哲学の闘い
「事件は現場で起きている。会議室じゃない!」とは踊る織田裕二の叫びだが、哲学は現場で闘っていると言えるのか。コロナ禍の現在、医療現場に哲学の出る幕はない。医療ドラマと双璧を成す刑事ドラマで描かれる殺人・強盗・詐欺などの犯罪現場でも哲学の出る幕はない。医療現場にせよ犯罪現場にせよ、そこに展開しているドラマは善良なる市民が平穏無事な日常を取り戻すための闘いに他ならない。確かに、社会の急を要する事件は水平の次元で起こっている。貧困や差別といった社会問題の現場は全て水平の次元だ。しかし、その諸問題は水平の次元だけで根源的に解決するのだろうか。病もなく、犯罪もなく、貧困も差別もない社会が水平の次元だけで実現するのだろうか。この問いが哲学にとっての大きな分岐点になる。もし水平の次元だけで事足りると考えるのなら、哲学など不要だろう。しかし、もし水平の次元に生じる諸問題の根源的解決には垂直の次元が不可欠だと考えるのなら、そこから哲学の闘いが始まる。或る意味、哲学は人間の生活に垂直の次元を導入する闘いだと言ってもいい。ティリッヒはそれを「失われた次元の回復」だと称したが、キルケゴールなら「前向きの反復」という逆説的な課題となる。十牛図も然り。見失った牛を再び見出した時、その牛は同じでありながら同じではない。同様に哲学もまた水平の次元における平穏無事な日常を求めるが、前向きに反復された日常は祝祭的に一新される。その一新された日常こそ垂直の次元なのだ。よく宗教は民衆のアヘンだと言われるが、垂直の次元は苦しみに満ちた水平の次元からの逃避の場などではない。それはあくまでも哲学の闘いの現場に他ならない。