新・ユートピア数歩手前からの便り -97ページ目

鍵のかからない部屋の個人主義(10)

自然状態は弱肉強食の世界です。或る人が地面に線を引き「ここからは俺の土地だ」と勝手に言い始めた時、その人が屈強な男(女でもいいが)で事実上反抗が不可能ならば、弱い人間はその理不尽な要求を受け容れるしかありません。勿論、この男よりも更に屈強な男がやってくれば、土地はその新来の男のものになるでしょう。ルソーによれば、このように暴力が絶え間なく支配する自然状態から抜け出すために、人間は一般意志に基づく法律を作り、それによって理性的に所有権を保証する社会状態に移行しました。これは確かに説得力のある論理ですが、更に深読みすれば、この移行を主体的に推進したのは長い間強い人間に虐げられてきた弱い人間たちだったと思われます。と言うのも、強い人間は自力で自分の個別意志を充たせるわけで、別に弱肉強食の自然状態から抜け出す必要などないからです。むしろ、自然状態のままの方が強い人間たちの天下は続くでしょう。敢えてその天下を終わらせる理由はありません。とすれば、強い人間たちの天下を打倒するのは弱い人間たちのルサンチマンに基づく共闘でしかないことになります。つまり、強い人間の暴力による横暴を決して許さない法律を協力してつくることで、弱い人間でも自分の個別意志を充たすことのできる社会を実現したのです。言うまでもなく、こうした法治社会を維持するためには、法律を守らない人を厳密に処罰できる力、すなわちどんなに強い人の暴力をも上回る圧倒的な力が必要になります。具体的には警察権力ということになるでしょうが、もし暴力団の勢力が警察に勝るような事態になれば、人間社会は再び無法地帯としての自然状態に逆戻りするでしょう。実際、プロレスラーのような体格のヤクザが暴れていたら、殆どの一般市民は個人として対峙することなど不可能であり、一刻も早く警察に通報するしかありません。反社会的勢力を排除できるほど強大な警察権力の確立は弱い人間にとっては不可欠の一般意志なのです。

しかしながら、こうした社会契約の論理は一つ間違えば「大審問官の論理」に転じます。すなわち、個人の自由を社会全体の絶対的権力にゆだねることで、個人はその庇護の下で幸福に暮らすことができる、という論理です。尤も、こうした論理が全体主義を誘発するのはルソーの本意ではなかったでしょう。ルソーの基本的立場においては、絶対服従を要請する一般意志はあくまでも個別意志によって支持されていなければなりません。しかし、その思想がロベスピエールのような人間を生み出したことも厳然たる事実です。加えて、大衆の殆どは「絶対的権力者の下での幸福」を歓迎しているように思われます。私はここに「鍵のかかる部屋の個人主義」の典型を見出しますが、果たしてこれでいいのでしょうか。

さて、周知のように、絶対的権力に基づく「大審問官の論理」の対極にあるのは、絶対的無力の「沈黙せるイエスの論理」です。後者が何であるかは容易に答えられませんが、逆説的に言えば、絶対的無力もまた力なのです。ちなみに、今月のEテレの「100分で名著」という番組はヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」を読み解いていますが、おそらくそれは先に述べた「弱い人間のルサンチマン」とは質的に全く違う次元を切り拓くものでしょう。正にその次元においてこそ、「鍵のかからない部屋の個人主義」が生まれ、ガンディーの非暴力のような絶対的無力を核とする連帯を形成していくのです。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(9)

