「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「不要不急の仕事」の必要性を巡る補足の断章(5)

太宰治の「富嶽百景」に次のような言葉がある。

「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁一すぢの自負である。」

この太宰の「藁一すぢの自負」はパスカルの「考える葦の自負」に通じる。人間は考える。考えるから苦悩する。無になって考えなければ苦悩は生じない道理だが、そういうわけにはいかない。一般衆生は考えることを滅却できず、悟りはなかなか開けない。何かしら考える。人間以外のイキモノでも、それなりに考えているだろう。しかし、それは「自分の生命を如何に維持するか」という本能にすぎない。赤ん坊の泣き声も苦悩の一表現だと考えられるが、それも本能の叫びに他ならない。ミルクを与えるとかオシメを替えるとか、生命の欲することが満たされれば、赤ん坊は泣き已む。それは基本的に大人も変わらない。その苦悩の大半は生命の欲望が満たされないことから発する。しかし、それだけではない。たとい生命の欲望が全て満たされても、なお満たされぬものがあるのではないか。そこにこそ人間の真の苦悩があるのではないか。