新・ユートピア数歩手前からの便り -91ページ目

子供の精神(8)

子供には夢があります。今時の男の子ならプロのスポーツ選手、女の子ならアナウンサーやアイドルになりたいという夢が一般的でしょう。言うまでもなく、どうしてそれが自分の夢になるのか、子供は深く考えません。考えないから夢であり続けるのです。おそらく、親やマスコミの影響が大きいと推測されますが、その華やかなイメージに憧れ、何となく自然に自分もそうなりたいと思うのでしょう。しかし当然、それらの夢が全て叶うわけではありません。むしろ大半の夢は破れる運命にあります。そして大抵の場合、夢から覚めて、その虚しさを噛み締めて生き始める時、人は自分が大人になったことを自覚するのです。もしこれが真実なら、大人として生きることは夢を失って生きることになります。こんな寂しい人生が大人の生なのでしょうか。

言うまでもなく、子供の頃の夢が全て叶う恵まれた大人もいます。尤も、そのような場合でも、正に夢が実現したその瞬間から様々な試練が始まります。例えば、アイドルを夢見た少女が念願叶ってアイドルになった瞬間から、アイドルとして生きる苦しみが始まるのです。その苦しみ故に「もうアイドルなんか嫌だ!」と思うのか、それともアイドルにしか味わえない苦しみを味わえることに生甲斐を感じるのか、それは人それぞれです。しかし、どちらにしても、子供の夢はそこで変質を余儀なくされます。そして、その変質において夢はもはや夢でなくなり、夢についての思耕(反省)、すなわち「どうして自分がそれになりたいと思ったのか」と自問せざるを得なくなるでしょう。つまり、「夢見た自己」と「あるべき自己」に引き裂かれるのです。その裂け目から精神が分泌され、子供は大人になります。確かに、夢見る子供の生に比べれば、こうした精神としての大人の生は寂しいものかもしれません。しかし、ヘーゲルの言うように、精神は否定的なものを直視し、否定的なものの下に留まることによって力を発揮するのです。その精神の力こそ、人間として本当に生き始める原動力になると思われます。そもそも否定的なものに一度も直面しない順風満帆な人生があるとしても、そこにどんな意味があるのか。それは親の言いなり、教師の言いなり、世間の言いなりに成功しただけのことではないか。生きよ、堕ちよ、と言った人もいますが、人生は「夢見る無垢」の喪失という挫折からしか始まらないのです。

間奏曲:コミュニズムの運命

100de名著」というテレビ番組を毎回楽しみに観ていますが、今年最初の名著はマルクスの「資本論」で、新進気鋭の経済思想家・斎藤幸平氏がその案内役を務められました。その解説は実に平易かつ的確で、それについては「子供の精神」についての思耕に一区切り付けてからじっくり述べたいと思っていましたが、最終回を迎えて取り敢えずの問題点を覚書風に記すことにします。そもそも、今なぜマルクスなのか。斎藤さんによれば、世界中の若者たちが現在の資本主義社会の在り方に危機感を募らせ、そのオルタナティブとしての社会主義に関心を抱き始めているとのことです。実際、若者ならずとも、グローバリゼーションとか新自由主義の名の下に経済格差や環境破壊が増大し続ける現代社会にウンザリして「このままでは駄目だ!」と思っている人は少なくないでしょう。そして、「今の社会が駄目なら、如何なる社会を求めるべきか」と問う時、百五十年前のマルクスの思想が依然として有効であることが明らかになるのです。ただ、ここで問題になるのは「マルクスの思想とは一体何か」ということです。マルクス自身「自分はマルクス主義者ではない」と語ったそうですが、マルクス主義にしても共産主義にしても歴史の手垢がつきすぎており、「マルクスが本当に考えた理想」が不透明であるのは事実です。十数年前に何故か小林多喜二の「蟹工船」が売れ始めて、共産主義や共産党のイメージに少し変化が生じましたが、一般的には未だに「アカ=危険思想」というイメージが支配的ではないでしょうか。その点、今回の番組で斎藤さんが「コミュニズム=コモンの再生」という一点に集中して解説されたことには大きな意味があったと思います。僭越ながら、私が「新しき村」に望んでいたことも「コモンの再生」であり、祝祭共働態とは一つのアソシエーションに他なりません。しかし最大の問題は、コミュニズムの本質がそのようなものだとして、それはすでに多くの人たちによって繰り返し強調されてきたことなのに、何故その理想は未だに実現しないのか、ということです。鄙見によれば、資本主義の魔力は想像以上に強大であり、コモンの理想にしても常にファシズムの危険性を孕んでいるという問題があるように思います。この問題については、過剰と蕩尽の経済学とも言うべきバタイユの思想と併せて改めて考えることにします。

