新・ユートピア数歩手前からの便り -98ページ目

垂直性について(10)

ルソーは「言語起源論」の或る註において次のように述べています。

「どの程度まで人間が生まれつき怠惰であるか、想像もつかないほどである。人間は、ただ眠り、何もせずに暮らし、じっとしているためにのみ生きていると言えそうだ。飢えで死なないようにするために、やっと人間は自分で努力して動き出す決心をすることができるのである。この心地よい不精ほど、未開人たちに、あれほどまでも自分らの状態を好んで守らせているものはない。人間を不安にし、将来にそなえさせ、活動的にする情念は、社会の中で初めて生まれる。何もしないということは、自己保存の情念に次いで、人間の最初の最も強い情念である。そのことをよく考えてみれば、私たちの間においてさえ、人々が働くのは休息を得るためであり、私たちを勤勉にしているのは怠惰であるということがわかるだろう。」

これは確かにその通りだと私も思います。月曜日から金曜日までの平日に懸命に労働するのは、土日の休日のためだというのが偽らざる「自然の情」です。つまり、人は休むために働くのであって、働くために休むのではない、ということです。ところが社会的な存在としては、それが逆転します。殊に近代社会においては、ボーっと何もしないで生きている人間はクズと見做されます。更に言えば、働いてお金を稼いでいない人間もクズ、ニートや引きこもりなどは典型的な人間のクズです。そもそもニートや引きこもりは自然界ではあり得ない存在であり、如何なるイキモノも自力でエサを獲得できない幼少期を過ぎれば自己保存のために否応なく働かざるを得ません。「働かざる者食うべからず」という倫理以前に、働かない者は死ぬしかないのです。しかし、ニートも引きこもりも死ぬことはありません。彼らは自然界ではなく、曲がりなりにも人間社会に生きているのであり、働かなくても親のすねをかじって生きていられるからです。尤も厳密に言えば、自然界にも様々な寄生生物がいるわけで、親へのパラサイトに限らず、ヒモやジゴロ(これらも厳密には区別するべきでしょうが)といった女性へのパラサイトも、自己保存のためにそれなりの活動をしていると見做すことはできます。とは言え、それは褒められた活動ではなく、真っ当な人間社会においてはやはりクズの労働以前(以下)の所業でしかないでしょう。社会的存在としての人間は、単なる自己保存の活動を超えて、更に自己実現の仕事を為すことが要請されます。その場合、前者は肉体の糧を求める水平の次元、後者は魂の糧を求める垂直の次元として私は理解していますが、垂直の情念は水平の情念に優るということ、すなわち「人はパンのみにて生くるにあらず」ということのリアリティが改めて問われることになるのです。

実際、自己保存を最大の目的とするイキモノの水平の次元では、十分なパンさえあれば、その生は満たされます。そして満腹になれば、その後は「何もしないでいる」ことが「人間の最初の最も強い情念」だとルソーは言いますが、果たして本当にそうでしょうか。「最初」はそうでも、やがて「何もしないでいる」ことは苦痛になってくるのではないか。少なくとも私自身、怠惰においては人後に落ちない自信があり、新しき村で生活していた頃は怠け者の烙印を押されましたが、無為が心地いいのは束の間のことにすぎません。「何もすることがない」状態は常に人をニヒリズムに陥らせる危険性を孕んでいるからです。日曜日は必要ですが、定年などで毎日が日曜日になると、それはもはや日曜日ではなくなります。これはすでに近代的な病める心性による見解にすぎないのかもしれませんが、過度な無為は過度な多忙と同様に耐えられないと思われます。結局、厳密に言えば、「何もしないでいる」ことが幸福であるのは、あくまでも嫌なことを何もしないで好きなことだけをして過ごせるからにすぎず、完全な無為などあり得ません。この場合、嫌なこととは自己保存のためにしなければならない労働に他ならず、それを最小限に短縮し、自分の好きなことに没頭できる時間を最大限に増大させることに人間の幸福があると考えられます。マルクスも言っています、「この〔生きるために労働しなければならないという必然性の〕国の彼方で、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が始まる。しかし、それはただ、あの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそがその土台である」(植村邦彦訳)と。しかし問題は、「必然性の国」を超える「自由の国」の具体相です。単に好きなことだけをして過ごす生活、たとえば好きなだけ寝て、旨いものを好きなだけ食べ、面白いゲームを好きなだけ楽しむような生活を可能にするのが「自由の国」なのでしょうか。ここで傾向性(Neigungを超える「真の自由」をめぐる哲学的議論に深入りする余裕はありませんが、私はマルクスの言う「自己目的として認められる人間の力の発展」を「魂の糧を求める垂直の次元における自己実現の仕事」として理解しています。このような堅苦しい表現は徒に「自由の国」を窮屈なものに思わせるかもしれませんが、それは誤解です。私の拙い表現では説得力がまるでないものの、「自由の国」はその本質において祝祭共働態であるからです。

