シガリョフの誘惑(6)
私は今、重度の自信喪失に陥っています。これまで曲がりなりにもユートピア数歩手前にいるという自覚から発信してきて、それなりに手応えのようなものを感じてきましたが、最近は「数歩手前」どころか、ユートピアはますます遠ざかるばかりです。実際、殆ど誰もユートピアなどに関心がないようです。そもそもユートピアとは何か。私にとって、それは「人間が本当に人間らしく生きられる場」に他なりません。そのような場の実現に誰も興味がないとすれば、人々はユートピアなしでも十分幸福に暮らしているということでしょうか。多分、そうなのでしょう。理想社会を求めないわけではないが、それは所詮アルカディアかパラダイスで事足りてしまいます。しかし、それが真の理想社会なのでしょうか。そこに見出される幸福は本当に「人間らしい」ものなのか。このような問い自体、すでに相当陳腐なのかもしれません。
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例えば、現在のコロナ禍の下、人々はこれまで当たり前のように楽しんできたことの多くが制限され、非常なストレスを感じています。これを不幸な状況と解すれば、やがてコロナ禍が終息して日常性が回復されれば、人々の幸福もまた回復するのでしょうか。日常生活の幸福、それは「家庭の幸福」に極まると思われます。平日は学校や会社に行か「ねばならない」義務を果たして、休日を中心とした余暇を楽しむ。平日は休日のためにあり、人生の目的は恰も余暇を楽しむことにあるかのような日常性の繰り返し。結局、人間の最高の幸福はそこに極まるのかもしれません。確かに、パンデミックを含めた自然災害にせよ、戦争や事故などの人為的災害にせよ、人間の不幸はそれぞれの余暇を楽しむ日常生活が阻害されることに起因します。しかし、宗教学的に言えば、そのように繰り返される日常性に幸福を見出す理想型は循環する宇宙との融合に生の充実を見出す伝統的社会の祖型(archetype)と通底していると考えられます。言わば、昨日と変わらぬ今日、今日と変わらぬ明日を生きる幸福です。周知のように、人間は近代以降、そうした円環的時間に生きる古き人(archaic man)を進歩発展から取り残された「未開人」と蔑んできました。とは言え、時々テレビのドキュメンタリーなどで垣間見る「未開人」の生活に、現代人が喪った生の充実があることも事実です。タヒチのゴーギャンの幸福に憧れる人も少なくないでしょう。昨日と変わらぬ今日、今日と変わらぬ明日。当たり前に学校や会社に行って、それなりに余暇を楽しむ日常生活の繰り返しに幸福を感じる現代人も、基本的には「古き人」と変わらないのです。だから悪い、と一概に言うつもりはありませんが、ユートピアの問題は正にそこから始まるのです。
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余談ながら、最近観たドラマに、旧態依然たる田舎の生活にウンザリした女子高生が、卒業と同時に新しい生活を求めて東京に行くものの、その目まぐるしい生活についていけず、心身共に疲れ果てて一旦故郷に戻ってくるという場面がありました。しかし彼女は、東京に行く前と何も変わっていない故郷の風景と時間に癒されながらも、やはり東京で夢を追いかける生活を完全には諦め切れていません。そのように故郷と東京の間で揺れ動く彼女と対照的なのは、高校卒業後も地元で伝統的な製塩職人としての修業に励んでいる男友達の存在です。彼は日々同じ作業を繰り返しながら、昨日と変わらぬ今日、今日と変わらぬ明日を生きています。その生き方に憧れながらも、やはり反撥も禁じ得ない女性にその男友達は言います。「変わらないでいることも簡単じゃない。」――確かに、日々移ろいゆく時間の中で「変わらないもの」を守り続けるためには多大の努力を要します。ここに見出されるのは直線的時間と円環的時間の衝突でしょう。この衝突に関連して唐突に思い出しましたが、かつてアメリカで勉強していた時にNew Cokeなるものが新発売されました。「現代人の嗜好にピッタリの画期的なコカ・コーラの誕生!」というような触れ込みでしたが、そうした会社の思惑とは裏腹に、大方の消費者の反応は「どうして昔ながらのコカ・コーラの味を変えてしまったのか!」という非難の嵐でした。