として理解する態度を徹底するならば、全ての人間が互いに「オンリーワン」の存在として関係することになるでしょう。しかし、現代人が「ナンバーワン」になろうとすることを抑制できるでしょうか。言い換えれば、それぞれの人間が「ナンバーワン」になろうとする競争を一切禁じて、全ての人間を「オンリーワン」の存在として横並びさせることが我々の目指す共生なのか。かつて「ナンバーワンにならなくてもい、もともと特別なオンリーワン」と歌うヒット曲がありましたが、この精神が本当に受肉した社会の現実的なヴィジョンこそが問題なのです。様々な人間のスペックの花が咲き誇る祝祭共働態、そのリアリティのみが「人間は機械ではない」という現実を活かすのです。

 

補遺:人間の条件

サルは手の届く所にバナナがあればすぐに取って食べてしまう。そこに知性は必要ありません。では、手の届かない所にバナナがある場合はどうか。攀じ登るなどの身体的努力で事態を打開できればそうするでしょうが、できなければ諦めるしかありません。しかし、来る日も来る日も手の届かないバナナを見上げ続けて決して諦めなかったサルは、いつの日か知性を駆使して何としてでもバナナを獲得する手段を見出すでしょう。その諦めの悪いサルこそがhomo sapiensとしてのヒトに進化する可能性を得たのだと思われます。ただし、知性を有すること自体は「人間の本質」にはなり得ても、必ずしも「人間の条件」を意味するものではありません。実際、今の世界においても、優れた知性の持ち主でありながら「知性のあるサル」でしかない存在はいくらでもいます。「人間の条件」は知性の有無ではなく、あくまでも知性の用い方に関することだからです。例えば、核兵器や原発を開発する知性の問題。それが「人間」に値するかどうかを我々は明確に見極める必要があります。言うまでもなく、そうした必要は世界中至る所に見出されるでしょう。ユートピアも例外ではないと私は考えています。

 

シガリョフの誘惑(10)

シガリョフの理想社会、人間の「プラスの存在」だけで構成される理想社会とは如何なるものか。当然、人間の「マイナスの存在」が徹底的に排除された社会ということになりますが、問題は人間の「マイナスの存在」とは何かということです。一般的には「人並み以下の能力しかない存在」、その典型が障害者だと言えるでしょう。すなわち、知的にせよ身体的にせよ、人並みの日常生活の障害になるような存在は社会全体の発展を停滞させる「お荷物」でしかないのです。「お荷物」と言えば、高齢者もまたそうですが、これは誰もが例外なくやがて辿り着かざるを得ない存在形態なので無下に否定することはできません。しかし、もはや社会全体の生産性に寄与することのなくなった存在であることは事実なので、障害者同様、高齢者もまた社会の片隅に追いやることが理想とされます。勿論、心優しき人々は障害者や高齢者を一掃する社会など望まないでしょう。むしろ、障害者や高齢者と共存できる社会にこそ理想を見出すと思われます。しかし、その共存によって社会全体の生産性のスピードが確実に低下することは厳然たる事実です。ここに至って、我々は一つの選択を迫られます。障害者や高齢者といった「マイナスの存在」を犠牲にしてでも、人間の「プラスの存在」の結集によって社会全体の生産性をその極限まで発展させることを目指すか。それとも逆に、社会全体の発展を犠牲にしてでも、「マイナスの存在」との共存を求めるか。前者はスピーディーなパラダイスの理想、後者はスローなアルカディアの理想です。言うまでもなく、シガリョフの理想は基本的にはパラダイスであり、そのスピードの推進力である競争原理に対抗できるのは、アルカディアのスローな共生原理だと一応理解するのが常道です。実際、自ら「プラスの存在」として生き残るべくモーレツに突っ走る生き方に身も心も疲れ果てた人、すなわち結果的に「マイナスの存在」へと落ちこぼれた人は、その現実を自己正当化すると同時に「マイナスの存在」と共存するスローな生き方に活路(救い)を見出しがちです。言わば「モーレツからビューティフルへ」です。しかし、シガリョフの理想に対する反抗は、かつてのヒッピーのような文明に背を向けた「マイナス志向」しかないのでしょうか。そこに真の共生はあるのでしょうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ません。率直に言って、「マイナス志向」のアルカディアでは「プラス志向」のパラダイスの魔力に到底太刀打ちできないからです。シガリョフの誘惑に屈しないためには、単なる「プラス志向」でも「マイナス志向」でもない、全く新しい志向が要請されます。正にそれこそが未だないユートピアに他なりません。

