新・ユートピア数歩手前からの便り -99ページ目

声なき声(10)

私にとって「声なき声」とは、どうしても話したいこと、話さねばならないことを言葉にしても声にならないことです。あるいは、私が言葉にしても他者には声となって耳に届かないことです。何故そうなるのか。書き方の拙さを別にすれば、やはり私の問題意識が全く時代遅れになっているからでしょう。端的に言えば、私が問題にする理想は人気がなく、殆ど誰も関心を示してくれません。逆に言えば、世間一般が憧れる理想、いや厳密にはもはや理想ではなく、理想不在の夢と言うべきでしょうが、そうした世間の流行に私は興味を抱くことができないのです。それでも臆病な私は時代に取り残されて孤立するのが怖くて、人並みに世間の流行に注目してみるのですが、やはりそこには大きなズレがあるように感じられます。卑近な例を挙げれば、私は映画やテレビドラマを殆ど中毒のように可能な限り観るように努めていますが、最近の主人公の行動には疑問、と言うより苛立ちを感じることが多くなりました。特に恋愛ドラマにおいて、それが目立ちます。そもそも恋愛ドラマの基本は、男性から言えば「マリアかマルタか」というテーマに収斂すると思われますが、美的にはマリアだが倫理的にはマルタだという「あれか、これか」を軸に物語が展開します。これを更に俗的に単純化すれば、「性悪の美女か、気立てのいい醜女か」という「あれか、これか」になるでしょう。勿論、マリアが性悪というわけではなく、またマルタも決して醜いわけではないでしょうが、「一心不乱にイエスの言葉だけに集中するマリア」と「食事も含めたイエスの身の回りの世話に忙しく立ち回るマルタ」との対比は美的生と倫理的生の対比と理解することができ、それは更に外的な美(目に見える美しさ)と内的な美(目に見えない美しさ)との対比に単純化される、ということです。従って、ステレオタイプのドラマにおいては、外的に美しい人は内的には醜く、逆に内的に美しい人は外的には醜いとした方が対比が強調されるわけで、外的にも内的にも美しい人の存在ではドラマになりません。外的にも内的にも美しいとは「完璧に美しい」ということであり、そこには選択の余地がないからです。かくしてドラマは総じて外的な美と内的な美の選択を巡って展開し、キルケゴールのレギーネ体験がその典型ですが、前者を求める美的生と後者を求める倫理的生の葛藤が描かれます。そして通俗的には、ジッドの「田園交響楽」のように、目に見えない美の真理が目に見える美の現実に大きく揺さ振られるドラマから感動が生まれてくる筈なのですが、どうも最近のドラマに私は余り感動できなくなったのです。何故か。一つの理由として、昨今のドラマは往々にして倫理性が甚だしく欠如しており、古い人間である私には到底見ていられない場面が多い点が挙げられますが、それが決定的な要因だとは思えません。そもそも感動は倫理的な生き方に尽きるわけではなく、美的な生にも感動はあります。と言うより、むしろ倫理的なものを超えていく美的なものにこそ芸術本来の大きな感動があるのです。それなのに感動がないとすれば、美的結末にせよ倫理的結末にせよ、そこには芸術に値するリアリティが欠けているということに他なりません。では、感動を生み出すドラマのリアリティとは何か。それは垂直性だと私は考えています。端的に言えば、最近のテレビドラマに垂直性を感じることなど殆どなく、主人公の行動を中心としたドラマは単に水平の次元だけで展開しています。そして少なくとも私にとっては、水平の次元にどんなに荒唐無稽な事件が生じても、そこに垂直の次元との関係がなければ単なるバカ騒ぎにしかすぎず、その事件は感動的なドラマにはなり得ません。それ故、私は垂直性を熾烈に求めるのですが、それは何も卑近なテレビドラマに限ったことではありません。むしろ私はユートピアの追求を核とした理想社会実現のドラマにこそ垂直性を求めているのですが、問題はその思いが声にならないことです。あるいは、先述したように、それを声にしても他者には具体的な声になって届かない、ということです。その一例を、二人のシモーヌの対比を通じて示したいと思います。

