美的段階の闘い
一口に哲学と言っても、様々な分野に及ぶ。そもそも哲学は物事の本質を問うものだから、あらゆるものと結合する。思いつくまま例を挙げれば、科学哲学、経営哲学、教育哲学、建築哲学、医療哲学、芸術哲学…と限りがない。肯定的なものばかりではなく、犯罪哲学とか殺人哲学といった否定的なものと結合する場合もある。しかし、そうした雑多な哲学の中で最も哲学らしい哲学と言えば、やはり人生哲学であろう。すなわち、人間として生きることの本質(意味)を問うことだ。とは言え、キルケゴールに即して人生行路を美的、倫理的、宗教的の三段階に分けて考えれば、美的段階では哲学など見向きもされないので、哲学は美的段階の黄昏から飛び立つことになる。実際、哲学とは無縁の一生を送る人は少なくない。いや、むしろそうした人たちの方が大半なのかもしれない。しかし、どうだろうか。私には美的段階だけで人生を終える人がいるなどとは到底考えられない。それは子供のままで一生を終えることに等しい。それはそれで一つの幸福な人生なのかもしれないが、大人にならずに死んでしまうのは実に勿体ないではないか。確かに美的段階は一種の楽園だが、ヘーゲルに言わせれば、そこはケモノのみが満足して暮らせる楽園にすぎない。「夢見る無垢」とはティリッヒの言葉だが、夢の中で無垢のまま生きることは果たして素晴らしいことだろうか。現実は汚い。夢から覚めて現実に生き始めれば、どうしたって傷つき苦しむことになる。しかし、それが人生ではないか。どんなに美しい夢でもいつかは覚める。いや、覚めなければならない。このSollenから、すでに倫理的段階へと向かう美的段階の闘いが始まっている。