さて、昨今の働き方改革によって労働時間が短縮傾向にあるのは実に喜ばしいことです。くどいようですが、自己保存のために嫌々しなければならぬ労働は可能な限り短縮されるべきであり、実篤も「食うために労働する人が一人でもいる限り、その社会は未だ理想的ではない」と述べています。しかし、労働時間の短縮によって単に余暇が増えるだけでは本末転倒です。余暇に人間の本質があるとは到底考えられないからです。正にこの点にこそ、私のユートピア論が理解困難となる最大の理由があるのかもしれません。と言うのも、一般的には真面目に働いて、余暇にディズニーランドのような遊園地で楽しい時間を過ごしたり、あるいは何もしないでボーっとしていることに人間の幸福があると思われているからです。私も、休息としての余暇、心身の疲労回復(re-creation)の時間としての余暇は必要だと思いますが、それはあくまでも水平の次元における幸福であり、その理想状態はパラダイスに他なりません。勿論、パラダイスに人間の至上の理想を見出すことも一つの生き方ですが、「大富豪になりたい」というような個々の世俗的欲望を水平の次元だけで求めると、世界には様々な歪みが生じてきます。環境破壊、貧富の格差、教育の荒廃、立派なハウスはあってもホームではないという意味での故郷喪失、というような歪みです。私は決して個々の欲望が満たされるパラダイスを否定するつもりはありませんが、それに伴う歪みを克服するためにも、パラダイスはその偏狭な個人主義を超えていかねばならない、と考えています。さりとて全体主義に活路を見出すのではない。実際、「労働時間の短縮=余暇の増大」だけが求められるのなら、大衆はそれを保証してくれる絶対的な権力者の登場を大歓迎するでしょう。正に「自由からの逃走」です。重要なことはパラダイスの超克、すなわち個人主義でも全体主義でもない理想の実現であり、そこには垂直性というエートスが不可欠なのです。労働時間の短縮は畢竟、垂直的なユートピアを実現するための土台にすぎません。

何れにせよ、現代人が「何もしたくない」という情念と「何かを成し遂げねばならない」という情念の狭間で苦しんでいることは明白です。私は先に「ニートや引きこもりは典型的な人間のクズ」だと暴言を吐きましたが、これはあくまでも近代的な情念による見解に過ぎません。これに対して、「人間、何もしなくていいんだよ」と相田みつを的に言われれば、それはニートや引きこもりにとって確かに一つの救いになるでしょう。しかし、根源的な問題の解決にはならない。ここでも必要とされるのは、やはり垂直性です。ただし、垂直性は極めて危険なエートスであり、一つ間違えば容易にファシズムを誘発してしまいます。その点が実に難しいところです。

 

垂直性について(9)

私のユートピア論(ユートピアをめぐる思耕)における最大の課題は、「現在曲がりなりにも幸福に暮らしている人たちが敢えてユートピア実現に向けての一歩を踏み出すことはあるのか」というものです。例えば、先日の夕暮れ時、品川駅前の広場では労働組合の人たちが或る大企業の不当解雇を大声で糾弾し、その撤回を求めるビラを配布していましたが、道行く殆どの人はそれを無視して通り過ぎていました。おそらく、不当解雇された人は気の毒に思うものの、そんな他人の不幸に関わるよりも、一刻も早く帰宅して家族との団欒で癒されたいという「自然の情」の方が強いのでしょう。ここに「現在曲がりなりにも幸福」な大衆のエゴイズムと、太宰治が「家庭の幸福は諸悪の本」と言わざるを得なかった現実があります。しかし、我々はこうした大衆を批判できるのか。不当解雇という不幸に限らず、様々な窮状に苦しむ他者の不幸を真に自分自身の実存に突き刺さる問題とすることができるのか。宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」と述べていますが、これが単なるキレイゴトではない現実の地平はあるのか。もしあるとすれば、それは「垂直性に貫かれた場」だと私は考えています。では、垂直性に貫かれるとは如何なることか。

ここで思い出されるのはドストエフスキイが「おかしな人間の夢」という短編で描いている調和世界の運命です。そこは全ての人間が愛に満ちている美しい世界でしたが、〈おれ〉の登場によってその世界の調和は崩れ始めます。〈おれ〉は一体何をしたのか。十年一日の如き平穏な世界への「より豊かな生活への意志(欲望)」の導入ではなかったか、と私は理解しています。これは未開社会の幸福についても言えることで、ルソーによれば人間の不平等の起源は無垢な自然人から豊かな文明人への「堕落」に見出されますが、果たしてそれは本当に「堕落」と言い切れるのか。むしろ一般的には、自然にある(なる)ものの恩恵だけで生活するよりも、自然を人工的に改良して、自然の生産性を飛躍的に高める文明の獲得は「進化・発展」と見做されるでしょう。勿論、自然の人工的改良は往々にして原発事故に象徴されるような致命的な自然破壊をもたらし、また未開人には想像すらできぬ華美で贅沢な生活も「人間の本当の豊かさ」を反映したものであるかどうかは甚だ疑問です。しかし、さりとて文明を拒絶・否定して、人間は永遠に自然人であり続けることなどできるでしょうか。「病むべく作られて、健やかにと命ぜられて」とはブレイクの言葉ですが、逆説的に言えば、人間の自然性は反自然性であり、自然楽園を飛び出して人工楽園の実現に向かうのは極めて自然なことです。問題は人間にとって不可避である人工楽園に伴う運命の克服、より具体的には「近代の超克」にあると考えられます。