言うまでもなく、二人のシモーヌとはシモーヌ・ド・ボーヴォワールとシモーヌ・ヴェイユです。ボーヴォワールは二人の出会いと別れを次のように描いています。

「ある日、私はうまく彼女に近づくことができた。どういうふうに会話が始められたか、もうおぼえていない。彼女は、今日の世界で重要なことはただ一つ、あらゆる人々に食べ物を与える革命だけだと、一刀両断という調子で言い切った。私は、問題は人々の幸福を作り出すことではなくて、彼らの生活に一つの意義を見出すことだ、とかなり強い調子で反駁した。彼女は私をじろりと見て、あなたが一度もおなかをすかしたことがないっていうことがわかるわ、と言った。私たちの交際はそこまでで終わりだった」(『娘時代』)

さて、私はこのエピソードにおいて、「ヴェイユが水平的でボーヴォワールが垂直的」などという皮相な対比を示したいわけではありません。しかし通俗的にはそのように理解され、ヴェイユは「パンの問題」に集中し、ボーヴォワールは「パン以上の問題」に取り組んでいる、と見做されるでしょう。あるいは、僭越ながら私の言葉を用いれば、ヴェイユは「肉体の糧」を求め、ボーヴォワールは「魂の糧」を求めている、と理解することも可能です。勿論、我々の問題はそんな単純な二元論で割り切れるものではありませんが、殆どの人(大衆)はそうした通俗的な理解の地平を離れることはないと思われます。従って、二人のシモーヌの対比に関して発せられる私の声も、結局はそうした大衆の地平で変換されて理解されるしかありません。実際、私のユートピア論は「パン以上の問題」であり、「一度もおなかをすかしたことがない」人間のみが没頭し得るものだと見做されるに違いありません。そうした水平的理解を如何にして反駁するか。我々の生活に垂直性を求める「声なき声」は如何にして人々の耳に届くのか。試行錯誤は続きます。

 

声なき声(9)

善き飼い主による「食うための労働からの解放」は一部の特権階級にのみ許されるものであり、明らかに一般的なものではありません。一般庶民がそれを実現できる可能性としては、やはり「宝くじの当選」くらいでしょうが、それも一般的とは言えないでしょう。勿論、年金制度が正当に機能すれば、真面目に労働してきた老齢者は「食うための労働からの解放」が約束されます。しかし厳密に言えば、これは労働からの解放と言うよりも、高齢で労働できなくなった人たちの生活保障にすぎません。ちなみに新しき村では、或る年齢に達すれば義務労働から解放されて自由村民になれるとされています。ただし、この自由も遅くとも三十代に得てこそ理想と言えますが、現実には年金制度と同様に、労働できなくなった高齢者にのみ与えられるものでしかありません。それでは意味がないのは当然です。尤も、かなり高齢になっても労働し続けざるを得ぬ人が少なくない過酷な現実からすれば、六十五歳になれば例外なく必ず労働から解放される制度の確立は決して無意味とは言えないのも確かです。しかしここでは、あくまでも「食うための労働からの解放」の根源的な意味について思耕したいのです。

原理的に言えば、誰かに食わせてもらうことを論外とすれば、「食うための労働からの解放」は協働によるしかないと考えられます。そもそも「食うための労働」とは一次的には「食べものの獲得」であり、狩猟採集(自然にあるものを取る)にせよ農耕畜産(自然を利用して作る)にせよ、誰もがそれに従事する必要があります。従って、それを奴隷に強要できる主人を除いては、「食うための労働からの解放」などあり得ないことになります。それは事実上、「食うための労働からの解放」を普遍的に実現することは原理的に不可能だということを意味します。また協働に関しても、中国の文化大革命における上山下郷運動のような試みを更に徹底させて、たとい「食うための労働」を全員で平均化して大幅に軽減するすることに成功したとしても、それをゼロにすることはできません。ただし、ややSF的な話になりますが、「食うための労働」を一切ロボットに任せられるようになれば、「食うための労働からの解放」は原理的には可能になるかもしれません。しかし、それはロボットを奴隷にすることに他ならず、たといそれによって全人類が解放されるとしても、「主人-奴隷」関係に基づく解放が真の解放と言えるかどうかに関しては依然疑問が残ります。とは言え、「食べものの生産」が必要不可欠である以上、ロボットにせよ何にせよ、何かが私の代わりになること以外に私の解放があり得ないことは厳然たる事実です。尤も、現実の農業従事者の比率から言えば、世界平均で20%を切っており(日本は3.7%)、殆どの人はすでに一次的意味での「食うための労働」から解放されています。つまり、自分以外の誰かが生産したものを食べているのが一般的であり、今や「食うための労働」はそれを買うための「お金を稼ぐこと」という二次的な意味に転化し、その重要性が逆転しています。と言うのも、今後深刻な食糧危機への転落がないとは限りませんが、今のところお金さえあれば何でも買える世の中が続いているからです。実際、お金は今や万物の神であり、人も世界もその摂理によって動かされています。言い換えれば、お金が人を神にし、同時に奴隷にもするのです。結局、「食うための労働からの解放」はお金の力によって実現するしかなく、「如何にしてお金を稼ぐか」が現実的な声になりますが、その結果、お金を稼ぐことに成功した人は勝ち組、失敗した人は負け組、という格差が生じてきます。これは摂理なのだから仕様がないというのが大方の見解でしょうが、私の声にならぬ声はそうしたお金の力そのもののディコンストラクションを求めます。そもそも人は何のために「食うための労働からの解放」を求めるのか。先ずは、その原点に戻ることが不可欠です。ちなみに、余り大きな声では言えませんが、生まれながらにして「食うための労働からの解放」を実現している人たちがいます。日本では天皇とその皇族たちです。果たして、その境遇は人間にとって本当に幸福なことなのか。