電車の中で平然と化粧しているバカ女、大股広げて爆睡している恥知らず、ドーデモイイ下らないバカ話を延々と続けているオバタリアン(すでに死語か)たち――こうした人々に遭遇すると、思わず「鍵のかかる部屋」にブチ込んでやりたくなります。公共の空間と個人の空間は厳密に区別すべきであり、後者ですべきことを前者でしてはならないというのが社会常識なのに、それが全く感じられないからです。しかし、社会常識とは何か。それもまた一般意志の一つだと解すれば、それが欠如した輩は「人デナシ」であり、一般社会から排除すべきだという考えが当然生まれます。これは犯罪者を社会契約を破棄した者として社会から排除する論理に等しいですが、社会常識の欠如を犯罪と同列に見做すことには無理があるでしょう。実際、「電車内で化粧をしてはならぬ」という法律がない以上、「見苦しいから電車内で化粧するのはやめなさい」とバカ女に言ったところで、「うるさいわね、私の勝手でしょ!」と反撃されればオシマイです。しかし、例えば喫煙の場合、かつては自由にどこでも喫煙できましたが、今や改正健康増進法(所謂受動喫煙防止法)によって公共の場での自由な喫煙は全面的に禁じられました。尤も、以前にも「公共の場での喫煙は控えるべきだ」という社会常識はあったでしょうが、それが法律になると状況は一変します。確かに、マナーがルールになることによって迷惑行為の一掃は徹底され、それは多くの人を幸福にするでしょう。しかし、私は何か寂しい気がしてなりません。それは「何故、人を殺してはいけないのか」と問われて、「人を殺すと法律で罰せられるから」と答えるしかない寂しさに似ています。ならば、殺人を罰する法律がなければ人を殺してもいいのか。更に言えば、戦争中の兵士は人を殺しても法的に罰せられることはない(むしろ、人を殺すことを拒否すると軍法会議で罰せられることになる)が、そこに如何なる一般意志があると言えるのか。法に則った殺人とも言うべき死刑はどうか。法律は人間社会に必要不可欠なものですが、「鍵のかかる部屋」と同様に人間の生きる寂しさの象徴でもあるのです。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(8)

凡人は一般意志を常に忖度してその限界を超えられないが、非凡人は自分の個別意志を満たすためなら平気で一般意志を踏み躙ることがことができる――これがラスコオリニコフの論理であり、私はそこに「鍵のかかる部屋の個人主義」の究極を見出します。尤も、些末なことながら、ラスコオリニコフの住んでいる屋根裏部屋には様々な人が勝手に出入りしているので、どうも鍵はいつもかかっていないようですが、彼の精神は常にしっかりと施錠されています。つまり、私が問題にしているのは、あくまでも自らの個別意志の充足を至上のものとする世界観であり、それを「鍵のかかる部屋」と称しているにすぎません。その意味において、ラスコオリニコフは「鍵のかかる部屋」から一歩も外に出ていないのであり、その閉鎖空間で自分の論理の正しさを証明するために虫けら同然の老婆の殺害に及んだのです。その結果、どうなったか。実定法としての一般意志による罪を蹂躙しても、自然法としての一般意志がラスコオリニコフに罰を与えたのです。ソオニャに促されて、自らが穢した大地に接吻した時、ラスコオリニコフはようやく「鍵のかかる部屋」から一歩外に踏み出したと言えるでしょう。しかし、究極的な問題は正にそこから始まるのです。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(7)

ハイデガーの言う存在の呼び声としての良心も、一般意志の一つと考えることができます。実際、何か悪いことをやりそうになると、「そんなことしちゃ駄目だ」という声がどこからともなく聞こえてきます。それは周囲に誰もいなくても「お天道様が見ている」という不可視の視線と同様、悪事に対する暗黙の抑止力になります。しかし、この抑止力が上手く機能しないのが現実です。余談ながら、私のドラマ中毒は依然として回復の兆しを見せず、「時間の無駄だ」と重々承知しながら殆どのテレビドラマに目を通しています。それらは凡そ刑事もの、医療もの、恋愛ものの三つに大別されますが、何れもドラマの基本は「一般意志と個別意志の軋轢」として理解することができます。特に刑事ものに関して言えば、大抵殺人事件が起きますが、その殺人が余りにも軽佻浮薄過ぎます。殺人動機に全くリアリティがないのです。日常生活には誰しもムカつくことが多く、かなり温厚な人でも「ブッ殺してやりたい!」と思わない日はないと思われますが、実際にブッ殺してしまう人は極めて稀です。殆どの場合、「ブッ殺してやりたい!」という個別意志を「殺すべからず」という一般意志が抑止するからです。そのバランスが崩れて、恰も洪水の濁流が堤防を決壊するように、個別意志が一般意志の抑止を振り払って荒れ狂う時にドラマが生まれてきます。しかし、先述したように、最近の刑事ものでは「なんでその程度のことで人を殺してしまうのか」という疑念が渦巻く実に安易な殺人が多く、およそドラマになっていません。現実の殺人事件の動機にそんな安易さはあり得ないと思われますが、バーチャルな世界で日常的に様々なものを殺している人間の精神は無意識の裡に少しずつ歪み始めているのかもしれません。しかし、それ以上に深刻なことは実に些細なことですぐに決壊してしまう個別意志の脆弱さにこそあります。それは存在の呼び声をもはや聞き取れないほどの脆弱さです。かつて「神戸連続児童殺傷事件」、俗に言う「酒鬼薔薇事件」が世間を震撼させていた頃、或る若者がテレビの討論会の席上で「何故人を殺していけないのか」と発言して話題になったことがありましたが、そう問わざるを得ないほど若者たちの精神の感度は低下しているということです。以前なら問う必要のなかった自明のことが今や自明ではなくなる――これを進化と見做すか退化と見做すかは新たな問題ですが、ここにも「鍵のかかる部屋の個人主義」の弊害が見出されると私は考えています。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(6)