程なくして、昔ながらの味は新たにClassic Cokeとして甦りましたが、ここにも「古きもの」と「新しきもの」の衝突があります。同様のことは、以前に「キリン・ラガービール」についても述べましたが、「伝統的なもの」(祖型)にしがみついているだけでは駄目だし、さりとて「伝統的なもの」を忘れても駄目であり、そこに現代人の苦しい問題があります。どうも横道に逸れてしまいましたが、先のドラマの話に戻れば、主人公の女性は男友達の変わらない(ブレない)生き方に勇気づけられて、再び東京で戦っていく決心をします。これは、身も蓋もない言い方をすれば、故郷の円環的時間から東京の直線的時間への再挑戦に他ならず、おそらくその女性は再び東京で傷ついて、ボロボロになり、また故郷に救いを求めるということを繰り返していくでしょう。その果てに故郷と東京、どちらに終の棲家を見出すかはその女性の生き方によりますが、我々が本当に観たいのは「その先のドラマ」ではないでしょうか。それは「未だないドラマ」であり、それこそがユートピアなのです。
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何れにせよ、ユートピアが「未だないドラマ」である以上、我々の手で書き始めるしかないのですが、先述したように誰もそんなものに関心がないようです。殆どの人は円環的時間のドラマ(アルカディア)に安定を見出すか、さもなければ直線的時間のドラマ(パラダイス)に刺激を求め続けるかであり、その循環の鎖を断ち切ろうとすることなどありません。それで皆が幸福なら、もはや何も言うことはなく、この便りも続ける意味はなくなりますが、私は何だかスッキリしません。ユートピアという新しきドラマを求めることが正しいのかどうかさえ、私は全く自信がなくなりました。ただ一つ現時点で言えることは、人間の理想がアルカディアとパラダイスの循環に止まるならば、それを保証してくれるシガリョフを超えることはできないでしょう。ユートピアをめぐる相反する(ambivalent)思いはしばらく続きそうです。
シガリョフの誘惑(5)
子どもは学校に行か「ねばならない」。大人は総じて会社に行か「ねばならない」。現代社会は無数の「ねばならない」から構成されており、それが大きなプレッシャーとなって多くの人を押し潰そうとしています。それ故、「ねばならない」の脅威から身を守るために「何もしなくていい」世界に引きこもることも必要になりますが、それはあくまでも一時的な救済にすぎません。そもそも「ねばならない」からの解放はそんなに素晴らしいことでしょうか。例えば、定年退職して「ねばならない」から半永久的に解放された人は、老後の貯えも十分で、なおかつ健康を害して病院に行か「ねばならない」ということさえなければ、その後は薔薇色の生活を送るのでしょうか。毎日、ただ好きなことだけをして過ごす悠々自適の生活――現代人の多くは、そこに人間生活の究極的な理想を見出すかもしれません。新しき村の生活においても、還暦と同時に義務労働(食うための労働)から解放されて、それからずっと死ぬまで自分を活かすことだけに専念できる自由村民になれることが約束されています。残念ながら、この約束はかつて一度も果たされたことがなく、村人たちは古稀を過ぎても依然として義務労働に従事しているのが現実です。しかし、たといその約束が果たされたとしても、自由村民の生活に「新しき村の理想」はないと私は考えています。この点、新しき村の信奉者の多くから強く反撥されるかもしれませんが、もし「ねばならない」から解放された悠々自適の生活だけを望むのなら、別に新しき村に執著する必要などないでしょう。むしろ、新しき村の外の世界の方が悠々自適の生活に至る可能性は高いと思われるからです。鄙見によれば、「新しき村の理想」は悠々自適の生活などとは質的に全く異なる次元に求められます。誤解を恐れずに言えば、それは新しき「ねばならない」に他なりません。「ねばならない」は確かに人を押し潰すプレッシャーになりますが、同時に人生を真に充実させる力にもなるからです。ただし、そこには当然大きな危険性が胚胎しています。それ故にこそ、シガリョフの誘惑も現実的な力を帯びてくるのです。と言うのも、シガリョフの提示する理想社会においては「ねばならない」が一掃されるからです。従って、そこでは悠々自適の生活が約束されると言ってもいいでしょう。果たして我々はその誘惑に打ち勝つことができるのか。