 

声なき声(8)

「食うための労働をする人が一人でもいる限り、その社会は未だ理想的ではない」とは実篤の言葉ですが、「食うための労働からの解放」は果たして本当に「人間の理想」足り得るのか。例えばペットの犬や猫などは「食うための労働」から解放されて悠々自適に暮らしているように見えます。言うまでもなく、その解放は善き飼い主の存在によって可能になるものですが、我々にもそのような飼い主が見つかれば、「食うための労働からの解放」など直ちに実現するでしょう。勿論、そんな愛に満ちた飼い主は大金持の親か奇特なパトロン以外にあり得ませんが、その「恵まれた境遇」は人間にとって本当に歓迎されるべきものなのか。おそらく、金持のドラ息子のような存在が非難されるのは、それが全く特権的なものにすぎないからです。これに対して、もし或る人が正当な努力によって財を築き、それによって「一生遊んで暮らせる境遇」を実現したとすれば、殆どの人はそれを羨むことはあっても非難することはないと思われます。これは「宝くじの当選」による実現でも基本的には同じでしょう。「宝くじの当選」への可能性は万人に開かれているものであり、その幸運は決して特権的なものではないからです。何れにせよ、世の大半の人々が「食うための労働からの解放」=「一生遊んで暮らせる境遇」に憧れていることは間違いないと思われます。その憧れもまた現実的な声となって巷に響いていますが、そこに問題はないか。

 

声なき声(7)

「今日の仕事はつらかった

あとは焼酎をあおるだけ

どうせどうせ山谷のドヤ住い

ほかにやることありゃしねえ」

この「山谷ブルース」は確かに民衆の声になっています。それは主に苦しい日々の暮らしを嘆くものですが、最終的には次のように締め括られます。

「だけど俺たちゃ泣かないぜ

働く俺たちの世の中が

きっときっとくるさそのうちに

その日にゃ泣こうぜうれし泣き」

しかし、「働く俺たちの世の中」とは如何なるものでしょうか。つらい日雇い労働を強いられる山谷暮らしからの脱出に成功して、もっと楽な労働に転職できる機会が増す世の中でしょうか。そんな個人の幸福を超越した世の中が求められるとしても、全ての労働者の幸福とは結局「無理のない労働で生活を維持して、勤務後や休日にレジャーを楽しむ」という水平的幸福以上のものではないような気がします。勿論、能力に恵まれた人は社会を進化させる立派なプロジェクトに取り組む仕事に生き甲斐を感じるかもしれませんが、大衆は仕事よりもレジャーに生き甲斐を感じるのではないでしょうか。実際、労働者大衆の願いが「労働時間の短縮」にあるとすれば、その究極は「労働そのものの廃棄」、すなわち食うための労働から解放されて日々好きなことをして暮らせる生活の実現だと考えられます。しかし、「好きなこと」とは一体何か。やはりレジャーでしかないのか。「労働の廃棄」は未だ夢物語だとしても、一所懸命に労働して、その後思い切りレジャーを楽しむ――そこに現実的な声があることは間違いありません。おそらく一般的には、そうした声に応えることが政治の課題とされるでしょうが、私はむしろそれに反抗したい。しかし、レジャーを楽しむ大衆に反抗する声はモーレツな「仕事人間」の復活を求める声にしか聞こえないでしょう。だから結局、私の反抗は声なき声にならざるを得ないのです。

