Celkonscioもしくは不幸な意識(9)
NHKのドラマ「こもりびと」を観ました。三十歳から十年間、自分の部屋に引きこもり続けている男の話です。今は元教師の父親と一軒家に二人暮らしです。母親の死が引きこもる切掛になったようですが、より重要な要因は父親との軋轢です。この男には優秀な兄がいて、幼い頃から何かにつけて父親に比較されて育ってきました。受験に失敗して三流大学にしか入れず、卒業しても就職氷河期で正社員にもなれず、「兄さんに比べて情けない。お前はクズだ」と言われ続けてきたのです。父親には教師としての体面(世間体)もあったでしょう。父親の期待に応える兄と裏切る弟、兄がシュトルツだとすれば、弟はオブローモフです。現代社会の一般的な価値観において、前者が高く評価され、後者が非難されるのは当然です。この父親もまた例外ではなく、結果、弟は十年間引きこもることになりました。一体、何がいけなかったのか。引きこもる男は本当に人間のクズなのか。
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教師として世間の価値観を疑うことのなかった父親は引きこもる息子に「しっかりしろ!」と叱咤し続けるしかありませんでしたが、自分が癌に侵されて余命いくばくもないことを知らされて以来、何かが変わり始めます。末後の眼とでも言いましょうか、「自分の死後の息子」という視点が世間の価値観を相対化し、引きこもる息子の心に真摯に向き合えるようになったのです。ここで重要な役割を果たすのが姪(引きこもる男の兄の娘)の存在です。彼女は今現役の大学生として、正に就職活動の真最中で、なかなか内定が得られずに苦しんでいます。その苦しみが四十になっても引きこもり続ける叔父さんの存在を無視できない気持にさせます。キルケゴール流に言えば、共感的反感・反感的共感です。叔父さんのようにはなりたくないが、引きこもる気持が分からないでもない。少なくとも叔父さんを「人間のクズ」だと馬鹿にして否定する気には到底なれない。その気持がセクハラ・パワハラ渦巻く現実の中で就職活動を進めていくにつれて高まり、彼女は「社会に合わせて頑張って働く人が正しいのか、それとも社会を拒絶して引きこもる叔父さんが正しいのか、私には分からなくなった」と呟くに至ります。この呟きは決して彼女一人のものではないでしょう。
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さて、呟きと言えば、彼女の御蔭で引きこもる男がツイッターをしていることが判明します。彼はそこでTHE BLUE HEARTSの楽曲への共感を呟き、彼なりに「しっかりしよう」という思いを表明していました。それを知った父親も孫娘の手ほどきでツイッターを始め、ブルーハーツを介して引きこもる息子とツイートし合う関係に(勿論、互いに知ることなく)なりますが、その心の内が明らかになっても、いや明らかになればなるほど、どう仕様もない思い(やるせなさ)が募るばかりです。もはや以前のように「しっかりしろ!」などとは言えない。息子もしっかりしなければならないことは百も承知だからです。そもそも「しっかりする」とはどういうことなのか、息子は言うに及ばず、父親にさえ分からないのです。やがて、ツイートし合う相手が父親であることに気づいた息子は衝動的に死のうとするが死にきれず、必死に止めに来た父親は「生きていてくれ!ただ生きているだけでいい」と泣き叫んでいるうちに大量の吐血をして倒れます。救急車で病院に搬送された父親はそのまま息を引き取りますが、息子は父が遺した日記によって父としての苦しい胸の内、かつて自分の息子を「人間のクズ」と決めつけたことへの後悔と反省、引きこもりを余儀なくされた息子への深い懸念と愛を知り、改めてしっかりしなければならぬと思うのです。その思いの現実への第一歩として、海外出張中ですぐには帰って来られない兄に代わって、自分が父の葬儀の喪主を務めると言い出します。周囲は驚き、「本当に十年間引きこもっていた男に喪主が務まるのか」と心配しますが、結局その男の決意を認めます。かくして葬儀は始まりますが、案の定、周囲の心配は現実のものとなり、男は人前に出られずに自分の部屋に引きこもってしまいます。しかし、もう葬儀も終わろうとする時になってやっと男は姿を現し、実にたどたどしい口調で参列者への感謝の気持、そして「長く引きこもって迷惑をかけた父のためにも、これからはしっかりしたい」という思いを述べて喪主の挨拶を終えます。これに対して、親族はもとより、参列者全員が大きな拍手をする場面でドラマも終わりを迎えます。そこに、その男の決意は実に小さな一歩ではあるけれど、「こもりびと」にとっては大きな一歩であるとの希望が込められていることは言うまでもありません。