子供の精神(7)

「大人はわかってくれない」というセリフは子供の専売特許であり、「薄汚い大人なんかになりたくない!」と思う子供も少なくないでしょう。「無垢な子供」は今や神話的存在にすぎないのかもしれませんが、「大人になる」過程で様々な垢にまみれることは避けられません。尤も、醜い芋虫が美しい蝶に変身するように、生物の成長自体は美化だと考えることもできます。勿論、美しい成長の後には醜い老化の道を辿るわけですが、ここで問題にしたいことはそうした外面的(身体的)美醜ではなく、あくまでも内面的(精神的)美醜です。身体上の経年劣化は別にして、子供は大人の一体何が汚いと思うのか。

美しい成長とは裏腹に、生きるとは汚れること、もしくは汚れた世界の中で生きることを余儀なくされるのが現実です。一般的には、それは性的欲望に目覚めることから始まります。ただし、イキモノとしての成長は性的成熟を目指すものであり、性的欲望を汚れ(穢れ)と意識するのは人間のみ、それも或る一定の文化を有する人間のみだと考えられます。大雑把に言えば、近代以前の人間は総じて性的に大らかであり、異性を求める性的欲望はごく自然なものであったでしょう。自然と融即した生活をしている未開人も同様です。しかし、古くから好色な神々が活躍する神話がある一方で、性的欲望を禁忌とする宗教もあり、その起源が何であるかは複雑な問題です。精神分析学や民俗学による起源の探究もさることながら、ここではイデア界と現象界というプラトンの二元的世界観に代表されるような霊肉二元論を基本に考えることにします。人間は「万物の霊長」などと称されますが、人間を他のイキモノと区別するのは「人間は単なる物質的存在を超える精神的存在だ」という意識だからです。勿論、人間の精神なるものも物質に還元できるとする素朴な唯物論も可能ですが、そのような認識が成立するためにも意識の「主観-客観構図」が不可欠であり、それによって人間は「あるべき自己」と「現にある自己」に引き裂かれることになるのです。仏教ではそのような状態を煩悩(自同律の不快)と称し、その根源である「主観-客観構図」を滅却する空の境地が目指されます。しかし、そのような悟りを開く如来は極めて稀であり、一般衆生は「あるべき自己」と「現にある自己」に引き裂かれる煩悩に苦しむ運命にあります。言うまでもなく、子供は未だその運命に自覚的ではありませんが、決して避けられるものではなく、早晩その自覚が大人への第一歩になるでしょう。鄙見によれば、その第一歩において、子供は「あるべき自己」を純粋に求め、その反動で「現にある自己」になし崩し的に妥協してしまった大人たちに反感を抱くのだと思われます。あるいは、大人たちが処世的に辿り着いた「あるべき自己」(例えば、偏差値の高い学校を卒業して、世間的に評価の高い職業に就く自己)を押し付けられることへの反撥もあります。とは言え、殆どの子供は親や教師によって与えられた「あるべき自己」を必死に追いかけることを余儀なくされるのが現実です。その現実において、親や教師に代表される大人の期待に副う結果が出せる子供はそれなりに幸福になれますが、受験の失敗などでその道からドロップアウトする子供は更に煩悩を深めることになるでしょう。しかしながら、既成の「あるべき自己」に挫折する子供はむしろ幸いだと私は思っています。確かに、挫折する子供は挫折しなかった子供には無縁の苦しみを味わうことになります。しかし挫折する子供は、その苦しみにおいて、既成の「あるべき自己」に安住する挫折しなかった子供には見えぬ真の「あるべき自己」への道が拓けるのです。それは真の大人へと通じる道でもあり、そこにおいてこそ子供の精神が問題になるのです。

