新・ユートピア数歩手前からの便り -82ページ目

「二二が四」の水晶宮としてのパラダイス

「携帯電話なんか持つもんか!」と思っていたのに結局持たざるを得ない状況に追い込まれた。スマホも然り。そして一度(ひとたび)持ってしまえば、もうスマホなしでは生活できなくなる。嘆いているのではない。むしろ、こんなに便利なものがあったのかと喜んでいる。おそらく、今の若者たちはもっと便利かつ高度にスマホを使いこなしているだろう。世の中は本当に便利になった。スマホさえあれば殆ど何でもできる。欲しいものがあればネットで注文すれば簡単に手に入るし、わからないことがあってもすぐに検索すればいい。特にやるべきことがなければゲームを楽しんで退屈凌ぎをすればいい。実に便利で効率的なパラダイスだ。それを可能にしているのは「二二が四」に他ならないが、若者たちは老人の私などには想像もつかないレヴェルでパラダイスを享受しているに違いない。しかし、それにもかかわらず、そんなに幸福そうに見えないのは何故だろう。図らずも私は「マトリックス」という映画を思い出す。若者たちが享受しているパラダイスは洞窟の壁に映る影にすぎないのではないか。

さて、ここまで能天気に書いてきた後で、コロナ禍における若者たちの貧困に関するドキュメンタリイを観た。職を失い、住む処もなくして路上を彷徨い、もう自殺か犯罪しかないという地点にまで追い詰められている若者たち。そして、そうした若者たちの社会復帰を必死に支援している人たちの悪戦苦闘。この現実に直面して私の哲学にどんな意味があるのか。そもそも哲学そのものに意味はあるのか。私はとんでもない勘違いの中で駄弁を弄しているにすぎないのかもしれない。しかし、再び性懲りもなく「善きサマリア人の問題」を蒸し返すことになるが、私は哲学の意味を信じている。確かに哲学は不要不急のものであり、今目の前で貧困に苦しんでいる若者たちに必要なものは食料であり、住まいであり、それらを持続可能にする再就職の斡旋であろう。そのための支援を惜しまない人たちは正に「善きサマリア人」に他ならない。しかし、若者たちの社会復帰とは何か。コロナ禍以前の生活水準を取り戻すことか。そんな筈はないだろう。コロナ禍で社会は一変し、様々な問題が露呈した。もはや元通りになどならないし、なるべきではない。ドキュメンタリイの最後でZ世代の若者たちが自分たちの痛みを乗り越えて新たな社会を求めていくことが暗示されていたが、そこにこそ哲学の必要性が見出されるのではないか。貧困に苦しんでいる若者たちがいる一方で、パラダイスを享受している若者たちもいる。この社会格差に直面して、前者の若者たちもまたパラダイスを目指すのか。言うまでもなく、私は絶望する若者たちを献身的に支援する「善きサマリア人」たちの活動を貶めるつもりなど全くない。ただ、そこにはやはり哲学がなければならないと思うだけだ。哲学へのカイロスは路上にだってある。いや、路上にこそ!

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(10)

爆弾で善良なる市民(かどうかは知らないが)を死傷させたことは非難されるべきだが、カジンスキーの主張とその生き方には共感する人も少なくないだろう。これは最近のドラマにおけるテロリストの描き方にも言えることで、一昔前のテロリストは人々の平穏な生活を脅かす文句なしの極悪人でしかなかった。それが近頃ではそれなりの共感が暗示されるようになっている。すなわち、世界がこれほど腐敗しているのに全く反抗の姿勢さえ示さず、ただ安穏と自分たちだけの個人的な幸福生活に閉じこもっている一般大衆に対する憤り――それを体現しているテロリストへの共感の暗示だ。余談ながら、私は「雲霧仁左衛門」というドラマも好きだが、雲霧の場合は主に私腹を肥やす役人や豪商から大金を、しかも一人も殺すことなく盗み去る華麗な手口にカタルシスを感じる。鼠小僧のような義賊もそうだが、そこには盗みの美学といったものさえある。しかし、どんなにクールでも盗人は盗人だ。義賊に正義を認めるべきではない。だから、この種のドラマでは必ずその対極に実定化された正義を体現する人物が配置される。雲霧にとっては火付盗賊改方の安部式部がそうだ。ちなみに、こうした構図は怪人二十面相と明智小五郎、ルパン三世と銭形警部の関係にも見出されるが、雲霧と安部の関係はより弁証法的だと思われる。と言うのも、両者の心の奥底には互いに対する畏敬の念が渦を巻いているからだ。勿論、雲霧は盗賊以外の何者でもなく、安部にそれを捕縛する自らの職務に寸分の迷いもない。しかし、雲霧のような盗賊がこの世に現れてくる意味は理解できる。雲霧は悪だ。そこに疑問の余地はない。さりとて、自分の上司を含めた世の為政者たちに正義があるとも思えない。むしろ、どうかすると悪でしかない雲霧の方に正義があるように思えることがある。こうしたディレンマはテロリストを描く現代のドラマにもある。つまり、テロリストから政府要人を守るのが警察の職務なのだが、この腐敗した世界を自らの命を賭して変革せんとする誠実なテロリストに比べて、守るべき政府要人の何という醜悪さ!その板挟みで苦悩する人間の葛藤がドラマの中心になる。極端に言えば、もはや勧善懲悪はドラマになり得ない。現代社会ではマドンナとソドムが複雑に絡み合っているからだ。その意味において、テロリスト・カジンスキーの声にも耳を傾けるべきだと私は思う。ただし、あくまでもカイロスを突破口にして。果たして、そこから見えてくるものは何か。近いうちに詳しく分析したいと思っているが、残念ながらどうもユートピアではないようだ。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(9)