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私はこのドラマを観ていて、始終「愚者」の運命について考えていました。この十年間引きこもっている男は明らかに「愚者」です。しかし、姪の娘が見抜いているように、この社会は誠実に生きようとすると「愚者」にならざるを得ない歪んだ世界です。言い換えれば、世間から「愚者」と見做されないようにしっかり生きようとすれば、歪んだ世界に迎合して生きるしかないのです。ここから先は循環論法に陥るしかなく、それを避けるためには「引きこもり」しかないように思われます。しかし、「引きこもり」は「愚者」と見做される現実からの逃避にすぎず、そもそも持続可能な生き方ではありません。では、どうするか。このドラマの主人公のように「引きこもり」をやめて、しっかりしようとする人間はどう生きればいいのか。これは実に難しい問題ですが、私は敢えて言いたい。「愚者」であることをやめるな!「引きこもり」は一刻も早くやめるべきだが、現代社会において「愚者」であることまでやめてはならない。むしろ、ラディカルに「愚者」であろうとすべきなのです。何故か。この歪んだ社会を変革し得る可能性は「愚者」にしかないからです。
Celkonscioもしくは不幸な意識(8)
「たといキリストが真理ではないと客観的に証明されたとしても、私は真理よりもキリストを信じる」とドストエフスキイは述べていますが、この言葉は論理を超えています。言い換えれば、これを無理に論理的に理解しようとすれば、「真理ではないキリストを信じる」もしくは「非真理としてのキリストを信じる」ということになり意味を成しません。ドストエフスキイの本意は端的に「キリストは真理以上の存在だ」ということにあると思われますが、それは一体何を意味するか。ちなみに、キルケゴールの実存弁証法においても「主体性は真理である」が「主体性は非真理である」に転換する瞬間がありますが、それは永遠のアトムであり、正にその瞬間に垂直の次元が切り拓かれます。ティリッヒの言葉を借りて具体的に言えば、それは「それにもかかわらず」(nevertheless)の瞬間です。例えば、人はパンなしでは生きられないが、それにもかかわらず、人にはパン以上の何かのために生命を賭ける瞬間が訪れる、ということです。論理で構成されている水平の次元では不合理で矛盾していることが、垂直の次元では人間の生きる糧になり得ます。そこに「不合理ゆえに吾信ず」(Credo quia absurdum)というドラマも生じるのです。
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さて、ドストエフスキイは「真理を超えているキリスト」という美しき存在を表現しようとして、ムイシュキンという「愚者」(白痴)を生み出しました。鄙見によれば、このムイシュキンは後年アリョーシャ・カラマーゾフとして生まれ変わり、やがて革命運動に邁進することになります。尤も、周知のように、革命家としてのアリョーシャはドストエフスキイの死によって「構想」のままですが、「愚者は如何にして運動の主体になり得るか」という問題は我々がドストエフスキイから受け継ぐべき永遠の課題でしょう。僭越ながら私もその課題の一翼を担っているつもりですが、「愚者が運動の主体になる」とは一般的には矛盾でしかありません。運動と目的意識は不可分なのに、愚者は常に目的意識を超越しているからです。つまり、目的意識を持った愚者はもはや愚者ではないのです。このアポリアは如何にして克服されるのか。
Celkonscioもしくは不幸な意識(7)