宗教的に表現すれば、一般意志は神の言葉もしくは天意です。しかし一体、誰がどのようにして、それが神の言葉であり天意であることを認識できるのか。例えば、巷で今話題の芸能人の不倫ですが、猫も杓子も一斉にバッシングに走るのは一般意志の反映と言えるのかどうか。確かに不倫は悪い。昔なら「女遊びも芸の肥やし」などと嘯(うそぶ)くこともできたでしょうが、今は時代が違います。不倫を少しでも擁護していると見做されるようなことを一言でも口にすれば、今度はその発言者が袋叩きになるでしょう。実に恐ろしい世の中です。しかし、悪いことをした人を徹底的に非難して何が悪いのか。イエスは「汝らの中、罪なき者まず石をなげうて」と言いましたが、これが一般意志になる可能性は極めて低いのが現実です。罪なき善人のみが罪人を罰することができるなどと言っていたら、厳密には誰もできないのであり、結果的に罪人を容認することになるからです。では、今バッシングしている連中は一体何者なのか。おそらく、その大半は鍵のかかる安全な部屋で世の中の正義を振りかざしている個人主義者でしょう。しかし、もしそうなら、個人主義者が何故赤の他人の罪を糾弾する必要があるのか。そもそも芸能人が不倫したところで、一般大衆には何の被害もない筈です。せいぜい不倫した芸能人のイメージダウンで、その芸能人をCMに起用していた企業の商品が売れなくなるという程度の被害にすぎません。勿論、経済的には甚大な被害であり、その損害賠償は芸能人にとっては致命的です。しかし、一般大衆には痛くも痒くもないのであり、むしろ芸能人を致命的な苦境に追い込むのは一般大衆なのです。何故そこまでする必要があるのか。不倫のない正しい世の中にするためか。そのように社会全体の正義を本当に問題にしているのなら、先ずは鍵のかかる部屋から出て来るべきではないでしょうか。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(5)

唐突ながら、私は映画「男はつらいよ」の世界を愛しています。その世界を知ったのは高校生の頃ですが、大学に入って初めて親元を離れた一人暮らしを東京で始めた時から、それはいつも「魂のふるさと」として孤独な私を慰めてくれました。当時、創刊間もない「ぴあ」を片手に東京中の名画座に「男はつらいよ」の過去作を求めて彷徨っていたことが懐かしく思い出されます。しかし一体何故、葛飾柴又の「とらや」はかくも私を魅する「魂のふるさと」足り得るのか。私は折に触れてそう自らに問い続けてきましたが、最近一つのことに気が付きました。それは、「とらや」には鍵のかかる部屋など一つもないという事実です。

周知のように、「男はつらいよ」に限らず、山田洋次監督が描く喜劇世界はその根幹が落語的だと言われます。その意味では、「とらや」の空間は熊さん八つぁんの貧乏長屋に通じています。つまり、鍵など全く必要とならぬ、人々が自由に交流する祝祭空間です。これは確かに一つの理想空間だと思われます。だからこそ、そこは多くの人にとって「魂のふるさと」になり、繰り返し訪れたくなるのです。しかし、第三者の観客として観たり聞いたりしている分にはそれでいいですが、実際に自分自身がそこで暮らすとなったらどうでしょうか。特に現代人はプライヴァシィの全くない生活に早晩耐えられなくなるのは必定です。修学旅行や合宿などの夜、雑魚寝でワイワイガヤガヤ、枕投げをしたりして過ごすのは実に楽しいですが、それも日常的に繰り返されればやがて苦痛になります。被災地の避難所においても、最も堪え難き事はプライヴァシィのないことだとも言われます。やはり現代人の生活には鍵のかかる部屋が不可欠であり、そこに理想社会の基点を見出すしかないのかもしれません。