シガリョフの誘惑(4)
「労働からの解放」は極めて実現困難な課題ですが、短絡的な解決策としては奴隷制が考えられます。原理的に言えば、自分が食うための労働から解放されるためには、それを他人に押し付けるしかありません。勿論、それなりの対価を支払って他人との合意が成立すれば、奴隷制はサーヴィス業という立派な職業になります。しかし、お金の力によって或る特定の人間だけが永久にサーヴィスを受ける側に居続けられるとすれば、その固定した経済格差はやはり新たな奴隷制と言うべきでしょう。実際、基本的人権が尊重されるべき現代社会においても、奴隷制は種々様々な形で潜在していると考えられます。例えば、大前春子のようなスーパー派遣や大門未知子のような孤高のフリーランスは例外ですが、総じて正社員と非正規雇用者の関係もその一つでしょう。ただ、同じ労働者の間で嫌な雑用を押し付け合っても根源的な解決にならないのは当然であり、人間社会から奴隷制を一掃するためには資本家と労働者の「雇用-被雇用関係」そのものをラディカルにディコンストラクションする必要があります。しかし、それを革命と称するならば、今、果たして革命を本当に必要としている人がどれだけいるのでしょうか。
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人間社会から奴隷制を一掃する革命は、同時に全ての人間に自律的な生き方を要請します。つまり、自分が生きていくために為すべき労働を他人に強制できる特権階級の死滅は、完全なる「労働からの解放」が原理的に不可能になることを意味し、人は皆すべからくプロレタリアートであるべきことが求められるのです。これは単純に「働かざる者食うべからず」という倫理の徹底と理解してもいいですが、更に「プロレタリアートのアソシエーション」が課題になると、その実現に大きな負担を感じるプロレタリアートも少なくないと思われます。実際、自律的に生きることが非常な困難を伴うことは確かであり、奴隷であれ何であれ、大きな会社組織の中で上の人の指示通りに労働していた方が楽かもしれません。勿論、主体的に労働し、そこに生き甲斐を感じて充実した人生を送っている自律的プロレタリアートもたくさんいるでしょう。しかし、圧倒的多数の大衆は食うための労働時間をなるべく短縮し、それ以後の自由時間に生き甲斐を見出す他律的プロレタリアートではないでしょうか。私は以前から、「肉体の糧を求める労働」と「魂の糧を求める仕事」という区別をしていますが、両者の一致以上の幸福はないと思っています。しかし現実には様々なズレが生じてくるわけで、厳密に言えば、労働を超える仕事に究極的関心を抱く人は殆どいません。従って、現代人の関心の主流は結局のところ「労働以後の自由時間を如何にして充実させるか」という問題に収斂していくのです。
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何れにせよ、もし現代人の求める幸福が「自由時間の充実」にあるのなら、それを与えてくれる救世主の一人は間違いなくシガリョフでしょう。周知のように、彼は人間の「無限の自由」から出発して「無限の専制」に辿り着き、「人類を二つの不均等な部分に分割し、その十分の一が他の十分の九に対する無限の権利を獲得する」思想を説きます。ここに見出されるのは「大審問官の論理」の原型ですが、殆どの人間(大衆)にとって「無限の自由」は重すぎるという認識を前提にしています。つまり、やや逆説的に言えば、「無限の自由」という重荷に耐え切れない大衆は「無限の専制」という条件下においてのみ自由を享受することが可能になるのです。「自由からの逃走」が大衆を自由にする、と言ってもいいでしょう。確かに、それは「家畜の自由」(あるいは今風に言えば「ペットの自由」)に他なりませんが、シガリョフはそれのみが人間を幸福にすると確信しているのです。事実、現代社会の政治家は皆、多かれ少なかれ、シガリョフの使徒だとさえ言えるでしょう。そこには「公共」はあっても、「公的領域」は皆無です。
シガリョフの誘惑(3)
