鍵のかからない部屋の個人主義 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

鍵のかからない部屋の個人主義

先日地下鉄に乗っていた時、何気なく車内を見廻すと「ひとりで生きていく」という言葉が目につきました。それは或るお笑い芸人の新刊本の広告で、更によく見ると「群れない、媚びない、期待しない……つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」というキャッチコピーが踊っていました。このお笑い芸人はかつて親しい友人も恋人もいないという孤独で虚しい生活の自虐ネタで人気を博した所謂「一発屋」ですが、今度はそれを逆手にとって「孤独な生活は虚しくない。むしろ、それなりに充実している素晴らしいものだ」と訴えているようです。これが彼の芸人としての新たな戦略かどうかは別として、「孤独な生活は素晴らしい」という主張は一考に値するでしょう。と言うのも、現代社会に暮らす苦しみの大半は対人関係の悪化によってもたらされるものであり、それを断ち切りさえすれば一応楽になることは確かだからです。つまり、先のお笑い芸人の言葉を繰り返せば、「群れない、媚びない、期待しない……つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」というわけです。しかし、本当にそうか。

振り返ってみれば、我々は幼い頃から社会の中で協調して生きるように教え込まれてきました。「自分さえ良ければ、他人はどうなってもいい」という個人主義ほど忌むべきものはなく、ジコチューなエゴイストは最低だという人間観は「大人の常識(common sense)」になっています。「大人の常識」と言うのは、赤ん坊や子どもは本来エゴイストであり、それが社会的な協調を学ぶことによって「大人」になる、ということです。しかし、ルソーは言っています――「人は自由なものとして生まれたのに、至る所で鎖につながれている」と。果たして、社会的な協調は鎖なのか。確かに、所かまわず傍若無人に泣き叫ぶ赤ん坊は自由であり、人目をはばかって号泣したい感情を抑えて平静を装っている大人は不自由です。大人は自分を殺して生きている、と言ってもいいでしょう。しかし、赤ん坊の自由はそんなに素晴らしいものでしょうか。そもそも赤ん坊には未だ殺すに値する自己はなく、その自由は往来で糞小便を垂れ流す犬猫の「自然体」と変わりません。「自然体」は一つの理想ではありますが、それが人間の理想になるのはあくまでも社会的自己との関係においてです。例えば、アマラとカマラのような場合、彼女たちが本当にオオカミに育てられたかどうかは別として、その野生の「自然体」を羨む人は皆無でしょう。人間的には異常な病でしかないからです。自由な野良犬や野良猫にしても、きちんと躾けられたペットになって初めて人間社会に許容されるのです。たといそれが犬や猫の「自然体」を歪めることであったとしても、社会的協調を是とする人間には極めて自然な帰結です。植物の品種改良や治水などの環境整備も然り。人間はもはや「自然のまま、ありのまま」に生きることなど不可能であり、自然的存在から社会的実存への移行は不可避な運命だと言えるでしょう。ここで再びルソーの言葉に耳を傾ければ、「このように自然状態から社会状態に移行すると、人間のうちに極めて大きな変化が発生することになる。人間はそれまでは欲動によって行動していたのだが、これからは正義に基づいて行動することになり、人間の行動にそれまで欠けていた道徳性が与えられるのである。そして初めて肉体の衝動ではなく、義務の声が語りかけるようになり、人間は欲望ではなく権利に基づいて行動するようになる。それまで自分のことばかりを考えていた人間が、それとは異なる原則に基づいて振舞わなければならないことを理解するのであり、自分の好みに耳を傾ける前に、自分の理性に問わねばならないことを知るのである」ということです。周知のように、ルソーはこうした移行を「社会契約」と称していますが、それが人間にバラ色の生活だけをもたらすものではないことを重々承知しており、その損得についても語っています。すなわち、人間が社会契約によって失ったものは「自然状態のもとで享受していた自由」並びに「自分に必要な全てのものへの無制限の権利」であるの対し、社会契約によって得たものは「社会的な自由」並びに「持っている全てのものに対する所有権」です。彼はその違いについて次のように述べています。「自然状態のもとで享受していた自由は、その人の力によって左右されるだけだが、社会的な自由は一般意志による制約を受けるという違いがある。また[自然状態での所有は]力による占有か、先に占有した者に認められる所有であるが、[社会状態での所有は]法律で認められた権原に基づいて初めて成立する所有であるという違いがある」(中山元氏の訳による)。実際、人間の生活は法律に縛られていると同時に守られています。時に法律に束縛されていない野良犬や野良猫の自由気儘な「自然体」に憧れることがあっても、暴力による支配を決して許さない法律の重要性を疑う人はいません。とは言え、法律それ自体が一つの暴力になることもあるわけで、真に重要なことはそこに一般意志が真に反映しているかどうか、更に言えば「社会契約における一般意志は自然状態における個別意志とどのように関係するか」という問題なのです。

どうも前置きが長くなり過ぎましたが、「ひとりで生きていく」ことが素晴らしく感じられるとすれば、そこには人間社会の中で抑圧されてきた個別意志の解放があるからです。確かにそこには新鮮な喜びがあります。例えば、私がケーキを買ってきたとします。当然、その所有権は私にあり、私の個別意志はそれを全部一人で食べることを欲します。ところが、そこに突然の来客があれば、私はケーキを占有したいという個別意志とケーキを来客と共有すべきだという一般意志との葛藤に悩むことになります。もし私が他者とつながらない孤独な生活を送っていれば、このような苦悩に煩わされることなどあり得ず、私は四六時中自分の個別意志を満足させることだけに集中できるでしょう。正に「つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」ということです。しかし、そうした「新鮮な喜び」もそんなに長続きしないのではないでしょうか。実際、他者と私の関係(親しさ)の密度にもよりますが、「私一人で食べるケーキの味」よりも「他者と共に食べるケーキの味」の方が優る場合があることも事実です。その場合には、「他者と共に食べたい」という思いが一般意志になります。と言うより、そこでは個別意志と一般意志のcoincidentia oppositorum(対立の一致)が生じていると考えられます。これこそ一つのユートピアに他なりませんが、残念ながら問題はそんなに簡単ではありません。と言うのも、一般意志にせよ個別意志にせよ、それらが自分にとって本当に何であるかを見極めることは決して容易ではないからです。そもそも「ひとりで生きていく」ことに新鮮な喜びが感じられるのも、通常の一般意志が往々にして「全体への忖度」に堕しているという現実があるからです。また「ひとりで生きていく」ことに見出される個別意志にしても、単なる刹那的な衝動にすぎず、自分本来の個別意志とは程遠いものだと思われます。殊に鍵のかからない部屋で育まれた我々日本人の個別意志は、鍵のかかる部屋で培われた欧米人の個別意志と比べて薄弱になりがちです。従って厳密には、我々は「ひとりで生きていく」ことの本当の厳しさを知らないと言うべきかもしれません。だからこそ、「つながらずに生きるのはこんなにラクで素晴らしい!」などと暢気にうそぶいていられるわけですが、果たしてこのように比較的自他の風通しの良い日本社会のあり方は望ましいことか否か。