子供の精神(6)

「子供は人間ではない」と述べましたが、これはあくまでも法的な意味においてです。周知のように、我が国には最低法定年齢というものがあり、子供は二十歳にならなければ単独で訴訟を起こすことさえできません。しかし、人工妊娠中絶の場合には「胎児はすでに人間ではないのか」という疑問が生じてきます。妊娠22週の壁というものがあり、それ以降の中絶は母体保護法によって禁じられていますが、これは「妊娠22週以前の胎児は未だ人間ではないから中絶してもよい」ということではないでしょう。生物学上のヒトと人間は異なり、法的にも堕胎罪と殺人罪は区別されますが、ここでは胎児もまた人間と見做すことにします。問題は、胎児がこの世に生まれ、人間として成長していくことにあります。「新しき村の精神」には、「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする」とありますが、この理想は如何にして実現されるのか。先述したように、これは未成年状態を脱するという啓蒙と密接に関係していますが、生物学的な成年(おそらく子供をつくる身体的準備が整う)や法的な成年(二十歳)とは別に、「人間が本当の意味で人間になるとは何か」と問うことが要請されます。「新しき村」は、その問いが具体的に実践される場だと私は今でも考えています。

子供の精神(5)

犬が人を咬み殺しても罪に問われることはない。罪がないのではなく、そもそも罪を意識する知性がないからです。殺処分されても、それは死刑ではなく、超法規的な、いや法が意味を成さない次元での処置にすぎません。犬はかなり賢い動物で、盲導犬や警察犬になる能力がありますが、その優れた能力は知性とは見做されない。単に主人の言いつけ通りに行動しているだけだからです。従って、主人(飼い主)の管理責任が問われることはあっても、人を咬み殺した犬を法で裁くことなどできません。野良犬の場合も基本的に同様で、野良犬を放置した当局の責任が問われることはあっても、野良犬そのものは法の外の存在です。では、子供はどうか。

例えば、子供が人を殺す。キモイ同級生をいじめて自殺に追い込んだり、ムカツク親を金属バットで殴り殺したり、ゴミ同然のホームレスを面白半分に焼き殺したりする。こんな酷いことが人間として許される道理がないのに、少年法は子供の刑事責任を問いません。法はあくまでも人間を対象としたものであり、子供は人間ではないからです。その意味では、子供も犬と同様に法の外の存在だと言えます。ただ違いは、犬は決して人間にはなれないのに対して、子供はやがて人間(大人)になる可能性がある、ということだけです。従って、罪を犯した子供に求められることは、その罪に応報する刑罰を与えることではなく、その罪の意味をしっかりと認識できる精神を有する人間になることです。先述したように、その精神は単なる知性ではありません。カントの言う啓蒙を経た自律する知性です。それは他律的な未成年状態における駱駝の精神を超克する獅子の精神だと言ってもいいでしょう。獅子の精神は批判する知性でもあり、全てを懐疑します。当然、懐疑の対象は自己自身にも及び、常に「あるべき自己」を求めます。こうした獅子の精神こそ、啓蒙によって未成年状態を脱した人間を象徴していると言えますが、未だ究極的な精神ではない。子供の精神はその先にある理想なのです。

子供の精神(4)

心神喪失者の行為は罰しないとする刑法第三十九条と共に、未成年者の刑事責任は問わないとする少年法は何かと問題にされます。端的に言えば、心神喪失者も未成年者も責任能力がないと判断されるからですが、そもそも責任能力とは何か。厳密に論じようとすると複雑を極めるので、ここでは単に知性との関係に限定して考えてみます。一般的に責任能力と言えば、知性の有無だけが問われるからです。しかし、鄙見によれば、ただ知性があるだけでは責任能力にはなりません。知性は啓蒙において初めて責任能力を持つことができるのです。カント曰く、