人は皆、自由に生きたいと願います。それは自然の情であり、誰も束縛された人生など望みません。しかし、自由とは何か。最近、「レンタルなんもしない人」というドラマが始まりましたが、「何もしないこと」は「しなければならないこと」に追いまくられている忙しい現代人にとっては大きな癒しになるようです。古くは「無能の人」に代表されるようなつげ義春の世界に憧れる人も少なくありませんが、老荘の無為自然が人間の根源的な理想であることは間違いないと思われます。ただ、ここで思い出されるのはオブローモフとシュトルツの対立です。「レンタルなんもしない人」というドラマでも、未だ第1回しか観ていないので確かなことは言えませんが、どうもそういう対立軸が出てきそうな気がしています。それはアルカディアとパラダイスの対立でもありますが、無為にせよ当為にせよ、そこで求められるのは「私的領域」の幸福に他なりません。すなわち、「何もしないこと」が至福である無欲な個人もいれば、「何か大きなことを成し遂げてより充実した生活を目指し続けるべきだ」という欲望に駆られている個人もいる、ということです。言うまでもなく、現代人の大半は後者の個人として生きることを余儀なくされていますが、その人生は今、危機的な行き詰まりに直面しています。だからこそ、「なんもしない人」がドラマの主人公にもなるわけですが、そこに現代人の本当の救いがあるでしょうか。
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そもそも今も昔も、「何もしないこと」が原理的に不可能であることは明白です。生命を維持するためには食べ物の獲得を基本とした何かを否応なくしなければならないからです。それはあらゆるイキモノの宿命であり、「生きる」とは「何かをすること」に他なりません。尤も、「何もしないこと」が多くの現代人にとって癒しになると言う場合、それは「食うための労働を何もしないでもいいこと」という意味でしょう。すなわち、「労働からの解放」こそが現代人の見果てぬ夢なのです。実際、実篤も「食うための労働をする人が一人でもいる限り、そこは未だ新しき村ではない」と述べています。しかし、目出度く「労働からの解放」が実現したとして、その夢のような場所で人は一体何をするのでしょうか。一日中、ボーっと何もしないでノンビリ過ごすのでしょうか。それも一つの理想的な生き方かもしれませんが、ほぼ確実にチコちゃんに叱られます。現代社会ではボーっと生きることなど許されないからです。さりとて「為すべきことを為さねばならぬ」という現代人の生き方が限界に直面していることは先に述べた通りです。現代人は明らかに、無為と当為という二つの理想に引き裂かれています。
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さて、ここで私は或る有名な笑い話を思い出しました。それは終日何もしないで海辺で寝転んでいる若者と、その怠惰な生活を非難する友人との対話です。
友人「人間は一所懸命に働かねばならぬ」
若者「何のために?」
友人「たくさんお金を稼いで豊かな生活をするためだ」
若者「例えば?」
友人「毎日、海辺でノンビリと暮らすことだ」
若者「それなら今すでにしている」
もしこの若者に共感するならば、シガリョフの思想はきっと大きな福音になるに違いありません。
シガリョフの誘惑(2)
結論めいたことを先に申し上げれば、ユートピアがその復活を要請する「公的領域」は一般的なアナキストが敵視する「公共」とは質的に全く異なります。「公共」と個人(私人)の関係は主従関係になりがちですが、「公的領域」においてそのような関係はあり得ません。更に言えば、「公的領域」は「公共」が真の一般意志足り得ているかどうかを問い質す場でもあるのです。従って、「タバコの吸殻を路上でも自由に撒き散らしたい」という個別意志は「公共」にとって明らかな罪であり、その違反行為は断固として罰せられますが、「公的領域」では基本的に如何なる個別意志も尊重されます。この場合、率直に言って「尊重」という語が適切かどうかよくわかりませんが、そこではカントの言う定言命法が機能し、「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な原理として妥当し得るように行為せよ」と要請されるのです。当然、「タバコの吸殻を路上でも自由に撒き散らしたい」という格率が普遍的な原理として妥当する道理もなく、結局、「公共」でも「公的領域」でも「路上でのタバコのポイ捨て」が否定される事実に変わりはありません。ただし、同じ否定の事実ではありますが、そこには質的な違いがあります。