かくして現代人は自然と文明に引き裂かれる運命の渦に巻き込まれるわけですが、文明のもたらす弊害(貧富の格差、競争原理への隷属化、環境破壊など)ばかり目立つ現状では、文明以前の自然楽園へのノスタルジアは容易に棄て切れないでしょう。少なくとも私は、曲がりなりにも人々が幸福に暮らしている未開社会を無闇に文明化(開発)することなど到底容認できません。文明人には曲がって見える幸福も、未開人にとっては真直ぐな幸福だからです。ちなみに、同様の観点から、私は江戸時代の鎖国についても考えます。周知のように、黒船来航という外圧によって江戸幕府は開国を余儀なくされましたが、もし鎖国のままでいられたなら一体どうなっていたのか。開国した御蔭でアジアでいち早く近代化に成功したのは事実ですが、それは人々を本当に幸福にしたのか。鎖国のまま暮らしていた方が、たとい文明的には遅れたとしても、むしろ文化は爛熟して人々は幸福であったのではないか。実際、文明に取り残された未開社会の生活も一つの文化、しかも極めて豊かな文化です。少なくとも開発だけが理想社会への道でないことは当然です。とは言え、黒船来航が不可避であったように、ますますグローバル化する現代社会において、未開社会が未開のままであることも実質的には不可能でしょう。開発はやはり全ての人間にとって必要不可欠です。ただし、来るべき真に望ましい開発は、従来のような水平的な開発ではなく、あくまでも垂直的な開発でなければならぬと私は考えています。そこにこそ「近代の超克」の可能性も見出されるでしょう。

何れにせよ、水平的な幸福だけを追求している限り、人は他者の幸不幸に実存的な関心を抱きません。自他共生の連帯も、垂直の次元においてこそ祝祭的に実現すると思われます。しかし、それは決して宗教的に要請されるような聖なる次元ではなく、あくまでも日常的に生活する俗なる次元であるべきです。未開でも鎖国でもなく、我々は粘り強く「人間が本当に人間らしく生きる世界」への一歩を摸索し続けねばなりません。

 

垂直性について(8)

学校と並んで人生において重要なものは会社です。かつて日本の会社は、経営者(雇用者)にとっても労働者(被雇用者)にとっても、「家族」を形成していました。つまり、多くの会社員(サラリーマン)にとって、自分の「家」である会社のために働くことが生き甲斐であったのです。しかし、今や終身雇用制はほぼ崩壊し、会社はもはや「家」ではなくなりました。日本の高度経済成長期の活気ある「家」においては、植木等演じる無責任男・平均(たいらひとし)のような人間も許容できたでしょうが、今では殆どの人にとってサラリーマンは気楽な稼業ではありません。勿論、自分の仕事に生き甲斐を感じて取り組んでいるプロフェッショナルも少なくないと思います。私は「食うための労働」と「自己を生かす仕事」の区別について述べてきましたが、両者の一致ほど幸福なことはないでしょう。しかし、そうした幸福は才能に恵まれた一部の人たちに限られます。大半の人は両者の分離を余儀なくされ、ただ「食うための労働」に齷齪する他ありません。ちなみに現在放送中のテレビドラマ「左ききのエレン」のキャッチフレーズは「天才になれなかった全ての人へ」というものですが、天才はたとい破滅するにしても自由奔放な一生を全うできるのに対し、殆どの凡人は人生の大半を「食うための労働」に費やすことを余儀なくされるのが現実です。かく言う私も凡人の一人としてこの現実に苦しんでいますが、それは自分が天才ではないという現実に対するものではありません。天才の眩しいばかりの生には憧れますが、特に天才になろうとは思わないのです。何故か。そもそも天才は凡人が努力して「なる」ようなものではなく、端的に「ある」ものです。確かに天才の存在は輝かしく、実に魅力的なものですが、それは天才個人において完結した世界であり、私がここで追求している人間の理想とは質的に全く異なります。おそらく、天才は凡人には見ることのできない光景を見ようとしていると思われますが、私は全ての人間が見ることのできる理想を問題にしたいのです。しかし、誤解のないように断っておきますが、それは天才の理想を等閑視したり、人間の理想を凡人の最大公約数で平均化するようなものでは断じてありません。理想の次元が全く異なるのです。天才の理想が個的宇宙の極であるとすれば、我々はもう一方の極として祝祭共働的宇宙という理想を実現したいのです。