さて、問題を「マイナスの存在」の徹底的排除に戻せば、これは単に障害者や高齢者を社会の表舞台から一掃することに尽きるものではありません。それだけなら「全く酷い話」でしかないでしょう。しかし、鄙見によれば、「マイナスの存在」の徹底的排除を熾烈に望んでいるのは他ならぬ障害者や高齢者だということも言えるのです。そもそも一体誰が「マイナスの存在」との共存など望むでしょうか。障害者ほど自らの障害を憎んでいる者はおらず、高齢者ほど自らの老化に苦しんでいる者もいないのです。従って、障害者は障害という自らのマイナス要素の排除を、高齢者は老化という自らのマイナス要素の排除を、それぞれ望んでいると思われます。勿論、そのような意味での「マイナスの存在」の徹底的排除は決して容易なことではありません。しかし、例えば視覚障害者は「目が見えない」というマイナスと共存したいなどとは思っておらず、できればそのマイナスを「目が見える」というプラスに転じたいと願っている筈です。高齢者も同様に、老化という自らのマイナスを若返りというプラスに転じることを望んでいるでしょう。つまり、一般的には「マイナスの存在」の典型とされる障害者や高齢者も実はその本音においてはプラス志向なのです。ここにシガリョフの誘惑が巧みに付け入るスキが生じます。それはシガリョフの誘惑が現代社会で再び機能し始める新たな可能性だと言ってもいいでしょう。それは如何なる意味か。

繰り返しになりますが、シガリョフの理想社会とは人間の「プラスの存在」だけで構成される社会であり、そこでは人間の「マイナスの存在」が徹底的に排除されます。これは通常、障害者や高齢者といった社会の「お荷物」(社会的弱者)の一掃として理解されますが、もはやこうした優生思想に基づく理想が時代遅れであることは明白です。しかし、だからと言って障害や老化といった「マイナスの存在」と妥協すべきではありません。重要なことは、優生思想に基づいて「マイナスの存在」を排除することと「マイナスの存在」からマイナスの要素を排除して「プラスの存在」に転化することとを厳密に区別することです。その意味において、この世界を「プラスの存在」だけで満たそうとするシガリョフの野望は必ずしも非人道的ものではない一面を見せ始めます。むしろ、盲人が盲人でなくなり、聾唖者が聾唖者でなくなる奇跡が実現すれば、それは極めて人道的な理想だとさえ言えるでしょう。人間の「プラスの存在」だけで構成されるパラダイスは決して「死せる理想」などではありません。

しかし、それにもかかわらず、我々はシガリョフの誘惑と徹底的に戦っていかねばなりません。何故か。そのパラダイスは結果的に人間存在を歪めてしまうからです。勿論、サルトルの言うように「人間の実存は本質に先立つ」のであり、何か確固とした人間の不変の「かたち」があるわけではありません。肌の色、髪の色、体型、言葉、習慣など、人間は多種多様であり、その本質を明確な「かたち」で表現することは不可能、と言うより意味を成さないでしょう。しかし、サルとヒトを分かつもの、ネアンデルタール人とクロマニョン人を分かつもの、古代人(archaic man)と近代人(modern man)を分かつものは厳然として存在します。ただし、それは客観的な「人間の本質」としてではなく、あくまでも人間を人間足らしめる主体的な「人間の条件」として理解すべきです。その差異は何か。例えば、「人間の本質」を「目が二つ、鼻が一つ、耳が二つ、口が一つ、手と足がそれぞれ二つ…」などと客観的に規定するとします。その場合、目を一つ失えば、その人の「人間の本質」は失った目一つ分だけマイナスになります。しかし、片目を失おうと、両目を失おうと、「人間の条件」は微動だにしません。逆に、「人間の条件」を失えば、たとい立派な五体満足の肉体に恵まれていても、その人は「ヒトデナシ」になるでしょう。極端な話、一つ目小僧も三つ目小僧も「人間の本質」から見ればバケモノでしかありませんが、それでも「人間の条件」を充たす可能性はゼロではなく、従って必ずしも「バケモノ=ヒトデナシ」とは限らないのです。更に言えば、人間の「マイナスの存在」と「プラスの存在」は「人間の本質」においてのみ成立する区別であり、「人間の条件」にマイナスもプラスもあり得ません。さもなければ、一つ目小僧は「マイナスの存在」で三つ目小僧は「プラスの存在」だというナンセンスに陥ってしまうでしょう。この点については更に深い思耕を要しますが、「人間の本質」を偏重する場合にのみ、シガリョフの理想は人口に膾炙すると私は考えています。相模原事件の犯人の場合もまた然り。彼のように障害者を人並みの生活ができない「マイナスの存在」とする短絡は、シガリョフの誘惑に屈服して、「人間の本質」というイデアの罠にはまって人間存在を歪めてしまった結果に他なりません。

