memento mori(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

memento mori(6)

不老と不死はワンセットで理想となる。それが一般的な見解だろう。たとい不死が可能になっても、何もできないヨボヨボ老人になってしまっては生き続ける意味がない。言い換えれば、何でもできる状態があってこそ不死は価値あるものとなる。しかし、「何でもできる状態」とは何か。生まれたばかりの赤ん坊は殆ど何もできない。ヨボヨボ老人の方が未だマシだ。勿論、何もできない赤ん坊はやがて立ち上がり、話すようになり、様々なことができるようになる。それが成長だ。言うまでもなく、心身共に順調に成長しても、人は何でもできるわけではない。また、人それぞれ持って生まれた能力には差があり、自分にできることは自ずと限定され、それに応じて自分の「したいこと」が決まってくる。野球をしたいと思っても、誰もが大谷翔平選手のように投打の二刀流で活躍できるわけではない。尤も、その大谷選手にしても、やがて老いと共に二刀流どころか一刀流さえ覚束なくなるだろう。老いとは成長の停止であると同時に衰退の開始でもある。ただし老いるとは経験を深めることでもあり、その意味では「できること」が増える成長の持続と考えることもできる。若ければ何でもできるわけではない。むしろ若い頃にはできなかったことが老いてできるようになることもある。老いは円熟をもたらす。しかし一般的には、円熟によって得た成果もやがて身体的にできなくなる。体が心についていけなくなるからだ。あるいは、心ではできると思えることに体が反応できなくなる、と言うべきか。従って、老いが円熟という成長の持続だとしても、いつか衰退に転じるのは不可避だと言わざるを得ない。そこに不老を求める人間の魂の必然性がある。しかし、それはあくまでも身体的機能に限られる不老に他ならない。では、そのような不老が可能になれば、不死は我々人間の究極的な理想になるだろうか。私は甚だ疑問に思っている。一般的に望まれている不老不死の理想には決定的な何かが欠けている。