どうもまた横道に逸れましたが、天才における個的宇宙の理想は言うまでもなく、我々の理想とする祝祭共働的宇宙についても焦点はその垂直性にあります。冒頭の「家族」としての会社の崩壊という問題に戻れば、果たして会社が祝祭共働態になる可能性はあるのか。もはや家族的会社などというものは時代遅れの産物であり、多くの人にとって会社は「食うための労働」を余儀なくされる場でしかないでしょう。つまり、大衆の願いは労働時間の短縮であり、それぞれの「自己を生かす仕事」は余暇にこそ見出される、ということです。しかし、本当にそうか。それは凡人がそれぞれの個的宇宙に引きこもることでしかないと思われます。勿論、人間の生き方は自由であり、余暇に生き甲斐を見出しても全く構いませんが、私は凡人として、天才が見ようとしている理想に匹敵する理想、すなわち祝祭共働態というヴィジョンに憑かれています。それは具体的に如何なるものか。

 

垂直性について(7)

血縁のない仲間から「これからはあなたも私たち家族の一員です」などと言われる場合、それは最高の歓迎を意味します。通常、家族以上に強い絆はないからです。しかし同時に、そこには何かベタベタした実に嫌な感じもあります。血縁の家族は切ろうとしても切れない自然の関係ですが、血縁なき「家族」はやはり不自然だからです。とは言え、その是非は別として、家族が最高の絆の象徴であるとすれば、血縁がないにもかかわらず「家族」を形成することには人間関係の一つの理想があることは間違いありません。例えば、学校における人間関係です。もし学校が単に個々の学生が勉強をするだけの場所であるなら、一つの場所で多くの人たちが集団で学習しているだけのことですが、そこに何らかの有機的結び付き(師弟関係や生徒間の友情など)を通じて愛校心が芽生えてくれば、教師と生徒、更には事務員をも含めた学校全体が「家族」になっていきます。実際、「あの有名校の制服が着たい!」という受験生の夢などは、その学校の「家族」の一員になることへの憧憬ではないでしょうか。勿論、これは学校に限らず、小は仲良しグループから大は国家まで、人間は常に「家族」の関係を求めていると言っても過言ではありません。それが血縁の家族を核とする同心円上に求められにせよ、逆に家族への反撥によって求められるにせよ、「家族」の絆は理想社会の要石なのです。

ただし、「家族」の絆が人間の理想となるためには、それは全体的でなければなりません。その絆が強固であればあるほど、「家族」はそれに属さぬ者たちへの迫害として機能するからです。「家族」はいじめの原動力にもなるのです。従って、自分がいじめられないように、好きでもない「家族」の一員になるというような実に醜悪な現象も生じます。こうした場合、「家族」は明らかに抑圧の象徴でしかありません。学校の例に戻れば、学校全体が「家族」になることを歓迎する者もいれば嫌悪する者もいる、ということです。後者にとって、学校は個人が何かを学ぶ単なる場所であって、それ以上のものであってはならず、有機的な結び付きなど個人を抑圧する温床でしかないでしょう。そうした心性を支配しているのは徹底した個人主義であり、「家族」のみならず家族でさえ、個人にとって息苦しい人間関係、いや人間関係そのものが息苦しいものになります。太宰治は「家庭の幸福は諸悪の本」と述べましたが、確かに「家族」の幸福を求めると様々な悪が生じてくるのは事実です。しかし、そこにはそれでも真の「家族」を求めざるを得ぬ太宰のイロニーがあるような気がしてなりません。では、真の「家族」とは何か。私は先に、「家族」の絆は全体的でなければならない、と述べましたが、それが個を抑圧するような印象を与えるのは何故か。日本人だけが「家族」なら、それ以外の国民はどうなるのか。地球人だけが「家族」なら、宇宙人はどうなるのか。水平の次元では、どこまで行っても「家族」の限界を超えられないでしょう。やはり、問題は垂直性に収斂するようです。

 

垂直性について(6)

海外で航空機墜落事故などがあると、真先にその大惨事に日本人が巻き込まれていないかどうかが報道されます。別に日本人以外はどうなってもいいということではありませんが、「被害者の中に日本人はいません」と言われれば我々は何となくホッとします。それは全く自然の情であり、一度もお会いしたことのない赤の他人でも、単に日本人であるというだけで「家族」になるのです。しかし先述したように、「家族」は極めて重層的です。個人幻想、対幻想、共同幻想という三層に即して言えば、「家族」は対幻想から始まる血縁の家族を核とする共同幻想に他なりません。それは一般的には同郷のような地縁に基づく共同幻想ですが、「家族」は更にそれを大きく超えて発展していきます。極端な例を挙げれば、マフィアです。彼らは自らの組織をファミリーと呼ぶそうですが、暴力団や半グレ集団もそれぞれの「家族」を形成していきます。ただし、血縁の家族や地縁の「家族」までは自然に形成されますが、それ以上の「家族」には人工的(人為的)な結束のイニシエーション(固めの盃)が必要になるでしょう。実際、同じ趣味を持つ仲間の同好会程度の緩やかな「家族」から始まったとしても、その組織が結社として発展していくにつれて、より強固な絆(鉄の結束)が求められるのは必定です。そこには宗教の運命に匹敵する問題があり、「家族」の絆は常に個人の自由を束縛する危険性を孕んでいます。勿論、血縁の家族も例外ではなく、むしろそれが切っても切れない自然の絆であるだけにより一層、個人の自由を抑圧する「イエの問題」が運命として重くのしかかってきます。或る意味、人は血縁の家族の息苦しさから逃れるために、新たな「家族」を求めているとさえ言うこともできるでしょう。

