Celkonscioもしくは不幸な意識(7) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

Celkonscioもしくは不幸な意識(7)

これまで私は今の村を批判してきて、これからもラディカルに批判し続けていくつもりですが、それは村人たちが与えられたタラントンを倍にするだけの能力に欠ける愚者だからではありません。むしろ、この現代社会において愚者であることの自覚がないこと、ティリッヒ流に言えば「愚者である勇気」(Courage to be an idiot)が今の村人に皆無である点こそ私の批判の核なのです。この場合の「愚者」とは、宮澤賢治が「サウイウモノニワタシハナリタイ」と記した「デクノボー」であり、ボードレールの「ソムナンビユール」、ランボーの「ヴォワイヤン」にも通じています。少し文脈は違いますが、ジョン・レノンがimagineするdreamerも「愚者」の一人と考えることができ、彼のBut I’m not the only one. I hope someday you’ll join us. And the world will be one.という言葉は私の願いでもあります。このように既存の世界に対する違和感、「このままでは駄目だ」という意識は様々な形で表現されてきており、「新しき村」もその一つの結晶だと私は考えています。しかし、今の村のどこに、そのような表現があるでしょうか。勿論、これは今の村に限ったことではありません。現在のコロナ禍を筆頭に、世界の在り方に対する不満が渦を巻いていますが、それが世界を根源的に変革する表現にまで至ることは極めて稀です。せいぜいタラントンを倍にするような能力に長けた利口者たちが経済的な弥縫策をあれこれ講じているだけです。私は決して経済的な問題(生活の経済的立て直し)を無視するつもりなどありませんが、やはりそれよりも重要な問題があると思うのです。それは垂直の次元の「受け取り直し」(反復=wiederholung)です。その重要性を世界に訴えかけること、何度でも繰り返し訴え続けることこそ、「新しき村」に課せられた使命だと私は考えています。相変わらずの妄想だと嗤われるでしょうが、私としては先のジョン・レノンの言葉を愚直に繰り返すしかありません。