これまで私は今の村を批判してきて、これからもラディカルに批判し続けていくつもりですが、それは村人たちが与えられたタラントンを倍にするだけの能力に欠ける愚者だからではありません。むしろ、この現代社会において愚者であることの自覚がないこと、ティリッヒ流に言えば「愚者である勇気」(Courage to be an idiot)が今の村人に皆無である点こそ私の批判の核なのです。この場合の「愚者」とは、宮澤賢治が「サウイウモノニワタシハナリタイ」と記した「デクノボー」であり、ボードレールの「ソムナンビユール」、ランボーの「ヴォワイヤン」にも通じています。少し文脈は違いますが、ジョン・レノンがimagineするdreamerも「愚者」の一人と考えることができ、彼のBut I’m not the only one. I hope someday you’ll join us. And the world will be one.という言葉は私の願いでもあります。このように既存の世界に対する違和感、「このままでは駄目だ」という意識は様々な形で表現されてきており、「新しき村」もその一つの結晶だと私は考えています。しかし、今の村のどこに、そのような表現があるでしょうか。勿論、これは今の村に限ったことではありません。現在のコロナ禍を筆頭に、世界の在り方に対する不満が渦を巻いていますが、それが世界を根源的に変革する表現にまで至ることは極めて稀です。せいぜいタラントンを倍にするような能力に長けた利口者たちが経済的な弥縫策をあれこれ講じているだけです。私は決して経済的な問題(生活の経済的立て直し)を無視するつもりなどありませんが、やはりそれよりも重要な問題があると思うのです。それは垂直の次元の「受け取り直し」(反復=wiederholung)です。その重要性を世界に訴えかけること、何度でも繰り返し訴え続けることこそ、「新しき村」に課せられた使命だと私は考えています。相変わらずの妄想だと嗤われるでしょうが、私としては先のジョン・レノンの言葉を愚直に繰り返すしかありません。
Celkonscioもしくは不幸な意識(6)
人間は様々で、才能に恵まれてやりたいことが次から次へと湧いてくる有為な人もいれば、これといった特性もなくのんべんだらりと日々を過ごしている無為の人もいます。前者の典型がシュトルツだとすれば、後者の典型はオブローモフです。そして一般的に言えば、理想社会を実現する主体は前者のような活動的人間であって、後者の如き人間は余計者と見做されるでしょう。しかし、それはあくまでもパラダイスという近代的理想の実現に関して言えることであって、ユートピアという理想の実現に関しては様相が一変します。端的に言えば、ユートピアを実現し得る主体はむしろオブローモフのような人間なのです。この極めて分かりにくい様相を明らかにするために、先日の会合で私はイエスの「タラントンの譬え」について述べました。
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周知のように「タラントンの譬え」とは、或る主人が三人のしもべたちに、おそらくそれぞれの能力に応じて、五タラントン、二タラントン、一タラントンを預け、その結果、五タラントンと二タラントンを預けられた者は倍にして主人から褒められたが、一タラントンを預けられた者はそれを地中に隠して一タラントンのまま保持したことを主人からひどく叱られた、というものです。これは通常、一タラントンを少しも殖やそうとしなかった怠惰、もしくは失敗を恐れて一タラントンを活用することをしなかった臆病に対する批判と解釈されます。しかし、どうでしょうか。私は異なる理解をしています。確か、福永武彦の「草の花」という作品にも「タラントンの譬え」に異議申立てする人物がいたように記憶していますが、私はタラントンを倍にすることよりも重要なことがあり、一タラントンを預けられた者はその重要性に気づいていたのではないかと思っています。それは一体何か。
Celkonscioもしくは不幸な意識(5)
偉そうなことばかり書いていますが、私は駄目な人間です。少なくとも立派な人間ではない。だから、他人の生活の在り方についてとやかく批判する資格などありません。そもそも人間は基本的に自由な存在なので、他人の迷惑にならない限り、どんな生き方をしてもいいでしょう。Icona Popも I don’t care. I love it.と歌っていますが、ニートであれ引きこもりであれ、それが経済的に持続可能で本人も気に入っているのなら、私もまたI don’t care.と繰り返すしかありません。ならば今の村人の生活についても同様だと言われるかもしれませんが、それは違います。私はあくまでもユートピアを問題にしているのです。