何れにせよ、客観的な数値化によって「人間の本質」を見定めようとする意向においてのみ、人間に「マイナスの存在」と「プラスの存在」という区別が生じます。それは極めて近代的な(近代に特徴的な)区別ですが、正にシガリョフはそうした意向に沿って一つの理想社会を思い描きました。それが人間の「プラスの存在」だけで構成される社会です。ただし、これまで縷々述べてきたように、現実に「マイナスの存在」を人間社会から一掃することなど結局は不可能なので、それを「プラスの存在」に完全に従属させることを以て次善の理想とするのです。勿論、基本はあくまでも「プラスの存在」中心の社会であり、「マイナスの存在」の幸福は「プラスの存在」に絶対的に服従することによってのみもたらされます。しかし、それが人間の本当の幸福だと言えるでしょうか。もしそうした幸福へと誘うシガリョフの理想に反抗せんとするならば、歪んだ人間存在を正す「人間の条件」について改めてラディカルに考える必要があるでしょう。

 

シガリョフの誘惑(9)

これまで人間存在をプラスとマイナスのバランスシートの問題として大雑把に理解してきましたが、厳密には何がプラスで何がマイナスなのかという問題はかなり複雑な様相を呈してきます。例えば、能力の観点から言えば、障害とは明らかに何らかの能力の欠如に他ならず、障害者は通常「マイナスの存在」ということになります。しかし、人間には「空を自由に飛ぶ能力」が欠けていますが、これを障害と思う人は皆無であり、従って空を飛べない人間を「マイナスの存在」とは言えません。当然のことながら、人間とは「空を飛べない存在」であり、もし空を飛べる人間がいたら、それはスーパーマンであって事実上人間ではないからです。勿論、空を飛べるスーパーマンを人間の「プラスの存在」と考えることは論理的には可能です。しかし、その場合には空を飛べないフツーの人間が全て「マイナスの存在」だということになり、人間存在の概念そのものに亀裂が生じるアポリアに陥ります。実際、空飛ぶ能力は荒唐無稽だとしても、人間には知的にも身体的にもスーパーマンと呼べるような存在がいますが、ここに人間の「プラスの存在」を見出すことにどんな意味があるのでしょうか。例えば、百メートルを九秒台で走る能力のある人はスーパーマンだと言えますが、これを人間の「プラスの存在」と見做したところで、ただそれだけのことにすぎません。それは確かに素晴らしい能力ではありますが、オリンピックを目指す選手でもない限り、その能力の欠如(マイナス)が問題になることなどないのです。このように考えてみると、人間の能力に格差があるのは事実ですが、それをプラス・マイナスで理解することは全く相対的な問題であり、フツーに歩くことのできる人(健常者)とできない人(障害者)のプラス・マイナスと百メートルを九秒台で走ることのできる人とできない人のプラス・マイナスの差異も結局は量的なものにすぎないのであって決して質的なものではないと思われます。尤も、これも更に厳密に考えれば、歩くことができる人とできない人の格差はプラス・マイナスというよりも1と0の関係(歩行能力があるかないかの関係)であり、韋駄天と鈍足の格差とは質的に異なると言うべきかもしれません。しかしながら、歩行能力0の障害者でも、松葉杖・義足・車椅子等の道具使用によって1から始まる量的格差の次元に入ると考えることには無理があるでしょうか。確かに、視力にとっての眼鏡や聴力にとっての補聴器のように、必ずしも道具使用によって能力0が1以上に転ずるとは限りませんが、今後の医学を中心とした科学技術の飛躍的発展によって、眼鏡ではなく新しい眼そのものを、補聴器ではなく新しい耳そのものを、義足ではなく新しい足そのものを獲得できる可能性はもはやSFだけの話ではないでしょう。問題はその可能性もさることながら、そのようにして獲得された新しい器官を果たして道具と見做すべきか否か、言い換えれば自分の身体の一部と見做すことができるかどうかにあります。

どうもまた重箱の隅をつつくような議論ばかりでウンザリされているでしょうが、何故こうした細かいことに執拗にこだわり続けるかと言えば、それはあくまでもシガリョフの誘惑に徹底的に反抗するためです。私の思耕は病的に錯綜して非常に理解し難いでしょうが、どうかこの目的だけは見失わないで戴きたい。と言うのも、シガリョフの誘惑に屈服して、人間の「プラスの存在」だけで構成される理想社会を夢見る危険性を現代社会は常に胚胎しているからです。その悲劇的な一例こそ、「人並みの生活を送ることができない障害者は幸福になれない。死んだ方が社会のためであり、本人のためである」という相模原事件の犯人の短絡的思考に他なりません。先述したように、人間の能力には量的な格差はあるものの、人間存在を質的に「プラスの存在」と「マイナスの存在」に二分することなど到底不可能です。従って、人間の「プラスの存在」だけで構成される理想社会というものも実現不可能、いやたとい可能だとしても決して実現してはならない理想なのです。その意味においても、シガリョフの夢見る理想社会はユートピアではなくディストピアなのですが、その点を少し視点を変えて更に深く掘り下げていきたいと思います。