ところで「新しき村」も、その精神を絆とする「家族」を求めていると言えます。従って、個人の自由に至上の価値を見出す現代人にとって、「新しき村」もまた息苦しい共同体の一つでしかないでしょう。私はそうした感性それ自体は実に自然だと思いますが、人間は個人の自由だけで本当に輝いて生きられるでしょうか。確かに個人の自由は極めて重要です。しかし、近代の個人主義が個々バラバラの索漠とした無縁社会をもたらしたのも事実です。それ故にこそ、新しき「家族」が切実に求められるわけですが、それが因循姑息なイエに雁字搦めになった古き「家族」に逆戻りしないためにはどうすべきか。繰り返しになりますが、新しき「家族」に不可欠なのは垂直性に他なりません。とは言え、垂直性の導入は常に危険な運命を胚胎しており、「新しき村」の理想も場合によっては八紘一宇として理解される可能性もあります。喫緊の課題は、そうした垂直性の運命を如何にして超克するか、ということなのです。

 

垂直性について(5)

碌にルールも知らないのに、今回のワールドカップにおける日本チームの大活躍で俄ラグビーファンになった人も少なくないでしょう。かく言う私もその一人で、激しいモールの場面では思わず知らず全身を緊張させて目の前の何かを必死に押していたりします。どうして他人事なのに、かくも熱くなれるのか。他人事? いや、曲がりなりにも日本人の末席を汚す私にとって、日本チームの奮闘は決して他人事ではありません。よくファンも選手と共に戦っていると言われますが、それは単なるファンへの社交辞令(リップサービス)ではなく、本当の事実だと思います。しかし、個々の人間は明らかに他人なのに、何故チームになると他人事ではなくなるのか。それは団体競技に限りません。と言うのも、個人競技の選手の活躍も他人事ではなくなりますが、オリンピックなどの国際大会で日の丸を背負えば、たとい個人競技であっても、その選手は日本チームの一員に他ならないからです。そこには恰も自分の家族の誰かが頑張っているのを応援しているような感情移入があります。しかし、こうした感情移入の範囲はどこからどこまで可能なのか。ザメンホフは「全人類を一つの家族と見做す」と述べていますが、これは本当に可能なのか。

血縁関係のある家族には、愛するにせよ憎むにせよ、直接的な感情移入があるのは当然です。問題は、血縁のない人間関係のどこまでが「家族」になり得るのか、ということです。従って、ここで問題になる「家族」はかなり広範囲の人間関係を射程に収めているのであり、そこには何らかの有機的結びつき(縁)がなければなりません。例えば、地縁です。同じ土地で生まれ育った人間同士の関係、すなわち同郷の人間関係は「家族」を育みます。また、同郷の地縁と言っても、同じ学校の出身という母校愛に基づく人間関係もあります。ただし、学校という地縁は同郷に限らず、故郷を遠く離れた地にある学校の同窓においても成立します。更に言えば、同じ職場という地縁(同じ会社で働く従業員は家族!)もあり得るでしょう。尤も、ここまで拡大解釈された地縁が許容されるのかどうか不安になりますが、私としては「同じ空間を生きる」という関係性を広義の地縁と解したいのです。そして、空間について言えることは時間についても妥当し、「同じ時間(時代)を生きる、もしくは生きた」という関係性も「家族」を形成することができます。地縁に対する時縁(そんな言葉があるとして)です。つまり、血縁という一次的な関係性に基づく家族を核として、様々な地縁・時縁という二次的な関係性に基づく「家族」がある、ということです。

何れにせよ、人間はのっぺらぼうでは生きられません。自分が何者であるかということは、人間関係を様々な縁で分節化することで明らかになっていきます。しかし、それは一般的には水平の次元における分節化に他なりません。勿論、水平的に分節化された家族や「家族」が悪いわけではありませんが、「全人類を一つの家族と見做す」ということが本当に可能になるためには何かが足らないのです。それは垂直性です。言い換えれば、血縁と地縁(血と大地というと、どうしてもナチスを連想してしまいますが)を超越する「家族」ですが、それは具体的に如何なるものか。

 

垂直性について(4)

住井すゑの名作「橋のない川」を読み返し、改めて「水平社宣言」の歴史的意義に思いを馳せれば、更に遡ってその原点とも言うべきフランス革命の人権宣言、すなわち「人は、生まれながらにして、自由であり、権利において平等である」という真理について思耕せざるを得なくなります。果たして、これは本当に真理なのか。もしそうなら、我々の生きている社会はこの真理を実現していると言えるのか。こうした問いにおいて、私はザメンホフの唱えるホマラニスモ(homaranismo:人類人主義)に注目したいと思います。「私は人類人だ」(Mi estas homarano.)という信念を貫いて生きたザメンホフのホマラニスモこそ、人権宣言の真理性を吟味するに相応しい試金石となるからです。彼は「ホマラニスモに関する宣言」の冒頭で次のように記しています。

Mi estas homo, kaj la tutan homaron mi rigardas kiel unu familion; la dividitecon de la homaro en diversajn reciproke malamikajn gentojn kaj gentreligiajn komunumojn mi rigardas kiel unu el la plej grandaj malfeliĉoj, kiu pli aŭ malpli frue devas malaperi kaj kies malaperon mi devas akceladi laŭ mia povo.

