神学の闘い | 新・ユートピア数歩手前からの便り

神学の闘い

哲学とは無縁の無学文盲でも宗教を信じている人がいる。恰も宗教が哲学の代用をしているかのように。人生、如何に生きるべきか。人間として本当に生きるとは何か。そうした問いを哲学的に深める必要もなく、すでに宗教がその答えを与えてくれている。人生の意味は宗教の中にある。もしそうなら、美的段階の人は倫理的段階を経験することなく自然に宗教的段階に生きていることになる。極端な話、誤解を恐れずに言えば、所謂未開人にとって倫理も宗教も区別なく、一切は自然の習慣だと言える。非倫理的なカニバリズムだって一つの自然に他ならない。このように美的段階が宗教的段階に直結するのは厳然たる事実だ。その事実を否定するつもりはない。哲学、もしくは倫理的段階の欠如はファシズムなどでもよく見られる光景だ。しかし、美的段階から倫理的段階を経ずに移行した宗教的段階は真の宗教的段階ではない。少なくともキルケゴールがその実存弁証法で問題にした宗教的段階ではない。その区別を明確にするために、倫理的段階での葛藤を不可欠とする宗教的段階を神学と称したい。神学と宗教は違う。とは言え、神学が高尚で宗教は低俗だということではない。ハイデガーなども哲学の神と宗教の神を区別しているが、民衆が心からその前で祈ったり踊ったりすることのできるのは宗教の神であろう。民衆の生きる意味、苦しい日常を耐える力となる「魂の糧」は宗教の神が与えてくれる。それは間違いない。しかし同時に、哲学の神も「魂の糧」となる。宗教の神とは質的に異なる意味で「魂の糧」となる。そこに神学の闘いがある。ただし、その神学は「神の死」の神学でなければならない。ボンヘッファーと共に私は言いたい。神の前で、神と共に、神なしで生きる。