 

シガリョフの誘惑(8)

相模原の事件の犯人は「人並みの生活を送ることができない障害者は幸福になれない。死んだ方が社会のためであり、本人のためである」と考えて犯行に及んだそうですが、ここには三つの問題が見出されます。すなわち、「人並みの生活とは何か」、「障害者とは何か」、そして「幸福とは何か」です。ただし、厳密に言えば、これらは三つの問題ではなく、一つの大きな問題だと考えるべきです。少なくとも私にとって、人並みの生活、障害者、幸福は相互に密接に関連しており、分離して考えることなどできないからです。そもそもこの犯人自身、犯行以前に精神疾患で入院していた過去があるとのことですが、自分も障害者であるかもしれないという疑念は生じなかったのでしょうか。それとも自分は人並みの生活を送ることのできる幸福な健常者だという自信に溢れていたのでしょうか。もとより詳しいことなどわかりませんが、私には到底そんなふうには感じられません。むしろ、彼もまた人並みの生活を送ることができない不幸な人間だったような気がします。その意味において、彼もまた障害者の一人だったと思うのです。

さて、私は先の便りで障害者を「マイナスの存在」だと書きました。これを無神経な書き方だと不快に思われる向きもあるかもしれませんが、或る能力の欠如である障害がマイナスを意味することは厳然たる事実です。ただし、ならば健常者が全て「プラスの存在」であるかと言えば、それは一概には言えません。確かに、障害者と健常者の関係においては、前者が「マイナスの存在」で後者が「プラスの存在」だと言えます。例えば、盲人とそうでない人の関係は、視力の「マイナス・プラス」で理解できるからです。だからこそ、視力のプラスの人は視力のマイナスの人の目となって世話をすることが可能になるのです。しかし、人間は全能の神ではないので、誰しも何らかの「マイナスの存在」であることを余儀なくされています。余談ながら、ここで思い出されるのは学生時代に習ったカソリックの「過分の恩寵」という人間観です。正確な理解かどうか今となっては自信ありませんが、キリスト教ではアダムの原罪以後、人間は堕落した存在になったとされるものの、カソリックではその堕落を「過分の恩寵」の喪失として理解しているというのです。つまり、仮に人間は元来120%の能力を持った存在として神に創造されたとすれば、原罪によって失われたのは「過分の恩寵」として与えられていた20%分に過ぎないというのがカソリックの人間観だ、ということです。これに対してプロテスタントでは、端的に元来100%であった人間が原罪によって不完全な存在になってしまったと理解します。どちらの人間観を選ぶかは人それぞれでしょうが、こうした「過分の恩寵」の理解の正否は別として、「人間は原罪によって言わば神からのオマケをなくしただけで、今も基本的には完全な人間なのだ」という楽観的な人間理解には違和感があります。やはり、人間は誰しも何らかの意味で「マイナスの存在」だと理解する方が現実に即していると思うのです。誤解を恐れずに敢えて言えば、人間は全て多かれ少なかれ障害者なのであり、互いのプラス面とマイナス面を共働させながら生きていくしかない存在に他なりません。更に言えば、こうした共働態は既存の意味での「障害者」に限られるものではなく、人間存在の普遍的構造として理解すべきでしょう。その意味では、今後、「障害者」という言葉は次第に死滅していくものと期待されます。

とは言え、人間社会(人間関係)におけるバランスシートが単純でないことは明白です。大きな資産を有する有能な人もいれば、債務超過に苦しんでいる無能な人もいます。「人並みの生活」というものを人間のプラス面とマイナス面のバランスが曲がりなりにもとれている状態だとすれば、マイナス面ばかりが増え続ける人は「人並み以下の社会のお荷物」ということになるでしょう。正に相模原事件の犯人が考えている「障害者」がそういう存在であり、そんな「マイナスの存在」は決して幸福になれないし、社会のためにも本人のためにも死んだ方がマシだ、という結論が導き出されます。この結論をシガリョフ的に更に推進すれば、「マイナスの存在」を絶滅(ホロコースト)させて、この世界に「プラスの存在」だけが生きる理想社会が求められます。しかし、これが真の理想社会と言えるでしょうか。勿論、私にとって、それはユートピアではなくディストピアに他なりません。その理由について更に思耕を続けます。