それは、「公共」では他律的な実定法による禁止であるのに対して、「公的領域」では自律的な道徳法による自粛であるという違いです。確かに、「公共」が定める法律(条令)によって「タバコのポイ捨て」が禁じられるのと「公的領域」に生きる良心から「タバコのポイ捨て」を自粛することの違いは大きいでしょう。しかし、残念ながら、それは決定的な違いにはなり得ません。ヘーゲルによれば、他律と自律の違いは「主人が自分の外にいるか内にいるか」にすぎないからです。つまり、良心による自粛もやがて良心の義務となり、結果的に他律と大差ない束縛に転化していく運命にあるのです。理屈だけを言えば、他律と自律の対立を止揚できるのは神律しかありません。しかし、神律は自律以上にわけのわからないものであり、おそらく誰も論理的に納得できないと思われます。例えば、無神論者のキリーロフは「この世界の全てがいい」という全肯定の思想を述べます。これに対して、スタヴローギンは「無垢の赤ん坊の額をピストルでぶち抜いてもいいのか。純潔の少女を凌辱してもいいのか」と反問します。キリーロフは「いい。全てがいい」と全肯定を貫きますが、最後に次のように付け加えます。「世界の全てがいいということを本当に知った人は、そんなことはしない」と。私はこうした無神論者の全肯定に神律を垣間見ますが、その瞬間には「公的領域」の可能性もまた胚胎しているのです。
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何れにせよ、「公的領域」は当面、他律的な「公共」を超克する自律的な世界として理解するしかありませんが、個人の無限の自由を尊重するシガリョフの出発点もまたここにあったと考えられます。しかし、周知のように、その終着点は正反対の方向、すなわち絶対的な権力が集中される「公共」に求められました。何故か。個々の善良なる市民は、そのような絶対的な「公共」の下でのみ幸福に生活できると信じるに至ったからです。果たして、本当にそうか。
シガリョフの誘惑
ハンナ・アレントが「人間の条件」を論じる前提としている私的領域と公的領域の区別に即して言えば、私の求めるユートピアは私的領域が肥大化した現代社会に公的領域を復権させることを要請します。先日来述べているように、これは極めて危険な理想です。と言うのも、一般的には「私的領域の原理は個人主義であり、公的領域のそれは全体主義だ」と理解されており、公的領域の復権とは全体主義社会の復活をもたらす危険性があるからです。殊に個人の自由を絶対的なものと見做すアナキストにとって、公的領域とは個人が不自由な生活を余儀なくされる場でしかないでしょう。例えば、矢部史郎氏は「公共」を人間を排除するものだと批判して次のように述べています。
「人間と街との主従関係をはっきりさせ、自分が主人であることを肝に銘じるために、街路に吸い殻を撒き散らす。マナーだろうがルールだろうが、改めるつもりはない。これは権利ではない。堂々と生きることは男の義務だ。往来を歩く労働者・学生・市民・旅行者のみなさんに、私は言いたい。誰の顔色もうかがうことなく、勝手にやれ。」
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確かに矢部氏の理解する「公共」は「街路に吸い殻を撒き散らす」個人の自由を許しません。それは「生活安全条例」に違反する明らかな迷惑行為だからです。しかし、一体誰に対する迷惑行為なのか。矢部氏も言うように、本来誰のものでもない公共空間は私人の共有財産ですが、実際には企業化した自治体の財産と化しています。つまり、自治体が公人の人格において迷惑行為を取り締まるのです。言うまでもなく、「街路に吸殻を撒き散らしてはいけない」という条例は公人の一般意志であり、それによって「共有財産である街路には勝手に吸殻を撒き散らしても構わない」という矢部氏の個別意志は屈服させられるのです。この場合、公人の一般意志と私人の個別意志の関係は明らかに主従関係ですが、ここにどんな問題があるのでしょうか。