しかしながら、プライヴァシィも個人主義も理想社会に不可欠であるのは間違いないものの、それと鍵の必要とは別次元の問題だと思われます。実際、真に成熟した社会においては、襖一枚、もしくは衝立一基、更に言えば扇子一本さえあれば、鍵などなくても自他を分ける結界になります。むしろ鍵は、言わば自転車の補助輪のようなもので、やがては不必要になるべき存在物だとも考えられます。その意味においては、「鍵のかからない部屋の個人主義」こそが理想社会の要になると思うのです。勿論、これはあくまでも理想です。現実には、まだまだ鍵が必要でしょう。それは国境とかナショナリズムの場合と同様です。それにも拘わらず、「鍵のかからない部屋の個人主義」と「鍵のかかる部屋の個人主義」とは質的に全く異なることは明白です。最大の相違は、前者が一般意志とのcoincidentia oppositorumを求めるのに対し、後者はそうではないという点に見出されます。やはり前者を求めることは危険すぎるでしょうか。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(4)

かつて「純粋自我は全き孤独の中にこそある」と書き遺して二十歳で自死した詩人がいましたが、その生がどんなに純粋であったとしても、いや純粋であればあるほど、人間の理想に反するものだと思います。この点、若き詩人の恩師でもあった著名な思想家が「ソオニャの美しさ」について述べていたことが今でも深く胸に刻み込まれています。周知のように、ソフィア・マルメラアドヴァは貧しい家族を救うために娼婦になった「穢れた女」です。しかし、この「穢れた女」の方が自らの純潔を守り抜くために清らかなまま死ぬことを選んだ乙女よりも美しいと氏は言います。僭越ながら、私も同感です。鍵のかかった部屋で純粋に追求される自我は崇高なものです。それは言わば人里離れた山奥で面壁九年、只管打坐に励んだ禅僧に等しき境地です。しかし、そうした崇高な生も再び人里に還り、そこで世俗の泥にまみれて初めて理想を垣間見ることができるでしょう。十牛図の入鄽垂手(にってんすいしゅ)です。ツァラトゥストラもまた然り。私自身は未だ泥にまみれて理想を実現する域に達しておりませんが、現代社会の一般的風潮がどうも「一人で生きていく」ことを肯定的に受容し始めているのが気になります。確かに、学校にせよ会社にせよ、そこに渦巻く一般意志が多大なストレスをもたらす場合、多くの人が自らの個別意志の充足に癒しを求めるしかない事情はよくわかります。実際、他人の顔色を窺って小心翼々と生活するよりも、水平の次元で「お一人様」の快楽を追求する方が幸福をもたらすでしょう。あるいは、そんなチャラチャラした「お一人様」など真の個別意志に値せぬという生真面目な人は、若き詩人のように垂直の次元で個別意志の純化を図ると思われます。何れの場合も、人々の関心は個別意志のみに集中するわけですが、私は敢えて一般意志をラディカルに問い続けたい。「もはや身棄つるほどの一般意志はない」というのが大方の見解かもしれませんが、私はあくまでも「一般意志との関係なくして真の個別意志などあり得ない」と考えているからです。しかし、それが極めて「危険な関係」であることは言うまでもありません。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(3)

「本当の自己」を思耕する垂直の次元はどこにあるのか。通常、それは鍵のかかる部屋のような場所、すなわち他者との関係を遮断して自己との関係のみに集中できる場所だと思われます。「人間は精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身に関係する関係である」とはキルケゴールの言葉ですが、そうした単独者の次元は理想社会に不可欠です。端的に「理想社会に個人主義は不可欠だ」と言ってもいいでしょう。しかしその個人主義はあくまでも垂直の次元において育まれるものでなければなりません。もし個人主義が水平の次元においてだけ求められるならば、それは単なるエゴイズムに堕し、自分の個人的な欲望を満たすこと以上の生を切り拓くことはできないでしょう。それは実質的に本能の衝動のままに生きる自然状態にとどまることに等しく、夢の追求ではあっても人間の理想には程遠いものです。とは言え、私は決して水平の次元における個人の夢の追求を否定するつもりはありません。また、垂直の次元における己事究明のみを理想とするつもりもありません。むしろ、水平の次元との関係を欠いた垂直の次元は単なるサンクチュアリにすぎず、たといそこでどんなに崇高な修行が為されても、私はそれが人間の理想的な生だとは思いません。私の求める生の理想は、あくまでも聖なるものと俗なるもののcoincidentia oppositorumなのです。その意味において、理想社会が必要とする個人主義は「鍵のかからない部屋の個人主義」と言うべきでしょう。それは一体何か。

