無力の力(9)
人は通常、力をつけることで幸福になれると信じている。無力な赤ん坊は親を中心とした周囲の他者の力なくして生きていけませんが、それは言わば自転車の補助輪のようなもので、やがて他力なしに自力で生きることが求められます。尤も昨今はいつまでも親のパラサイトから抜け出せない人も少なくないようですが、たとい親の力(経済力)がそれを可能にしても、そこに幸福はないでしょう。多くの人にとって親の庇護の下で暮らす子供時代は幸福な思い出ではあるものの、ずっと子供のままでいることなどできないからです。子供は成長して「自力で生きる大人」にならなければならない。実際、成長とは力をつけることに他ならず、親や教師に代表される他者の支配から独立して、自力で自由に生きられるようになることが要請されます。それが幸福の条件にもなります。とは言うものの、独立して生きるのは楽ではなく、「自力で生きる大人」になるのは実につらいことです。それ故、親であれ他のパトロンであれ、もし誰かの庇護の下で安楽に生きることが可能であれば、それに優る幸福はないと思うのも人情です。寄らば大樹の陰。共同体にしても、なまじ独立国になるよりも、豊かな大国の植民地でいた方が幸福だと思う人もいます。大企業傘下の子会社でいることを望む心情も同様です。現実には、大国は植民地を、大企業は子会社の中小企業をそれぞれ食い物にして自分たちだけが幸福になるのがオチですが、「大きな力を持つ者の下でのみ小さな力しか持てない者も幸福になれる」というのが「全世界の幸福」の一つのパターンであることは間違いありません。そこには確かに力の格差がある。大きな力をもつ者は大きな幸福を、小さな力しか持てない者は小さな幸福を得ます。こうした力の格差を前提にした「世界全体の幸福」こそパラダイスであり、その推進力は資本主義だと考えることができます。勿論、現代社会のパラダイスには様々な難問が渦巻いており、一部の富裕層のみが贅を尽くすことのできる社会はもはや理想ではあり得ません。しかし、一体如何なるオルタナティヴな理想が可能なのか。パラダイスの限界が今や自明であるならば、選択肢は二つしかありません。アルカディアとユートピアです。
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何れにせよ、「力をつければつけるほどより大きな幸福が得られる」という確信がディコンストラクトされない限り、パラダイスの魔力は持続します。例えば、自分は力不足で負け組の悲哀を余儀なくされていても、我が子には力をつけさせて人生の勝利者になって欲しいと望む、という具合にパラダイス願望は遺伝していくのです。自分以上の学歴、自分以上のキャリア、そして自分以上の幸福。ここに見出されるのは一種の成長神話ですが、それを核とするパラダイスの運命については改めて思耕するとして、ここではその対極の理想、すなわちアルカディアについて少し考えてみたいと思います。言うまでもなく、力の成長神話がパラダイスの核だとすれば、アルカディアの核は力の否定です。そもそも始源の楽園として想定されるアルカディアは「無為自然の楽園」であり、人間の自力など完全に無化されています。つまり、自力を発揮する必要などさらさらなく、神の絶対的な庇護の下で自然にあるがままに安楽に暮らしていればいいのです。ただし、そのような言わば絶対他力の楽園は神話の中だけに存在し、しかもそれは必然的に失われる運命にあります。かくして人間の理想は「無為自然の楽園」(アルカディア)から「自力による人工楽園」(パラダイス)へと移行するわけですが、後者の危機的状況は常に前者への回帰を夢見させます。実際、原発問題に象徴されるような人間の自力に絶望した人は、自力が徹底的に否定された絶対他力の世界に憧れます。しかし、果たしてその憧れは未だ自然で満たされるのか。自力の否定ではなく、人間によって破壊された自然を回復する力が求められているとしても、それは自己欺瞞ではないか。今何かと注目されている齋藤幸平氏によればSDGsは現代版「大衆のアヘン」だとのことですが、確かに「持続可能な開発」にはパラダイスに後ろ髪を引かれる中途半端さが感じられます。おそらく、成長神話の克服なくしてパラダイスの超克はあり得ないでしょう。だとすれば、斎藤氏の提言される「脱成長コミュニズム」こそがパラダイスを超克し得るのか。