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矢部氏のような筋金入りのアナキストにとっては、どんな形であれ、自分の個別意志が屈服させられることには我慢ならないでしょう。「吸殻のポイ捨て禁止条例」は「街の美化」を名目にした人間の排除でしかないからです。しかし、善良なる市民の皆さんにとっては、むしろ「吸殻のポイ捨て禁止条例」は歓迎すべきものだと思われます。矢部氏は「伝統を重んじる労働者がタバコを手放さないのは、それが労働階級のあるべき姿勢を暗示しているからだ。どれだけ害を強調されても、タバコはなくならない。タバコは、労働階級の自立と不服従の徴である。若者と女性の喫煙率が増大すればするだけ、自由と平等への展望が拓かれる。タバコは制御できないデモクラシーであって、マナーやルールといった鼻持ちならない秩序とは相いれないブツなのだ」と述べていますが、こうした個人的な「タバコ擁護論」に善良なる市民の共感は得られないでしょう。では、公的な条例に従順な善良なる市民は奴隷根性に堕しているのか。それとも、条例を無視してあくまでも私的な個別意志を貫こうとするアナキストは単なる我儘者にすぎないのか。
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ここで改めて留意すべきことは、「自然における自由」と「社会における自由」の区別です。おそらく、「誰の顔色もうかがうことなく、勝手にやれ」というアナキストの求めているものは「自然における自由」だと思われます。確かに、それはあらゆる鎖を断ち切る根源的な自由だと言えますが、「マナーやルールといった鼻持ちならない秩序」を蹴飛ばす個人に「無制限の自由」を許容すれば、社会がたちまち大混乱に陥るのは明白です。実際、公共の場所に吸殻などを撒き散らす「無制限の自由」を認めれば。街は瞬時にゴミの山と化すでしょう。それでもアナキストは「美は乱調にあり」と言うかもしれません。かく言う私も、整然とした街並みだけが必ずしも美しいとは限らず、バスキア風の雑然とした街並みにも美は見出せるとは思います。しかし、善良なる市民はそこにゴミと落書きという醜悪さしか見出せないことも事実です。タバコに関しても然り。矢部氏にとってタバコは「労働階級の自立と不服従の徴」ですが、今や多くの人にとっては「健康に害を及ぼす毒物」でしかありません。すなわち、善良なる市民の多くは「ゴミや落書きやタバコのない美しい街」の実現を望んでいるのであり、そこに公的な一般意志が形成されるのです。そして、それはゴミや落書きやタバコを徹底的に排除できる権力を要請します。言い換えれば、「自然における自由」に基づく様々な個別意志の暴走を抑制するためには、一般意志への権力の集中が必要不可欠なのであり、それが「社会における自由」を善良なる市民にもたらすのです。正にここに、「無制限の自由」から出発して「無制限の専制」に辿り着くシガリョフの誘惑が見出されます。果たしてシガリョフは正しいのか。善良なる市民の幸福はそこにしかないのか。
危険な理想
先日(2月15日)、予定通り「土曜エスペラント会」という勉強会においてエスペラントで発表をしました。テーマは「危険な理想」(La dangxera idealo)です。これはその日に出席されたウルリッヒ・リンスさんの名著『危険な言語』(La Dangxera Lingvo)を十分意識してのことですが、決して奇を衒ったわけではありません。あくまでも「ユートピアという理想の危険性」と「エスペラントという言語の危険性」の関係について私なりに考えをまとめておきたかったからです。しかし結果は散々な有様で、およそ発表とすら言えぬ完全なるfiaskoでした。大失態の原因はやはり準備不足ですが、そもそも日本語でも上手く表現できない複雑な問題を未だ不自由なエスペラントで話そうとしたことに土台無理がありました。その無謀さを深く反省すると同時に、自らの無能さに対する自己嫌悪に苛まれて、鬱状態は今でも続いていますが、取り敢えず「何を話そうとしたか」ということだけは整理しておくべきだと気を取り直し、改めて発表原稿を日本語で書いてみました。しかし、やや長文になりすぎたので、ここでは「暫定的な結論」部分だけを記しておくことにします。ご笑覧戴ければ幸いです。
暫定的な結論
