シガリョフの誘惑(4) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

シガリョフの誘惑(4)

「労働からの解放」は極めて実現困難な課題ですが、短絡的な解決策としては奴隷制が考えられます。原理的に言えば、自分が食うための労働から解放されるためには、それを他人に押し付けるしかありません。勿論、それなりの対価を支払って他人との合意が成立すれば、奴隷制はサーヴィス業という立派な職業になります。しかし、お金の力によって或る特定の人間だけが永久にサーヴィスを受ける側に居続けられるとすれば、その固定した経済格差はやはり新たな奴隷制と言うべきでしょう。実際、基本的人権が尊重されるべき現代社会においても、奴隷制は種々様々な形で潜在していると考えられます。例えば、大前春子のようなスーパー派遣や大門未知子のような孤高のフリーランスは例外ですが、総じて正社員と非正規雇用者の関係もその一つでしょう。ただ、同じ労働者の間で嫌な雑用を押し付け合っても根源的な解決にならないのは当然であり、人間社会から奴隷制を一掃するためには資本家と労働者の「雇用-被雇用関係」そのものをラディカルにディコンストラクションする必要があります。しかし、それを革命と称するならば、今、果たして革命を本当に必要としている人がどれだけいるのでしょうか。

人間社会から奴隷制を一掃する革命は、同時に全ての人間に自律的な生き方を要請します。つまり、自分が生きていくために為すべき労働を他人に強制できる特権階級の死滅は、完全なる「労働からの解放」が原理的に不可能になることを意味し、人は皆すべからくプロレタリアートであるべきことが求められるのです。これは単純に「働かざる者食うべからず」という倫理の徹底と理解してもいいですが、更に「プロレタリアートのアソシエーション」が課題になると、その実現に大きな負担を感じるプロレタリアートも少なくないと思われます。実際、自律的に生きることが非常な困難を伴うことは確かであり、奴隷であれ何であれ、大きな会社組織の中で上の人の指示通りに労働していた方が楽かもしれません。勿論、主体的に労働し、そこに生き甲斐を感じて充実した人生を送っている自律的プロレタリアートもたくさんいるでしょう。しかし、圧倒的多数の大衆は食うための労働時間をなるべく短縮し、それ以後の自由時間に生き甲斐を見出す他律的プロレタリアートではないでしょうか。私は以前から、「肉体の糧を求める労働」と「魂の糧を求める仕事」という区別をしていますが、両者の一致以上の幸福はないと思っています。しかし現実には様々なズレが生じてくるわけで、厳密に言えば、労働を超える仕事に究極的関心を抱く人は殆どいません。従って、現代人の関心の主流は結局のところ「労働以後の自由時間を如何にして充実させるか」という問題に収斂していくのです。

何れにせよ、もし現代人の求める幸福が「自由時間の充実」にあるのなら、それを与えてくれる救世主の一人は間違いなくシガリョフでしょう。周知のように、彼は人間の「無限の自由」から出発して「無限の専制」に辿り着き、「人類を二つの不均等な部分に分割し、その十分の一が他の十分の九に対する無限の権利を獲得する」思想を説きます。ここに見出されるのは「大審問官の論理」の原型ですが、殆どの人間(大衆)にとって「無限の自由」は重すぎるという認識を前提にしています。つまり、やや逆説的に言えば、「無限の自由」という重荷に耐え切れない大衆は「無限の専制」という条件下においてのみ自由を享受することが可能になるのです。「自由からの逃走」が大衆を自由にする、と言ってもいいでしょう。確かに、それは「家畜の自由」(あるいは今風に言えば「ペットの自由」)に他なりませんが、シガリョフはそれのみが人間を幸福にすると確信しているのです。事実、現代社会の政治家は皆、多かれ少なかれ、シガリョフの使徒だとさえ言えるでしょう。そこには「公共」はあっても、「公的領域」は皆無です。