ここ二十年の間、私は「新しき村」の文脈でユートピア実現の可能性を摸索してきましたが、それは「新しき村」をユートピア運動の拠点にしたいと考えているからです。先日の会合でも、私が性懲りもなく訴えたのは、「新しき村」は単なる農業生産(生活)共同体ではなく、「新しき村の精神」に込められた理想を実現するための運動態であるべきだ、ということです。尤も、前者としてもすでに経済的に破綻していて殆ど機能していないのは明白ですが、たといそれを経済的に立て直すことに成功したとしても、その成功は「新しき村」をもたらしません。おそらく、村人とそのシンパの人たちが望んでいる村の存続とはその経済的再建にすぎないと思われますが、私は運動態への根源的な構造(組織)改革をこそ求めているのです。正に、「新しい葡萄酒には新しい革袋を!」ということです。従って、新しい革袋のための議論なら私は尽力を惜しみませんが、古い革袋の修繕のための議論なら今後参加するつもりはありません。先ずは、その一点を明確にしておきたい。
Celkonscioもしくは不幸な意識(4)
私は今の村を批判してきました。目的意識がないと非難してきました。「現状に甘んじるな。理想を追求せよ!」と叫んできました。私は自分が間違っているとは全く思わない。むしろ、自分の正しさには自信があります。しかし、自信に満ちた正義の言葉ほど人を苛立たせるものはありません。事実、私の言葉は人を動かさず、逆に自らの正義を強く主張すればするほど大方の反感を買います。何故か。
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暫し横道に逸れますが、現在放送中のNHKの朝ドラ「エール」に印象的な場面がありました。周知のように、「エール」は昭和の名作曲家・古関裕而とその妻をモデルにしたドラマですが、音楽という「人生の目的」を持つ両親の情熱的な生き方に対して一人娘は常に負い目のような苛立ちを抱いています。自分には「人生の目的」と言えるようなもの、両親にとっての音楽に匹敵するようなものが何もないからです。優しい母は折に触れて「あなたはあなたのやりたいことに打ち込めばいいのよ。そのための支援なら何だってする」と言いますが、その度に娘の苛立ちは募るばかりです。そして、或る時ついに堪忍袋の緒が切れたという感じで「私にはお父さんやお母さんのような音楽の才能はない。これといった他の才能もなければ、やりたいこともない。人生にはやりたいことがなければいけないの?」と叫んでしまいます。両親、殊に母親は大きなショックを受けますが、同時に無意識の裡に娘を精神的に追い込んでいたことを深く反省します。私はこの場面を観ていて、図らずも今の村人たちのことを思い出しました。
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自分のやりたいことをするのが人生だ。目的のない人生には意味がない。そんなことは誰もが百も承知でしょう。甲子園を目指す高校球児のようにスポーツに打ち込む青春、歌手やアイドル、お笑い芸人としてメジャーデビューを目指す夢を追いかけるのもいい。成績が良ければ、東大一直線の受験競争に賭けるのもいいでしょう。どんなことでもいい、たとい他人には下らないことでしかなくても、自分のやりたいことに打ち込める人生はそれなりに充実している筈です。この道より我を生かす道なし、この道をいく。しかし、「この道」を見出すことのできる幸福者は現実にはそんなに多くはないでしょう。むしろ、際立った才能もない大半の凡人は「この道」を見出すことなく、何かに打ち込むこともない帰宅部として、日々平穏に過ごしていくことにささやかな幸福を求めていくものと思われます。その幸福の中でゲームやその他の娯楽に現を抜かす人たちに「人生の目的」を訴えることは正に糠に釘、豆腐に鎹であって全く意味を成しません。とすれば、曲がりなりにも「平穏無事な生活」に安住しようとしている人たちに「人生の理想」を求めることは愚の骨頂であり、私はそうした人たちとの関係を断念するしかないのでしょうか。現実にはそうするしかないかもしれませんが、目的意識のない人を安易に切り捨てることにも忸怩たる思いを禁じ得ません。「新しき村の精神」の第一(全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする)からしても、どんな已むを得ぬ事情があったとしても、或る種の人間を排除することは理想の挫折でしかないからです。では、どうすればいいのか。目的意識の強要などという野暮は論外だとすれば、「人生の理想」と「平穏無事な生活」の関係を改めて根源的に問い直すしかないと私は考えています。
