補足その四:「無力の力」とdeus ex machina
「無力の力」はあくまでも力なのであって、単なる無力とは違う。非力でもない。ハイデガーに即して存在者(Seiende)と存在(Sein)を区別すれば、通常の力が存在者のものであるのに対し、「無力の力」は存在そのものの力だと言える。更に言えば、ティリッヒの言う存在の根柢(the ground of being)は西田における有と無の関係を成立させる場としての絶対無(メー・オンに対するウーク・オン)と通底すると考えるならば、「無力の力」は絶対無の力でもある。例えば、それはラスコオリニコフを大地に接吻させた力だ。しかし問題は、その力は往々にしてdeus ex machinaと見做される点にある。流石にドストエフスキイにその心配はないが、名作「罪と罰」も一つ間違えば三流ドラマに転落する危険性にさらされている。実際、「罪と罰」を犯罪(推理)小説として読むならば、完全犯罪者ラスコオリニコフがオチたのは彼の自白にすぎない。逆に言えば、ラスコオリニコフが自滅さえしなければ、彼の悪魔的な人神論は神人論に敗れることなどなかったのだ。これは「レ・ミゼラブル」におけるジャン・ヴァルジャンの告白についても同様だが、黙っていれば自分の有利に事が進むのに、それにもかかわらず、誰にも強制されないのに、そうせざるを得ない力が働くことがある。その目に見えない力こそ「無力の力」に他ならない。ただし、そこにリアリティがなければ、それはたちまちdeus ex machinaに堕してしまう。両者は紙一重なのだ。