Mi vidas en ĉiu homo nur homon, kaj mi taksas ĉiun homon nur laŭ lia persona valoro kaj agoj. Ĉian ofendadon aŭ premadon de homo pro tio, ke li apartenas al alia gento, alia lingvo, alia religio aŭ alia socia klaso ol mi, mi rigardas kiel barbarecon.

(私は人間だ。そして全人類を一つの家族だと見做している。すなわち、互いに憎み合う様々な民族や民族宗教における人類の分断、それは遅かれ早かれ消滅すべきものだが、そうした分断を私は最大の不幸の一つと見做し、その消滅を全力で早めなければならぬと思っている。

私はそれぞれの人間に人間しか見ない。そしてそれぞれの人間をその個人的な価値と行為に即してのみ評価する。その人間が私とは別の民族、別の言葉、別の宗教、あるいは別の社会階層に属しているということのために侮辱されたり抑圧されたりすることを私は野蛮なことと見做す。)

さて一般的には、こうしたホマラニスモに異を唱える人は皆無でしょう。素晴らしい理想だと拍手喝采する人も少なくないと思います。しかし、現実にはどうか。人間として現実に生きるとは如何なることか。ザメンホフは「私は人類人だ」と言いますが、これはユダヤ人であるとかポーランド人であるという民族性を超越しているのか。確かに人類人の世界には、例えば日韓対立のような民族間の軋轢などあり得ないでしょう。日本人も人類人、韓国人も人類人であるなら、両者共に人類人であるという同一性においては対立の起こりようがないからです。しかし、それではそれぞれのアイデンティティはどうなるのか。人類人とは畢竟のっぺらぼうにすぎず、民族間の平和はそれぞれの民族がのっぺらぼうになることによってしか成立しないのでしょうか。もしそうなら、そんなのっぺらぼうの平和にどんな意味があるのか。実際、多くの人にとって人類人の平和はヘーゲルの言う「全ての牛を黒くする暗闇」の如き平和を意味するように思われます。

しかし、おそらくそうした理解はザメンホフの本意ではないでしょう。彼は「互いに憎み合う様々な民族や民族宗教における人類の分断」の消滅を求めているのであって、民族や民族宗教そのものの消滅を願っているわけではないからです。しかし、民族や民族宗教が存続する限り分断がなくならないのも道理であり、ホマラニスモを徹底させるなら、やはり民族や民族宗教の消滅まで求めなければなりません。その徹底を実行したのがランティであり、そのsennaciismo(無民族主義)こそホマラニスモの究極態だと言えます。ただし、真理の徹底が我々の現実的な理想になるかどうかは別問題です。これは「橋のない川」にも出てくる議論ですが、「人間は全て無条件に平等だ」という真理に対して「人間社会は身分の区別があった方が円滑に治まるのだ」という考えもあります。天皇制もまた然り。フランス革命におけるギロチンの徹底、その後のジャコバン派の反動を考えれば、絶対君主制は消滅すべきだとしても、立憲君主制は案外最善の理想社会を意味するものと考えることもできます。しかし、本当にそうか。問題の焦点はナショナリズムの是非にあると思われます。

 

垂直性について(3)

水平化した現代社会に垂直性を導入するとは如何なることか。水平化を世俗化と解するならば、それは世界に聖なるものを取り戻すこと、すなわち世界の聖化に他なりません。しかし、このような表現もまた声なき声とならざるを得ず、おそらく誤解は必至でしょう。一般的には二種類の誤解、すなわち政治的誤解と宗教的誤解が想定されますが、厳密に言えば両者は深層的には密接に関係しています。言わば、政治的誤解は根源的な宗教的誤解の表層部分を成しているのです。では、その表層についての思耕から始めることにします。

さて、本日(令和元年1022日)、新しい天皇の「即位の礼」が行われました。報道によれば、国民の大半はこれを支持・祝賀しているようです。尤も、今でも「天皇制絶対反対!」と執拗に叫んでいる国民も皆無ではないでしょうが、圧倒的に少数である事実は否めません。共産党ですら、「即位の礼」の儀式への出席はしなかったものの、もはや「天皇制の打倒」を目指すことなく、むしろ皇室の存在を容認しているのが厳然たる日本の現実です。しかし、当面その是非は別として、この現実は非常なイロニーを胚胎していると言わざるを得ません。そもそも、これは水平化した現代社会の象徴なのか否か。すでに人間宣言した天皇はもはや垂直性の象徴足り得ず、「などてすめろぎはひととなりたまひし」という慟哭も遠い昔の追憶の中にしかありません。つまり、今や国民の大半に支持されている天皇制は天皇の存在それ自体の水平化によって成っているのです。しかし、天皇が水平化されたのに、どうして天皇制はなくならないのか。一体、これ以上のイロニーがあるでしょうか。