 

鍵のかからない部屋の個人主義(2)

かつて吉本隆明は若者に「ひきこもれ」と言いましたが、これは「つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」というお笑い芸人の言葉とは似て非なる、全く次元を異にする深みから発せられていると思われます。鄙見によれば、両者共に「一人になること」を勧めているものの、お笑い芸人の言葉は水平の次元にとどまっているのに対し、吉本の言葉は垂直の次元を切り拓いているのです。すなわち、協調を余儀なくされる社会において、それが生きる重荷になるならば、取り敢えず「一人になること」はその有効な対抗手段になります。「嫌われる勇気」という言葉もありますが、世間から何と言われようと「一人になる勇気」を持てば、生きる重荷も次第に軽くなっていくでしょう。しかし、「一人になること」が水平の次元にとどまる限り、それは腐敗した社会からの逃避でしかありません。勿論、逃避であれ何であれ、それによってラクに生きていけるなら、それでもいいでしょう。しかし私としては、水平の次元から垂直の次元へと突き抜けて、そこで「本当の自分」についてラディカルに思耕し尽くすことを望みたい。真の個別意志はそこからしか生まれないからです。そして、真の個別意志が明確になれば、協調するに値する社会の一般意志も自ずと明らかになるに違いありません。

 

鍵のかからない部屋の個人主義

先日地下鉄に乗っていた時、何気なく車内を見廻すと「ひとりで生きていく」という言葉が目につきました。それは或るお笑い芸人の新刊本の広告で、更によく見ると「群れない、媚びない、期待しない……つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」というキャッチコピーが踊っていました。このお笑い芸人はかつて親しい友人も恋人もいないという孤独で虚しい生活の自虐ネタで人気を博した所謂「一発屋」ですが、今度はそれを逆手にとって「孤独な生活は虚しくない。むしろ、それなりに充実している素晴らしいものだ」と訴えているようです。これが彼の芸人としての新たな戦略かどうかは別として、「孤独な生活は素晴らしい」という主張は一考に値するでしょう。と言うのも、現代社会に暮らす苦しみの大半は対人関係の悪化によってもたらされるものであり、それを断ち切りさえすれば一応楽になることは確かだからです。つまり、先のお笑い芸人の言葉を繰り返せば、「群れない、媚びない、期待しない……つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」というわけです。しかし、本当にそうか。