ユートピアはアルカディアの亡霊とパラダイスの生霊と闘っています。それは全体主義化した共生と悪しき競争に駆り立てる個人主義という二つの敵との闘争です。その闘争におけるユートピアの戦略は「新しき共生」ですが、それは常に「新しき全体」と見做される危険性に晒されています。ちなみにウルリッヒ・リンス氏が「危険な言語」と称されているエスペラントの運動も「新しき全体」を目指していると理解することができます。「プラハ宣言」においても「エスペラントは長年にわたって言語と文化の壁を越えて人々を結び付けるために機能してきた」とあります。言うまでもなく、こうしたエスペラントの機能が危険であるのは、あくまでもヒトラーやスターリンといった独裁者にとってであり、彼等は反体制エスペランティストたちが国境を越えて連帯するのを恐れたのです。従って、エスペラントが「危険な言語」であるというのは一つの反語にすぎませんが、全人類がエスペラントという一つの言語で統合される「新しき全体」が要請されるなら、そこには真の危険性が見出されるでしょう。勿論、それは大きな誤解であり、エスペラントは決して「世界で唯一の言語」になろうとしているわけではありません。むしろこの文脈では、多くの少数民族の言語を消滅させる原動力となっている帝国主義的な英語こそが「危険な言語」の名に値します。エスペラントはあくまでもそれぞれの民族語の「橋渡し言語」であり、「世界で唯一の言語」になろうとしているどころか、言語の多様性を前提としているのです。それ故、エスペラント運動が「新しき全体」を目指しているというのは致命的な誤解ですが、これはユートピア運動についても言えることです。「新しき全体」へと転落するという危険性と常に闘いながら、ユートピアは人間の個別性・多様性を前提とする「新しき共生」への道を切り拓かねばなりません。
祝祭共働
昨日の図式に基づいて言えば、ユートピアの本質は祝祭共働にあります。端的に、「ユートピアとは祝祭共働態だ」と言ってもいいでしょう。では、祝祭共働とは何か。私はそれを次のような労働と仕事の区別において考えています。
労働:肉体の糧を得るための活動-水平の次元
仕事:魂の糧を創造するための活動-垂直の次元
ちなみに、これはアーレントの「人間の条件」における次のような区別に大きく影響されています。
労働:生命維持のために行われる必然的な営み-「生命それ自体」という人間の条件
仕事:耐久的なモノを制作する(herstellen)ことによって「世界」を創造する営み-「世界性」という人間の条件
結局、イエスは「人はパンのみにて生くるにあらず」と言いましたが、さりとてパンなしでは生きられないのが現実です。では、人間は一体何のために生きているのか、という問題を労働と仕事の関係においてラディカルに思耕したいのです。
理想社会の図式的整理
今度の土曜日にエスペラントで発表する練習をするので、その準備をしています。テーマはNova vilagxo kiel dangxera idealo、「危険な理想としての新しき村」です。もとより私の能力では突っ込んだ深い議論など到底できないので、今回は「何故、私が繰り返し新しき村を問題にするのか」ということに興味を持って戴けることだけを目指しています。端的に言えば、「現代社会における新しき村の必要性」です。ただ、それを理解して戴くためには「アルカディア、パラダイス、ユートピア」という理想社会の三態を前提にしなければなりません。「新しき村の必要性」とは、厳密には「ユートピアの必要性」に他ならないからです。そこで、次のような図式を基本に説明する予定です。
Arkadio/ la idealo en la primitiva tempo/kunvivado/primitiva komunismo
Paradizo/ la idealo en la moderna tempo/konkurado/individuismo(kapitalismo)
Utopio / la idealo en la postmoderna tempo /festeneco/asocio
上記に相当する日本語は次の通りです。
アルカディア/古代の理想/共生/原始共産主義
パラダイス/近代の理想/競争/個人主義(資本主義)
ユートピア/ポストモダンの理想/祝祭共働/アソシエーション
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言うまでもなく、私が求めているのは「ユートピアとしての新しき村」ですが、問題はそのリアリティを如何に伝えるか、ということにあります。理屈だけを述べれば、ユートピアにおける祝祭共働という原理はアルカディアの共生原理とパラダイスの競争原理のcoincidentia oppositorumということになりますが、それを具体的にどう伝えるかが課題です。一応、祝祭共働は「新たな共生」だと言えますが、それはアルカディアにおける始源の共生と何が異なるのか。