 

声なき声(6)

「芸術に対する要求とレジャーの増大とを結びつけることは間違っている。その違いは、ぼくたちの生きることへの近づき方に影響を与えることなのだから、リアルで重要なものだ。人は退屈したからとか、他にもっと面白いことが何もないからといって本を読んだり、芝居見物したり音楽を聴いたりはしない。そんな理由で芸術に接するなら、芸術なんてただの一時しのぎの時間つぶしに過ぎまい。人が本を読むのは、他の人の思想や経験を共有したいという燃えるような人間的要求からだ。その人が話さなければいられぬ話を聞こうとする抑え難い好奇心からだ」――これは「怒れる若者たち」(Angry Young Men)の一人であるアーノルド・ウェスカーの言葉ですが、僭越ながら私もレジャーとは異なる芸術を求め、この拙い便りも「話さなければいられぬ話」をしているつもりです。しかし、詮なき愚痴を繰り返すことになりますが、私の話などに殆ど誰も興味を抱かないのが現実です。何故か。私の書き方の問題を棚上げして言えば、世の中の大半の人はやはり芸術よりレジャーの方を求めているからだと考えられます。貧困への恐れもさることながら、多くの人が日常的に恐れているのはむしろ退屈であり、「何もすることがない」状態に転落しないよう必死に「何か面白いこと」を求めているような気がしています。実際、電車の中で周囲を見渡せば、スマホでゲームやSNSを楽しんでいる人たちばかりです。率直に言って、スマホさえ持っていない私にはその楽しさがよくわかりませんが、それは単に私が時代遅れなだけでしょうか。確かに、もし私が今、ウェスカーに倣って「レジャーよりも芸術!」などと声を上げれば、特に若者たちは「オッサン、さしずめインテリだね。勝手にムズカシイ本でも読んでろよ」と嗤われるに違いありません。言うまでもなく、「芸術=ムズカシイ本」という短絡がすでに根本的に間違っているわけですが、そんな言葉さえ通じないでしょう。しかし、私は何も「楽しくて、面白いこと」を否定するつもりなど全くないのです。おそらく、レジャーはレジャーなりに奥が深く、ディズニーランドのような施設からスマホの各種アプリまで、それなりに「楽しくて、面白いこと」が限りなく味わえるでしょう。しかし、それが本当に我々の求めている「楽しくて、面白いこと」なのか。言い換えれば、レジャーに人間の本当に血沸き肉躍る生の充実があるのか。尤も、こんな問いかけを繰り返しても、それは現代社会の空気が読めぬ「声なき声」と化すばかりです。果たして、「声なき声」が現実的な声になる日は再び訪れるのか。

 

声なき声(5)

私は今の世の中に対して「何かおかしい、何か間違っている」という思いを禁じ得ませんが、そういう私の方が世の中からズレていて、どこか狂っているのかもしれません。この時期、戦争に関する映画やドキュメンタリィを目にしない日はありませんが、特に神風特攻隊の若者たちの姿に接すると私は何か居ても立っても居られない気持に駆られます。単純に、羨ましい、と言ってもいいでしょう。そこには未だ「絶対的なもの」が息づいていたと思われるからです。勿論、「御国のために」とか「天皇陛下万歳!」と叫んで「絶対的なもの」に殉じる生き方(死に方)は、たといどんなに美しく描かれていても、その内実は悲惨で理不尽なやりきれなさにまみれていたに違いありません。そもそも「日本は神国である」とか「天皇は現人神である」ということを本当に心の底から信じていた人がどれだけいたのか。大方の大衆は「そんな馬鹿げたことがあるか!」と思いながらも、その当時の流れで否応なく「絶対的なもの」と信じ込まされ、それに殉じることを余儀なくされたのが実情だと思われます。しかし、たとい熱狂の嵐の中で正気を失っていたとしても、「絶対的なもの」に殉じることが可能であったことは厳然たる事実なのです。幸か不幸か、戦争に敗れて曲がりなりにも正気を取り戻して、日本も天皇ももはや神ではなくなり、我々は「絶対的なもの」が不在の世俗化社会に生きることになりました。これはやはり、幸いなことなのでしょうか。今や「見捨つるほどの祖国」はなくなり、経済的繁栄にうつつを抜かして日々享楽的に過ごす平和ボケの若者たちが街に溢れていますが、平和にボケていられる以上の幸福はないとも言えます。或る映画の中に、広島の被爆者の家族が朝鮮戦争で再び原爆が使用されるかもしれないというニュースに接して「正義の戦争よりも、不正義の平和の方が大切だということがどうして分からないのか!」と吐き捨てるように叫ぶ場面がありましたが、「大義を失っても平和を維持する方が大事」というのが健全な考えなのでしょう。繰り返しになりますが、私はこうした健全な考えに基づく現代社会に違和感を禁じ得ませんが、それを声に出そうとすると、どうしても「神国日本」や「絶対天皇制」の復活を求めているものと誤解される結果になります。それ故、私はどうしても口ごもりがちになるわけですが、少なくともその誤解だけは明確に解いておきたいと思います。私の「絶対的なもの」への究極的関心は、戦前・戦中の世界への回帰とは真向から対立するものなのです。