Celkonscioもしくは不幸な意識(3)
今の村には現状維持派と改革派の対立軸があるかのように述べましたが、厳密に言えば正確ではありません。現状維持派と雖も、このままでは村の存続そのものが不可能になることは痛感しており、そうした危機感から何らかの改革は必要だと思っているからです。だからこそ、重い腰を上げて先日の話し合いの機会にも応じてきたのでしょう。しかし、その危機感はついに目的意識にはならない。確かに現状維持も一つの目的だと言うこともできますが、私はそうは思いません。目的とはあくまでも何かを目指す(celi)ことであり、殊に新しき村の場合、その何かは「真に新しきもの」(新しき人間、新しき生活、新しき社会)であるべきだからです。実現すべき理想なくして目的意識は生まれず、それは現状維持を望む思いとは真向から対立するものです。つまり、「このままでは駄目だ!」という現状に対する深い絶望が「未だないもの」(=「真に新しきもの」)への希望をもたらすのであって、現状維持が目的になることなど原理的にあり得ないのです。そもそも今の村の現状に維持するに値する如何なる理想があるのか。私には皆無としか思えません。実際、村の生活は少しも幸福そうに見えないからです。何故、そのような楽しくもない現状の生活にしがみつく必要があるのか、私は全く理解に苦しみます。しかし、村人たちの大半がこれまでの生活に自負の念を抱き、それを支持している人たちがいることは厳然たる事実です。この事実こそが改革運動の前に立ちはだかる大きな壁になっているわけですが、それはユートピア数歩手前に立ちはだかる壁でもあるのです。
Celkonscioもしくは不幸な意識(2)
創立百年を期に高まった「新しき村再生」の機運も今や正念場を迎えており、先日(11月8日)ようやく村内と村外が一堂に会して村の将来について話し合う機会が実現しました。本来であれば、もっと早く行われるべきであったのに、それがかくも遅れに遅れたのは、コロナの影響もさることながら、根源的にはやはり村内とそのシンパの人々が村のラディカルな変革に難色を示しているからです。言い換えれば、今の村の大勢を占める雰囲気は「このまま平穏無事に暮らしたい」というもので、その観点からすれば我々改革派はそうした静かな村を徒に搔き乱しているにすぎない、ということになります。村内シンパの人たちにしても、「村の人たちは日々額に汗して真面目に暮らしているだけなのに、どうしてその生活を批判するのか」という不信感を抱いていると思われます。しかし、正にその点についてこそ議論すべきだと私は訴えてきたのです。すなわち、「新しき村は一体何のためにあるのか」という村の本質を問い直す論点です。その徹底した議論の果てに、「新しき村は人々が平穏無事に暮らすためにある」という結論が出され、殆どの人がそれを支持するならば、それはそれで仕方がないでしょう。勿論、私はそのような「新しき村」に全く理想を見出せないので、自分の信じる理想はそれ以外に求めることになりますが、それが最終的な結論であれば潔く身を引きます。しかし問題は、如何なる結論が導かれるかということ以前に、「新しき村の本質」をめぐる徹底した議論がずっと回避されてきた点にあります。恰もそれによって「新しき村の本質」のシロクロがついてしまうのを恐れるかのように、現状維持派(保守)は改革派(革新)と対峙すること、いや厳密に言えば、そうした対立軸の明確化そのものから逃げ回っている感じです。実際、今回の話し合いの機会にしても、「反対意見を一切言わず、ただそれぞれの意見を聞くことに徹する」を条件に実現したもので、およそ議論の場とは程遠いものでした。率直に言って、私はその条件に大いに不満でしたが、それも将来の「議論の場」への第一歩だと考え直して参加しました。しかし、村内とそのシンパの人たちの肉声が聞けたのは多とするも、それは到底意見ではなく、更に「議論の場」へと発展するかということに関しては悲観的にならざるを得ません。何故か。そこには根源的な意味における目的意識が欠如しているからです。むしろ、目的意識を持つこと自体を忌避する雰囲気が支配的であり、このままでは永久に「議論以前」を彷徨うことになるでしょう。この閉塞状況を如何にして突破すべきか。