振り返ってみれば、我々は幼い頃から社会の中で協調して生きるように教え込まれてきました。「自分さえ良ければ、他人はどうなってもいい」という個人主義ほど忌むべきものはなく、ジコチューなエゴイストは最低だという人間観は「大人の常識(common sense)」になっています。「大人の常識」と言うのは、赤ん坊や子どもは本来エゴイストであり、それが社会的な協調を学ぶことによって「大人」になる、ということです。しかし、ルソーは言っています――「人は自由なものとして生まれたのに、至る所で鎖につながれている」と。果たして、社会的な協調は鎖なのか。確かに、所かまわず傍若無人に泣き叫ぶ赤ん坊は自由であり、人目をはばかって号泣したい感情を抑えて平静を装っている大人は不自由です。大人は自分を殺して生きている、と言ってもいいでしょう。しかし、赤ん坊の自由はそんなに素晴らしいものでしょうか。そもそも赤ん坊には未だ殺すに値する自己はなく、その自由は往来で糞小便を垂れ流す犬猫の「自然体」と変わりません。「自然体」は一つの理想ではありますが、それが人間の理想になるのはあくまでも社会的自己との関係においてです。例えば、アマラとカマラのような場合、彼女たちが本当にオオカミに育てられたかどうかは別として、その野生の「自然体」を羨む人は皆無でしょう。人間的には異常な病でしかないからです。自由な野良犬や野良猫にしても、きちんと躾けられたペットになって初めて人間社会に許容されるのです。たといそれが犬や猫の「自然体」を歪めることであったとしても、社会的協調を是とする人間には極めて自然な帰結です。植物の品種改良や治水などの環境整備も然り。人間はもはや「自然のまま、ありのまま」に生きることなど不可能であり、自然的存在から社会的実存への移行は不可避な運命だと言えるでしょう。ここで再びルソーの言葉に耳を傾ければ、「このように自然状態から社会状態に移行すると、人間のうちに極めて大きな変化が発生することになる。人間はそれまでは欲動によって行動していたのだが、これからは正義に基づいて行動することになり、人間の行動にそれまで欠けていた道徳性が与えられるのである。そして初めて肉体の衝動ではなく、義務の声が語りかけるようになり、人間は欲望ではなく権利に基づいて行動するようになる。それまで自分のことばかりを考えていた人間が、それとは異なる原則に基づいて振舞わなければならないことを理解するのであり、自分の好みに耳を傾ける前に、自分の理性に問わねばならないことを知るのである」ということです。周知のように、ルソーはこうした移行を「社会契約」と称していますが、それが人間にバラ色の生活だけをもたらすものではないことを重々承知しており、その損得についても語っています。すなわち、人間が社会契約によって失ったものは「自然状態のもとで享受していた自由」並びに「自分に必要な全てのものへの無制限の権利」であるの対し、社会契約によって得たものは「社会的な自由」並びに「持っている全てのものに対する所有権」です。彼はその違いについて次のように述べています。「自然状態のもとで享受していた自由は、その人の力によって左右されるだけだが、社会的な自由は一般意志による制約を受けるという違いがある。また[自然状態での所有は]力による占有か、先に占有した者に認められる所有であるが、[社会状態での所有は]法律で認められた権原に基づいて初めて成立する所有であるという違いがある」(中山元氏の訳による)。実際、人間の生活は法律に縛られていると同時に守られています。時に法律に束縛されていない野良犬や野良猫の自由気儘な「自然体」に憧れることがあっても、暴力による支配を決して許さない法律の重要性を疑う人はいません。とは言え、法律それ自体が一つの暴力になることもあるわけで、真に重要なことはそこに一般意志が真に反映しているかどうか、更に言えば「社会契約における一般意志は自然状態における個別意志とどのように関係するか」という問題なのです。

どうも前置きが長くなり過ぎましたが、「ひとりで生きていく」ことが素晴らしく感じられるとすれば、そこには人間社会の中で抑圧されてきた個別意志の解放があるからです。確かにそこには新鮮な喜びがあります。例えば、私がケーキを買ってきたとします。当然、その所有権は私にあり、私の個別意志はそれを全部一人で食べることを欲します。ところが、そこに突然の来客があれば、私はケーキを占有したいという個別意志とケーキを来客と共有すべきだという一般意志との葛藤に悩むことになります。もし私が他者とつながらない孤独な生活を送っていれば、このような苦悩に煩わされることなどあり得ず、私は四六時中自分の個別意志を満足させることだけに集中できるでしょう。正に「つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」ということです。しかし、そうした「新鮮な喜び」もそんなに長続きしないのではないでしょうか。実際、他者と私の関係(親しさ)の密度にもよりますが、「私一人で食べるケーキの味」よりも「他者と共に食べるケーキの味」の方が優る場合があることも事実です。その場合には、「他者と共に食べたい」という思いが一般意志になります。と言うより、そこでは個別意志と一般意志のcoincidentia oppositorum(対立の一致)が生じていると考えられます。これこそ一つのユートピアに他なりませんが、残念ながら問題はそんなに簡単ではありません。と言うのも、一般意志にせよ個別意志にせよ、それらが自分にとって本当に何であるかを見極めることは決して容易ではないからです。そもそも「ひとりで生きていく」ことに新鮮な喜びが感じられるのも、通常の一般意志が往々にして「全体への忖度」に堕しているという現実があるからです。また「ひとりで生きていく」ことに見出される個別意志にしても、単なる刹那的な衝動にすぎず、自分本来の個別意志とは程遠いものだと思われます。殊に鍵のかからない部屋で育まれた我々日本人の個別意志は、鍵のかかる部屋で培われた欧米人の個別意志と比べて薄弱になりがちです。従って厳密には、我々は「ひとりで生きていく」ことの本当の厳しさを知らないと言うべきかもしれません。だからこそ、「つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」などと暢気にうそぶいていられるわけですが、果たしてこのように比較的自他の風通しの良い日本社会のあり方は望ましいことか否か。