「啓蒙とは何か。それは人間が自らに責のある未成年状態から抜け出すことであり、未成年状態とは他人の指導がなければ自分の知性を使えない状態のことだ。人間がこの未成年状態にとどまっているのは知性がないからではなく、他人の指導がなければ自分の知性を使う決意も勇気も持てないからだ。つまり、人間は自己責任で未成年状態にとどまっていることになる。従って、啓蒙の標語は「知る勇気を持て」、すなわち「自分の知性を使う勇気を持て」に他ならない。」

私の文脈に置き換えれば、他人の指導なしに自分の知性を使う決意と勇気、それが精神です。あるいは、自律する知性が精神だ、と言ってもいいでしょう。従って、東大に合格できる知性があっても、それが自律する知性でなければ未成年状態なのです。例えば、東大を出て有能なキャリア官僚になっても、御上の言いなりに終始するなら、その優秀な知性の持ち主も未成年と言わざるを得ません。その場合、東大で得た知性は幼稚園の砂場で得た知性に遠く及ばないでしょう。重要なことはあくまでも知性の自律であり、それは年齢や学歴で判断できるものではありません。とは言え、自律する知性を持つことは容易なことではなく、それを法的な責任能力の基準にすることは別問題です。明らかに実際的ではないからです。結局、現実には知性の有無だけを刑事責任を問える法的根拠にすることは妥当だと認めざるを得ませんが、知性の自律なくして本当の意味での責任が果たせないこともまた事実です。インテリのラスコオリニコフが、長く自らの犯した罪は罰に値しないと思っていたように。

子供の精神(3)

「子供の精神」は未だない理想であり、ドラマでさえそれを体現する人間を生み出せていません。せいぜい大人になっても子供の心を失っていない人間が理想とされる程度です。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」とはアメリカの哲学者ロバート・フルガムの言葉ですが、子供の心を失わずに大人の世界で生きていくことは一つのドラマを生み出します。先に言及した遊川和彦には「同期のサクラ」という昨年(2019)放送された作品がありますが、これも「35歳の少女」と同様に子供の心を持った人間が巻き起こすドラマです。主人公のサクラは正に「幼稚園の砂場で学んだ人生の知恵」だけに即して生きているような人物で、大手ゼネコンに新卒入社しても、その生き方は全く変わりません。そのために社長や上司を平気で批判して結果的に社内で冷遇されることになります。そんなサクラを同期入社の友人たちは最初馬鹿にしていたものの、次第にその純粋な生き方に影響・感化されていくのですが、そのパターンは基本的に「35歳の少女」と同じです。しかし、実際にサクラのように生きること、すなわち幼稚園の砂場で学んだ「正しいこと」を貫いて生きることはかなりキツイことです。至難の業だと言ってもいいでしょう。例えば、会社で利益至上主義による不正が行われていたり、学校で誰かがいじめられているような状況で、「やめろ!」と叫ぶことができるのか。サクラは躊躇することなく叫びます。そして、不幸になります。果たして我々はそのドラマを現実に生きることができるのか。「できる!」と言える人が集えば、そこが「新しき村」になります。今ある毛呂山の村を「新しき村」にすることは殆ど絶望的ですが、「新しき村」はどこにだって実現します。「子供の精神」のリアリティさえ信じられるならば。

子供の精神(2)