Celkonscioもしくは不幸な意識
「幸福な家庭はどれもこれも似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれ個性的に不幸だ」とは「アンナ・カレーニナ」の有名な冒頭であり、これについては以前にも思耕したことがありますが、ロシア語原典では「幸福な家庭」が複数で「不幸な家庭」が単数であることを最近初めて知りました。この単複の区別は全く理に適った表記であり、「幸福な家庭」が金太郎飴のようにどこを切っても同じであるのに対し、「不幸な家庭」は十人十色であるという現実に改めて気づかされたのです。すなわち、「不幸な家庭」とは単なる幸福の欠乏に尽きるものではなく、むしろステレオタイプな生活の在り方を打破せんとする魔力(平穏無事な生活に安住できぬ衝動)による極めてダイナミックかつドラマティックなものだということです。同様の魔力によって生み出されたものに太宰治の「家庭の幸福は諸悪の本」という言葉がありますが、こうした「幸福な家庭」に対するプロテスト、更に言えば幸福そのものに対する二律背反的意識こそ私の求めている「新しき村の生活」の核となるべきものです。言うまでもなく、この核は一般的には全く理解されません。殆どの人は皆一様に「幸福な家庭」を求めているからです。言い換えれば、「幸福な家庭」が得られない不幸のみが人々の一般的な問題であり、それ以外は不要不急の問題にすぎないのです。確かに、「幸福の欠乏としての不幸」は人間にとって生命の危機に瀕する切実な問題であり、決して無視することのできぬニヒリズムをもたらします。しかし、人間にはそうした欠乏による水平的なニヒリズムとは別に、より根源的なニヒリズム、すなわち過剰によるニヒリズムがあり、それが人間生活に垂直の次元を切り拓くのです。過剰のニヒリズムは根源的ではあるものの、いや根源的であるからこそ、人間の水平的次元における表層生活では不要不急の問題とされますが、少なくとも私にとってはその克服こそがライフワークに他なりません。果たしてこれは私の独りよがりの妄想にすぎないのでしょうか。「決してそうではない!」と信じて、殆ど誰にも読まれぬこの便りを細々と書いておりますが、日々徒労感が募るばかりです。一体何が問題なのか。改めて考えてみたいと思います。
「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(10)
厳密に言えば、生命の再生産自体が消費の一つだと考えられる。それは呼吸のようなもので、人は息を吸って、吐く。吸わなければ吐けないし、吐かなければ吸えない。呼吸は本来吸うと吐くの一体運動であり、生命もまた再生産と消費という二重運動を一体として理解すべきだろう。しかしながら、それを敢えて区別して思耕しているのは、人間の生命の特性を浮き彫りにするためだ。人間以外のイキモノは生命の再生産のため(だけ)に生きている。そして、その再生産は本能的に「食」と「性」の欲望によって推進されている。問題を単純化するために、当面「性」の欲望についてはエポケーすれば、人間以外のイキモノは「食うために生きる」ことを最大の目的としている。人間もまたイキモノである以上、その目的を無視することはできないないが、古来より「人はパンのみにて生くるにあらず」と言われ、実篤もまた「食うために働く人が一人でもいる限り、その世界は未だ理想ではない」と言っている。では、人間は何のために生きているのか。生命の消費のためであり、それは生命の再生産とは質的に全く異なる次元を切り拓く。それが祝祭共働の次元に他ならない。確かに、食うために働いて、その余暇に様々な娯楽で生命を消費するという生き方もある。いや、むしろその方が一般的であり、大半の人は少しでも経済的に豊かになって、より高いレヴェルで余暇を楽しむことに人生の目的(生き甲斐)を見出している。しかし私は、そのような生命の再生産と同じ水平の次元における消費には限界があると考えている。娯楽の如き生命の消費では人間の生命は汲み尽せない。どうしても垂直の次元が必要になる。それは一般的には不要不急の次元かもしれないが、祝祭共働には必要不可欠なものだ。そして、祝祭共働による生命の消費(消尽)は人間の生を究極的に輝かせる。その輝きは娯楽によるそれの比ではない。