 

声なき声(4)

「絶対的なもの」とは何か。キルケゴールを援用して言えば、それは「私がそのために生きかつ死ぬことができるような主体的真理」に他なりません。しかし、そのような「絶対的なもの」がこの世にあるでしょうか。三島由紀夫は「生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と叫んで割腹しましたが、果たしてこの檄に応じる人は今どれだけいるか。三島にとって(その真意は別として)、「われわれの歴史と伝統の国、日本」及びそれを体現(象徴ではなく)する天皇が「絶対的なもの」であるわけですが、これは今や明らかにアナクロニズムでしょう。そもそも天皇御自身が戦後社会において現人神から人間になったのであり、その象徴天皇制が神聖不可侵の絶対性とは無縁であるのは極めて当然な帰結だと言えます。勿論、今でも「天皇陛下万歳!」と叫んで、その在る筈のない絶対性に殉じる大義に憧れている人は少なからずいるでしょうが、今それを実行すれば狂人としか見做されません。現代社会は原則として「絶対的なもの」の不在を前提として成立しているのであり、神が死んだ世俗化社会は実に健全であるとさえ考えられます。しかしながら、私の「声なき声」はその健全な現代社会の在り方に「何かおかしい、何か間違っている」という違和感を訴えるのです。と言うのも、絶対的な神の支配と人間の主体的な自由とは両立せず、神の死は人間の解放に他ならないのですが、それは同時にニヒリズムの到来をも意味するからです。「人間は神なしでは生きられない。神をしりぞけると、今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキィの言葉ですが、現代社会における「絶対的なもの」の不在は正に偶像を不断にタレ流す結果をもたらしていると思うのです。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という英霊の声も、この水平化した社会に垂直の次元という「絶対的なもの」を要請する「声なき声」として私には聞こえてきます。

 

声なき声(3)

誤解のないように断っておきますが、私の「声なき声」は「高校野球は神聖なものだから、商業主義に毒されてはならない」というような単純なことではありません。ましてや「チームのため、自分自身のため、最後まで命を懸けて死ぬ気でやれ!」という根性主義の要請でもありません。しかしながら、声として現実に発せられれば、多分そのように聞こえてしまうでしょう。だから、どうしても口ごもってしまう。そもそも一般的に言えば、監督が高校球児の健康を第一に考えて無理をさせないことに間違いはありません。むしろ、大事な決勝戦でもその原則を貫き、注目の天才投手でさえ例外とはしなかったことは、激しい非難を覚悟の上の実に勇気ある英断だとさえ言えるでしょう。しかし、それにも拘わらず、私はやはり「何かおかしい、何か間違っている」と思わずにはいられないのです。今回の場合、監督の英断は英断として、決勝戦に出場しなかった(できなかった)天才投手自身の心境については何もわかりません。監督の決断に素直に従ったのか、それとも強く抵抗したのか、どちらにしても私は天才投手を批判するつもりなど全くありませんが、もし彼にとって高校野球が「絶対的なもの」であったなら、甲子園の断念は絶望を意味した筈です。勿論、客観的にはこの世に「絶対的なもの」など存在せず、高校野球に命を懸けるなど実に馬鹿げたことです。しかし、青春の熱い一時期には往々にして、スポーツにせよ芸術にせよ、何かを「絶対的なもの」とする馬鹿げた情熱に駆られるのではないでしょうか。そうした情熱(場合によっては狂熱)が特に今の若者に感じられないことから「何かおかしい、何か間違っている」という思いが生じてくるような気もします。これは今回の天才投手がそうだというわけではありませんが、総じて高校野球はもはや「絶対的なもの」ではなく、普通の球児たちにとっては単なる部活動、才能溢れる超高校級の球児たちには単なるプロ野球の前段階にすぎないのかもしれません。何れにしても健康第一、殊に後者が「高校野球で今無理をして、プロ野球で将来活躍できなくなったら大変だ」と考えるのも実に健全なことだと思われます。しかし、それにも拘わらず、やはり「何かおかしい、何か間違っている」と思わずにもいられないのです。私の「声なき声」は否応なく「絶対的なもの」を要請するからです。