野暮を承知で言えば、「子供の精神」という言葉は矛盾しています。精神として規定される以前の無垢な状態が子供なのであって、精神を持てばもはや子供ではないからです。所かまわず泣き叫び、クソションベンを垂れ流す赤ン坊がその典型ですが、子供とは基本的に傍若無人なイキモノであり、その行動は理性では割り切れません。そもそもアリエスによれば、「子供」が誕生したのは近代以降であり、中世ヨーロッパにおいては七、八歳以前の乳幼児は人間扱いされなかったそうです。逆に言えば、物心がつく(=精神として規定され始める)七、八歳になればすでに大人であり、大人社会の一員として働くことを余儀なくされたのです。つまり、「純粋無垢な子供」は近代の学校教育制度の産物であり、それに伴って「汚れっちまった大人」との対比も生まれたと考えられます。ブレイクに「無垢の歌」と「経験の歌」という作品がありますが、誰しも自らの無垢な子供時代に楽園を見出すものの、やがて経験を重ねることで楽園喪失の苦しみを味わうことになります。正に子供の無垢が天国だとすれば、大人の経験は地獄です。しかし、いくら子供の世界が天国だとしても、大人の世界から逃げ出すわけにはいきません。それは明らかに精神の退行であり、駱駝の精神より醜悪なものでしょう。ブレイクには「天国と地獄の婚姻」という作品もありますが、重要なことは子供の無垢と大人の経験のcoincidentia oppositorumです。それこそが「子供の精神」に他なりません。

子供の精神

クイズ番組は人を裏切らない。正解すれば優勝し、不正解なら脱落する。受験も然り。しっかり勉強して正解すれば合格し、勉強せずに正解が出せなければ不合格になる。この道理に異議を唱える人は皆無でしょう。むしろ、殆どの人はこの道理が貫かれ、この道理に基づいて世界が築かれることを望む筈です。不正解者が優勝するクイズ番組、碌に勉強もしていない者が合格する受験、そんなものは誰も望まないのです。しかし、現実社会は人を裏切ります。不正解者が奇妙なルールで優勝したり、勉強した者が合格できず、勉強しなかった者が合格する、そんな理不尽なことが起こります。そうした理不尽をめぐって人間のドラマが生じますが、一般的に「大人になる」ということは現実社会の理不尽に慣れていくこと、理不尽な現実に直面しても見て見ぬ振りができることになりがちです。ちなみに遊川和彦という脚本家はこうした「大人になる」ことを問うドラマをよく書きますが、先日最終回を迎えた「35歳の少女」という作品も基本的にそうでした。それは十歳の時に事故で昏睡状態に陥った少女が二十五年振りに奇跡的に目覚めることから始まるドラマです。彼女はすでに三十五歳になっていますが、精神的には十歳のままで、だから「35歳の少女」なのですが、二十五年という年月を経た周囲の人たちとの間に何かと軋轢が生じます。二十五年経っても心は子供のままの彼女は、二十五年経って汚れっちまった心の持ち主となった人たちを批判するからです。それに対して「いつまでも子供ではいられないんだよ!」と反論されたりしますが、彼女自身も次第に「大人になる」ことを余儀なくされていきます。このドラマではエンデの名作「モモ」が通奏低音となっていますが、結局、その結末では「いつまでも子供の心を忘れない大人になる」という一つの逆説を生きることが希望になります。しかし、問題はその希望のリアリティでしょう。それは「子供の精神」のリアリティでもありますが、果たして可能なのでしょうか。

ラディカルな愚者(10)

一昨年(2018)は新しき村創立百年で世間からもそれなりの注目を集めました。わずかながら著名人が今も毛呂山にある村を訪れ、「百年前に新しき村がつくられた意味」を問い直したようですが、「今、そして将来に向けて新しき村がある意味」を問うことは殆どありませんでした。唯一の例外は前田速夫さんの試みで、「新しき村の百年:〈愚者の園〉の真実」と題する著書において「これまでの村」を踏まえた上で「これからの村」を問題にされています。しかし実に残念、と言うか愚かなことに、実際に毛呂山で生活している当の村人たち自身に「これからの村」に対する問題意識がないのです。その明白な証拠は、前田さんの著書の題名中の「愚者」の二字に村人たちが憤慨したという事実に見出されます。私などは新しき村の文脈において「愚者」と称されるのは誇りでしかないのに、どうして村人たちは憤慨したのか。それは「愚者」を優劣の観点でしか理解していないからです。つまり、自分たちが現代社会の価値観から取り残された落ちこぼれ(劣等者)だとでも言われたように感じたのでしょう。しかし、現代社会の価値観をラディカルに問い直すのが「新しき村の精神」ではないか。少なくとも実篤は百年前当時の既存社会の価値観に勇敢にも立ち向かった「愚者」でした。余談ながら、今年は三島由紀夫が市ヶ谷で割腹してから五十年とのことですが、彼もまた戦後社会の価値観に挑戦した「愚者」だと言えるでしょう。勿論、二人の異議申立ての意味は異なりますが、今こそ「愚者」が再び立ち上がる秋だと私は思っています。そこで改めて「愚者」について思耕してきたわけですが、結局、ラディカルな愚者とは垂直的人間に他なりません。