実際、一切を水平化する現代の論理に即して言えば、天皇制もまた水平化されて消滅すべき運命にあるのは当然です。しかし、天皇制はなくならない。むしろ、国民の多くに熱烈に歓迎されている。何故か。端的に言えば、人間は徹底的に水平化した社会では十分に生きられないからです。「人間は何にせよ神なしでは生きられない。神をしりぞけると、今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキイの言葉ですが、人間の生活に垂直的なものが不可欠であることは厳然たる事実です。しかし、繰り返し述べているように、垂直的なものはほぼ必然的に世俗化される運命にあります。「水平化した現代社会への垂直性の導入」という私の使命、それは私が理想とする「新しき村」の使命でもありますが、それを政治的に表現すれば「大義の復活」にもなり得るでしょう。大義とは自分が本当に生きる意味であり、肉体の糧を超える魂の糧です。新しき村百年の歴史には、佐郷谷留雄というテロリストの先輩も含まれますが、そこに垂直性の魔力があることは間違いありません。しかし、それはやはり誤解です。私は最近、オタクたちの「推し」という用語を知りましたが、大義とは畢竟右翼たちの「推し」にすぎないのではないか。この点では、人間天皇も地下アイドルと変わらず、共に水平化した現代社会に求められる垂直的なものの擬似的な象徴に他ならないのです。

 

垂直性について(2)

キルケゴールは「キリスト教世界へのキリスト教の導入」を自らの使命としました。これは端的に当時のデンマーク国教会が彼の理想とするキリスト教ではなかったことに他なりません。一体、何が問題だったのか。鄙見によれば、そこには宗教の運命、より一般的には理想や理念の運命があります。宗教の運命に即して言えば、それはデンマーク国教会に限らず、そもそもキリスト教が民族宗教の殻を破ってローマの国教として認められるほどの普遍性を獲得していく過程、更に遡ればイエスの教えがキリスト教として発展していく過程に胚胎しているものです。おそらく、イエスの教えはパウロなくして「キリスト教」として発展しなかったでしょう。余談ながら、マルクスの思想もまたエンゲルスなくして「マルクス主義」として発展することはなかったと言われています。その意味において、パウロはキリスト教発展の、エンゲルスはマルクス主義発展の、それぞれの立役者として高く評価されますが、その反面、それぞれの原点からの逸脱者、場合によっては原点の歪曲者と見做されることもあります。しかし、たといそうであったとしても、理想や理念の所謂「加上」は避けられません。富永仲基は大乗非仏説を主張しましたが、確かに大乗仏教とブッダそのものの教えとの間には明らかな断絶が認められるものの、私は「加上」それ自体を一概に否定しようとは思いません。言い換えれば、恰も歴史の手垢にまみれた仏教を徹底洗浄するかのようにしてブッダの原点を発掘できたとしても、そこには宗教の純粋理念はあっても現実的な運動はないからです。更に言えば、重要なことは純粋な理念を純粋に保つことではなく、それを現実の中でラディカルに活かしていくことにこそあるのです。とは言え、純粋理念が現実に運動し始めれば、そこには様々な手垢がついて汚れていくのは当然です。しかし、手垢というと語弊がありますが、私はそれを実定化という純粋理念の避けられない運命として理解しています。従って、キルケゴールにとっての「真のキリスト教」も、決してイエスの原点に後ろ向きに回帰することではなく、あくまでも原点を前向きに反復することで実現するものと考えられます。つまり、真なるものは純粋理念の原点として客観的に存在するものではなく、むしろ歴史を通じて主体的に運動していくものなのです。勿論、その運動は理念の実定化を以て始まり、そこには理念の堕落が不可避ですが、我々はその運命から逃げ出すわけにはいきません。さりとて堕落した理念との妥協など論外です。では、どうすべきか。キルケゴールの教会闘争が水平化した教会に対する批判、すなわち垂直性を失ったキリスト教に対する批判だったとすれば、我々もまた垂直性の前向きの反復に集中すべきでしょう。少なくとも私はキルケゴールに倣って、「水平化した現代社会への垂直性の導入」を自らの使命にしたいと思っています。

 