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さて、現代社会における深刻な諸問題は、煎じ詰めれば「パラダイスの破綻」に由来すると考えることができます。それ故、資本主義の競争原理に疲れ果てた人、あるいは個人主義の孤独に耐えられなくなった人は、アルカディアへの回帰を求めるでしょう。しかし、アルカディアは今や神話にのみ見出される「失われた楽園」であり、またアルカディアからパラダイスへの移行は不可避の運動であるが故に、アルカディアへの後向きの回帰は原理的に不可能です。従って、我々はアルカディアを前向きに反復する試みとしてのユートピアを目指すしかないのですが、その理想は極めて危険です。常に全体主義を復活させる可能性に晒されているからです。世界を再び一つにしようとするユートピアの理想は一般的には実に胡散臭いものでしかないのです。
ボンヘッファーの苦悩
一般意志と個別意志を、それぞれしっかりと見極めるのは容易なことではありません。自分自身の個別意志でさえ、何が本当の個別意志なのか、いつも途方に暮れています。ランボーは「自己とは一個の他者である」と言い、キルケゴールも「関係としての自己」を語っていますが、人間はやはり垂直の次元と水平の次元に引き裂かれる運命にあるようです。その運命は当然、一般意志にも大きな影響を与えます。例えば、敬虔な牧師でありながら、しかもガンディーに深く影響されているにも拘わらず、ヒトラー暗殺計画に加担する決断をしたボンヘッファーの場合です。彼の実存において、一般意志と個別意志はどのように関係していたのか。「殺すなかれ」という一般意志と「悪魔の如き独裁者は殺さねばならぬ」という個別意志の相剋、いや後者にこそ一般意志を見出したのか。疑問は尽きません。
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さて、かかる深刻なボンヘッファーの苦悩から一気に卑近な悩みに駆け降りますが、私は今「新しき村の改革」に苦慮しております。と言うのも、以前にこの便りでもお知らせしたように、一昨年(2018)の「新しき村創立百年」を機に「日々新しき村の会」が結成され、久しぶりに改革の機運が盛り上がったのですが、結局十年程前の「新生会」の時とほぼ同じ轍を踏む結果になったからです。すなわち、村内の人々(と言っても片手で数えられるほどに減少していますが)とそのシンパの理解が得られず、その底なし沼のような事なかれ主義に全てのやる気がズブズブと沈み込んでいく感じです。我々としては「新しき村」の理想実現をめぐって様々な議論を戦わせたいのですが、それさえ認められない現状にはただただ絶望するしかありません。かくなる上は、「新しき村」のことなど忘却の彼方に追いやるか、それともあくまでも「新しき村」の改革にこだわるのなら、村人たちの暗殺、いや村の改革の障害となる人々の一掃に本気で取り組むしかないでしょう。果たして、そこまでする覚悟が我々にあるのか。
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もし村人たちがヒトラーの如き悪しき独裁者なら、その排除計画に疑問の余地はありません。しかし、村人たちは総じて善良な人たちばかりで、ただ黙々と農作業に汗を流しているだけです。この生活の何がいけないのか。もし村が単なる「農業共同体」なら、それでもいいでしょう。尤も、「農業共同体」としても経済的に行き詰っているのは事実なので、何らかの改革は必要です。しかし、それは二次的な問題にすぎません。最も重要な問題は、「新しき村」は「農業共同体」である以前(もしくは以上)に「理想社会を実現する運動態」であるべきだ、ということです。このことを全く理解しようとしない人は、たといどんなに善良であっても、「新しき村」に必要ありません。従って、そうした人々は一刻も早く村から出て行って戴くべきなのです。どうも上から目線で偉そうなことばかりほざいておりますが、これが私の偽らざる個別意志です。そして、これは村に関する一般意志に反映し得るのか。悩みは尽きません。