ここでまたもや少し横道に逸れますが、ガルシンの「信号」という短編を通じて垂直的人間について考えてみます。主人公はセミョーン・イヴァーノフという田舎の駅員で、善良を絵に描いたような人物です。安月給にも不平一つ言わず、課せられた職務を黙々と果たしています。このセミョーンの対極に位置するのがヴァシーリイ・ステパーヌィチという男で、同じく近くの駅員ですが、不平不満の塊のような人物で、いつもセミョーンに愚痴をこぼしています。しかし、ヴァシーリイは悪人というわけではありません。むしろ、ヴァシーリイがセミョーンに「このまま現状に甘んじていていいのか」と問い掛け、セミョーンが「不平を言ったらきりがないよ。今でもとにかく食えて生活できているんだから、このままでいいじゃないか」と答える場面では、私はヴァシーリイの味方をしたくなります。旧態依然たる生活に安住するセミョーンは明らかに愚者であり、生活を少しでも改善しようと望むヴァシーリイは何も間違っていないからです。この後の物語の展開を簡単に辿れば、意を決して待遇改善を当局に訴えたヴァシーリイは逆に殴られてしまいます。それを怨んだ彼は当局に復讐するべく線路を外して列車を転覆させようとしますが、それを偶然見ていたセミョーンが正に命がけで列車事故を阻止します。そうした我が身を捨ててでも他者の命を救おうとするセミョーンの姿に感動したヴァシーリイは自らの罪を認めて改心するという場面で物語の幕は下ります。ガルシンにはどうもトルストイの民話の影響があったようで、この作品も結局は「イワンのばか」と同様に「愚者の勝利」と理解することができます。しかし、果たしてそれだけでしょうか。

私の念頭には常にツァラトゥストラの「駱駝・獅子・子供」という精神の三態があります。セミョーンが駱駝だとすれば、ヴァシーリイは獅子です。苦しい現状にただ耐えるだけの駱駝とそれを変革するために闘う獅子。前者は時代遅れの愚者であり、後者は現代人のあるべき姿だと言えます。この文脈では、獅子の生き方こそ我々の当面の理想となるでしょう。しかし、獅子の精神は往々にして権力闘争をもたらし、ユートピアを求めている筈なのに、いつの間にかディストピアに陥っているという結果になりがちです。それ故、泥沼のディストピアよりも駱駝の生活の方がまだマシだ、ということにもなりますが、駱駝と獅子の間の循環運動ほど醜悪なものはないと私は思っています。鄙見によれば、駱駝も獅子も水平の次元に囚われていることが問題なのです。言い換えれば、駱駝と獅子の対立を超克するためには垂直の次元への飛躍が不可欠であり、そこに新たな精神が生まれます。それが子供の精神なのですが、ここで注意すべきことは「垂直の次元への飛躍は断じて現実逃避ではない」ということです。そもそも子供の精神は一つの逆説を胚胎しており、これについては改めてキルケゴールの実存弁証法と重ね合わせて理解したいと思っています。ただ、新しき村に関連させて言えば、今の毛呂山の村人たちは駱駝としての愚者にすぎないということ、そしてそれを批判する者は獅子と見做されるが、我々はもっと遠くを見ているということです。駱駝でもない、獅子でもない、全く新しい子供の精神という逆説に生きる垂直的人間、それがラディカルな愚者なのです。