 

声なき声(2)

政治的無関心とは質的に全く異なる「声なき声」の一例。連日の猛暑の中、甲子園では高校野球が酣ですが、大会前には東北の或る天才投手が甲子園への出場権のかかった大事な決勝戦に出場しなかったことが物議を醸しました。報道によれば、この出場回避は天才投手自身によるものではなく、連投してきた天才投手の将来を監督が案じてのことだったようです。結果的に天才投手の高校は決勝戦で大敗して甲子園に出場できなかったこともあって、果たして監督の決断は正当なものであったかどうか、賛否両論が巻き起こりました。

さて、監督の決断を支持する意見としては、先ず高校野球の地方予選の過酷な日程を批判し、そのために連投を余儀なくされた投手たちが結果的に稀有な才能を台無しにしてきたことを問題視しています。確かに統計上でも、かつて連投に次ぐ連投で甲子園を沸かせたものの、プロに行くともはや使い物にならなくなっていた高校球児が多いのは事実です。それ故、最近の高校野球ではエース級の投手を複数揃えたり、継投を多用する傾向にあるようです。これは高校球児の健康を第一に考えれば極めて当然であり、今回の天才投手の出場回避も同様の流れによるものだと理解できます。しかしながら、全てを健康第一の大原則で割り切っていいものか、そこに疑問が生じてくるのも当然だと思われます。すなわち、「確かに健康は大事だが、一体何のためにこれまで猛練習に耐えてきたのか。決勝戦に勝って、甲子園に行くためではなかったのか。ならば、決勝戦には全員で全力を尽くすべきではないか。ベストメンバーで最高の戦いをして敗れたのなら納得がいくが、注目の大エースを出場させずに大敗するとは何事か!」という疑問です。この監督は天才投手の将来を考慮して決断したそうですが、「天才投手の将来」とは何か。おそらく、プロの選手として活躍することでしょうが、或る高校野球の元・名監督は次のような苦言を呈していました。「高校野球はプロ野球選手を養成する場ではない」

率直に言って、もし私が天才投手の立場にいたら、監督が何と言おうと決勝戦での登板を必死に志願したと思います。こんなオイシイ場面は滅多にないからです。たとい連投でどんなに疲れていても、このような場面で投げてこそ生の充実が感じられるのです。特に私は子ども時代を所謂「スポーツ根性もの」のマンガやアニメに大きく影響されて過ごしてきたので、過酷な状況で腕も折れよとばかりに投げ続ける主人公の雄姿に感動し、また自分もそんな悲劇のヒーローになることを夢見たのです。しかしながら、こうしたスポーツ根性主義が今や時代遅れになっていることは厳然たる事実です。高校時代に無理を重ねて、たとい甲子園のヒーローになれたとしても、その結果肩を壊してプロ野球選手としての寿命を縮めてしまうことになれば経済的にも大損であり、その人生設計の崩壊は必至です。従って、とにかく健康第一、今やプロ野球でも先発完投する場合は稀であり、厳密な球数制限による分業制(先発・中継ぎ・抑え)が主流です。これは選手生命を第一に考えれば極めて当然な流れであり、その流れが高校野球に及ぶのも致し方ないと言えるでしょう。

しかしながら、この辺りから「声なき声」と化してくるわけですが、大金を費やして獲得した選手(商品)を少しでも長持ちさせたいというプロの論理は理解できますが、高校野球の理念はそれとは一線を画すべきだと思うのです。とは言うものの、マスコミやプロ野球のスカウトたちが注目し、それを球児たちも意識している以上、彼らはすでに実質的には商品と化しているのかもしれません。だからこそ、商品価値を損なわないように、その健康が第一とされるわけですが、私はやはり何かがおかしいと思わざるを得ません。では、一体何が間違っているのか。(つづく)

