Celkonscioもしくは不幸な意識
「幸福な家庭はどれもこれも似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれ個性的に不幸だ」とは「アンナ・カレーニナ」の有名な冒頭であり、これについては以前にも思耕したことがありますが、ロシア語原典では「幸福な家庭」が複数で「不幸な家庭」が単数であることを最近初めて知りました。この単複の区別は全く理に適った表記であり、「幸福な家庭」が金太郎飴のようにどこを切っても同じであるのに対し、「不幸な家庭」は十人十色であるという現実に改めて気づかされたのです。すなわち、「不幸な家庭」とは単なる幸福の欠乏に尽きるものではなく、むしろステレオタイプな生活の在り方を打破せんとする魔力(平穏無事な生活に安住できぬ衝動)による極めてダイナミックかつドラマティックなものだということです。同様の魔力によって生み出されたものに太宰治の「家庭の幸福は諸悪の本」という言葉がありますが、こうした「幸福な家庭」に対するプロテスト、更に言えば幸福そのものに対する二律背反的意識こそ私の求めている「新しき村の生活」の核となるべきものです。言うまでもなく、この核は一般的には全く理解されません。殆どの人は皆一様に「幸福な家庭」を求めているからです。言い換えれば、「幸福な家庭」が得られない不幸のみが人々の一般的な問題であり、それ以外は不要不急の問題にすぎないのです。確かに、「幸福の欠乏としての不幸」は人間にとって生命の危機に瀕する切実な問題であり、決して無視することのできぬニヒリズムをもたらします。しかし、人間にはそうした欠乏による水平的なニヒリズムとは別に、より根源的なニヒリズム、すなわち過剰によるニヒリズムがあり、それが人間生活に垂直の次元を切り拓くのです。過剰のニヒリズムは根源的ではあるものの、いや根源的であるからこそ、人間の水平的次元における表層生活では不要不急の問題とされますが、少なくとも私にとってはその克服こそがライフワークに他なりません。果たしてこれは私の独りよがりの妄想にすぎないのでしょうか。「決してそうではない!」と信じて、殆ど誰にも読まれぬこの便りを細々と書いておりますが、日々徒労感が募るばかりです。一体何が問題なのか。改めて考えてみたいと思います。