垂直性について

チコちゃんには叱られるかもしれませんが、人生の大半はボーっと生きているものです。そもそも何のためにこの世に生まれてきたのか、本当のところはよくわかりません。ボーっと生まれ、ボーっと成長し、ボーっと学校に行き、ボーっと就職し、ボーっと結婚して家庭を持ち、ボーっと子供たちの成長を眺め、ボーっと年老いて死んでいく――それは実に無意味でくだらない人生のように思われますが、良く言えば行雲流水の如き生、常に本能というか感情の赴くままに自然に生きることは美的生の極致であり、実に幸福な人生だとさえ言えるでしょう。しかし、なかなかそうはいきません。病魔や事故に見舞われることもあるだろうし、学校や会社には嫌な奴がいるだろうし、愛すべき妻も永久に愛すべき存在であるとは限らないし、自分の子供もグレて手が付けられない不良になるかもしれないし、とてもボーっと生きてなどいられないのが現実です。つまり、殆どの人間はボーっと生きたくても、何らかの躓きに直面せざるを得ないのです。勿論、一生躓くことのない、順風満帆を絵に描いたような人もいないわけではないでしょうが、それは人間にとって本当に善いことなのか。確かに先述したように、一生ボーっと生きられるなら、それはそれで一つの僥倖ですが、少なくとも私は誕生から死まで恰も心太のように自分が押し出される人生に魅力を感じません。尤も、これは挫折の連続を生きてきた私の僻みかもしれませんが、躓きのない一生は水平的には確かに幸いであるものの、そこにどんな生の充実があるでしょうか。結局は人生観の違いに行き着くしかないにしても、ここで躓きと挫折の差異について少し思耕しておきます。

鄙見によれば、躓きは一生に一度だけ、無垢の状態においてのみ生じるものです。プルーストは「本当の楽園は失われた楽園だ」と書いていますが、楽園は失われて初めて「ああ、あれが楽園だったのか」と意識されるわけで、意識された楽園はもはや本当の楽園ではありません。同様に、無垢も失われて初めて、それが無垢であったことが意識されるのであり、躓いて意識された無垢はすでに本当の無垢ではないのです。そして無意識に生じた最初の躓き以後、すなわち意識される二度目の躓きからは本当の躓きと区別する意味で挫折と称したいと思います。原理的に言っても、ボーっと無意識に生きている人に挫折はあり得ません。挫折は何かを意識して望んだ人にのみ生じるものだからです。例えば、失恋は恋をしなければ起こりようがないのです。人生は一般的に、何かを欲望し、それが満たされたり挫折したりする一喜一憂から成っていると言えます。従って、ストア派のアタラクシアやジャイナ教並びに一部の仏教が説く禁欲や無欲こそが人間に幸福をもたらすと考えられるわけです。確かに、欲望がなければ挫折もなく、平静な心で一生ボーっと暮らすことに最大の幸福があるという考えには一理あります。私はここにアルカディアの理想の典型を見出します。実際、エデンは全ての人間が衣食住に煩わされることなくボーっと日々を過ごすことのできる楽園だったでしょう。ヘーゲルによれば、エデンはケモノのみが満足して暮らせる楽園とのことですが、私も人間はエデンに留まり得ない、更に言えば留まるべきではないと思います。蛇の誘惑があったにせよ、リンゴは食われるべくして食われたのです。その意味において、人間にとって躓きは不可避であり、人生の輝きは挫折を螺旋的に反復していくことにこそあるのです。では、挫折の螺旋的反復とは何か。

大雑把に言って、有史以前の楽園であるアルカディアを喪失することを以て我々の実質的な歴史が始まったのであり、それは中世から近代にかけて再生した個々の人間の欲望を解放するパラダイスの追求において一つのピークに達していると考えられます。つまり、現代人は否応なくもはやボーっと生きてなどいられなくなったのであり、不断に駆り立てられる欲望の充足を幸福の指標とすべきことを余儀なくされているのです。言うまでもなく、全ての人間が自らの欲望を充足できるとは限らず、それぞれのパラダイスに格差が生じてくるのは当然です。従って、限りなき欲望の充足に絶え間なく駆り立てられる人生に心底疲れ果てた現代人(所謂、負け組と称される人たち)の中には、再びボーっと生きていられる楽園(アルカディア)に憧れる人たちも少なからずいることでしょう。通常、そうした人たちは脱サラを決意し、人里離れた山奥でノンビリした自給自足の農的生活を目指したりします。その一部は新しき村を求めたりするでしょうが、もしそれが単なる競争社会からの逃避にすぎないのなら、少なくとも私が求めている「新しき村の理想」とは無縁です。と言うのも、「ノンビリした自給自足の農的生活」は今や競争社会の所謂勝ち組である金持もしくは裕福な年金生活者のみに許された特権にすぎず、残念ながらこの世界に競争から逃避できる場所など皆無だからです。言い換えれば、単に競争社会からドロップアウトすれば、そこに自ずと共生の世界が拓けてくることなどあり得ないのです。競争社会を拒否しても、ただそれだけでボーっと生きられるわけではありません。むしろ、自給自足(自営)の生活はサラリーマン生活以上にボーっとしてなどいられないでしょう。競争社会の克服が「近代の超克」であり、共生社会の実現がその核心的課題であることに間違いありませんが、たとい水平的に挫折を繰り返す結果になったとしても、断じて競争社会から逃避してはならないと私は考えています。ただし、そこには垂直性が不可欠です。アルカディアの躓きから始まるパラダイス追求における挫折の螺旋的反復はユートピアの垂直的充実を要請するからです。