 

声なき声

「声なき声」とはサイレント・マジョリティーのことだそうですが、これは往々にして現体制を支持しているものと見做されます。今回の参院選でも有権者の約半数が沈黙しましたが、これも結果的には現状維持派に絡め取られるでしょう。だからこそ、「投票を棄権するな!今の世界の変革を望むなら、その意思表示をしなければならぬ」と言われるわけですが、本当に世界の根源的変革を求めている人はどれだけいるでしょうか。ノンポリを政治的無関心と解するならば、ノンポリでいられる程度に幸福な人が大半を占めていると言えるかもしれません。少なくとも一般的には、「このままでは駄目だ!」と切実に思っている人だけが現体制に対する反対の声を上げ、それを変革するために政治に関心を持ち、然るべき行動を起こしていくのでしょう。草の根の市民運動に熱心に関わっている人たちがそうであり、プロの政治家も含めて、この世界は声を上げている人たちによってつくられているのは明らかです。言い換えれば、既存の体制に対して肯定的であれ否定的であれ、政治的な声が我々の社会を形成しているのであり、沈黙せる大衆はそれを暗黙の裡に前提として自分たちの生活空間を築いているのです。従って、徴兵制の復活とか理不尽な大増税などによって個人の自由な生活が脅かされるような逼迫した事態にならない限り、大衆は決して声を上げないと思われます。その必要がないからです。過去の百姓一揆や米騒動にしても、民衆が実際に食えなくなって、もうどうしようもないという窮民と化して初めて起こったのではないでしょうか。曲がりなりにも食えて、安月給ながら場末の居酒屋で管を巻いたり、休日には家族と遊びに行ったりできる大衆の幸福に政治など無縁です。むしろ為政者にとっても、大衆は政治に無関心でいてくれた方が好都合でしょう。言うまでもなく、ここに見出されるのは「大審問官の論理」です。大衆は善き為政者の下でのみ幸福になれるのであり、善き為政者とは大衆に個人的な幸福(家庭の幸福も含む)を保証してくれる権力者なのです。かくして大衆の沈黙は幸いにも大衆が未だ窮民と化していない証であり、その意味において今の社会は一つの理想状態にあるとさえ言えるのです。勿論、だからと言って、私はそうした大衆の沈黙を支持するつもりなどありません。たとい未だ窮民に転落していなくても、大衆は現在の為政者が本当に大衆の個人的な幸福を保証してくれる指導者足り得るかどうかを常に凝視している必要があるからです。つまり、月並みな常識的見解ながら、やはり大衆もまた政治に無関心でいるべきではないのであり、大衆の「声なき声」は善き為政者を求める声になるべきでしょう。

しかしながら、私が問題にしたいのは、そうした大衆の「声なき声」とは全く異なる沈黙なのです。確かに、「声なき声」の大半は大衆の政治的無関心でしょうが、極めて少数ながらノンポリとは次元を異にする沈黙がそこには渦を巻いているように思うのです。それは政治的関心を超える究極的関心だと言ってもいいでしょう。誤解のないように断っておきますが、私は政治的関心が無意味だと言いたいのではありません。むしろ、長々と先述したように、大衆の政治的無関心は早急に是正されなければならないと思っています。ただ、この世界を真に理想的な社会に変革せんとするならば、人は否応なく政治的次元を超えていかねばならぬ瞬間に直面すると思うのです。言い換えれば、政治によって実現される理想社会はついに究極的なものではなく、それ以上の何かを求めようとすると、どうしても沈黙を余儀なくされてしまうのです。どうも上手く表現できませんが、政治を超える究極的な関心を敢えて声にしようとすると、それは往々にして宗教的な声、もしくは芸術的な声にならざるを得ませんが、その有声化と同時に歪められてしまう感じです。あるいは、政治的な声にかき消されてしまうと言うべきか。例えば、政教分離は近代社会の常識と化していますが、それを超えようと声を上げれば途端に袋叩きに遭うのは必至です。だから、沈黙せざるを得なくなる。それは明らかに政治的無関心とは質的に全く異なる沈黙であり、ましてや政治的無関心を正当化するものではなく、偏に究極的関心を声にしようとする際に直面せざるを得ない、どうしようもないディレンマなのです。少なくとも私は、この拙い便りを通じて、人間の究極的関心に基づく理想を語ろうとする「声なき声」をこそ問題にしていきたいと思っています。