「ニ二が四」は石の壁であって、反抗しても仕方がない。そもそも我々は「ニ二が四」の御蔭で日々生活できているのだから、「ニ二が四」を憎んだり恨んだりするのは筋違いというものだ。今日は「ニ二が四」だけど、昨日は「ニ二が三」で、明日は「ニ二が五」になるとしたら、自然法則は無に帰して人間のみならず世界の全てが混乱するに違いない。では何故、地下生活者は「ニ二が四」に反抗するのか。やはり自分でも言うように病的で意地悪な人間にすぎないのか。ちなみに、私は彼が「二二が四、それは死の始まりだ!」と叫んだと思っていたが、少し気になって確かめてみたら、彼は叫んでなどいなかった。地下生活者は次のように淡々と語っていた。

「ところが、諸君、二二が四はもはや生活ではなく、死の始まりにすぎないのである。少なくとも、人間はいつも妙にこの二二が四を恐れていたが、わたしは今でも恐れている。よしんば人間はこの二二が四の発見を唯一の仕事にして、この探求のために大洋を泳ぎ渡ったり、生命を犠牲にしているにもせよ、本当にさがし当てること、発見することは、――誓っていうが、なんとなしに怖いのだ。つまり、発見してしまえば、もうそのときは何もさがすものがなくなる、と直感するからである。労働者なら仕事を終えると、少なくとも金をもらって、居酒屋へ出かけて行き、そのあとで警察のご厄介になる、――これでまあ、一週間ぐらいの暇潰しにはなろうというものだ。ところが、人間はいったいどこへ行ったらいいのだろう? 少なくとも、そういったふうの目的を達するたびに、そのつどなにか具合の悪いところが感じられる。人間は到達を好むには相違ないけれども、しかし、完全に到達してしまうのは考えものなので、これはむろん、恐ろしく滑稽なことに相違ない。手っ取り早くいえば、人間は滑稽にできあがっているのだ。これにはどうやら地口が交っているらしい。しかし、二二が四というやつは、なんといっても、実に我慢のできないしろ物である。二二が四、これなどはわたしにいわせると、ただ人を馬鹿にしたしろ物なのだ。二二が四は、おっちょこちょいのような恰好をして、両手を腰にあてたまま、人の行く手に立ちふさがりながら、ぺっと唾を吐いているという感じだ。二二が四が立派なものだということには、わたしも異存がないけれど、しかしいっそ何もかも賞めることにするなら、二二が五も時によると、愛嬌のあるしろ物なのだ。」

振り返ってみれば、私の大学時代の卒業論文は「倦怠の概念:地下生活者の第一歩」と題するものだった。全く汗顔の至りの駄作だが、ここに私の哲学者としての出発点があることは間違いない。すなわち、私は自分もまた地下生活者の一人であると思い、何とかして地上に出る可能性を主にキルケゴールの不安の概念や絶望(死に至る病)の分析を通じて摸索したのだ。結局、私は人間として本当に生きたいと願ったにすぎない。しかし、「人間として本当に生きる」とは何か。この問いの前に立ちはだかったのが「二二が四」という石の壁だ。地上では多くの人たちが「二二が四」を享受して幸福な生活を送っていたが、私はどうしても馴染めなかった。ちなみに、その頃の私の愛読書はコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』だったが、「二二が四」によって構築された水晶宮の如き理想社会に私の居場所はない感じがした。何故か。「二二が四」は私にとって退屈だったからだ。確かに、「二二が四」は不合理なものを徹底的に排除して、この世界を極めて効率のいい安心安全でキレイな場所にしてくれるだろう。しかし、それが人間にとって本当に理想社会と言えるのか。いや、一つの理想社会であることは厳然たる事実だ。私の分類ではパラダイスだが、それの何が問題なのか。この問いに対する典型的な答えを、私は現代の地下生活者とでも言うべき一人の人物の論文に見出す。それはユナボマーことセオドア・カジンスキーのIndustrial Society and Its Future(産業社会とその未来)だ。彼もまたカイロスにおいて、産業社会というパラダイスの限界を告発する人間の一人に他ならない。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(8)

私は大学の教員ではないし、一冊の著書もないが、自らを哲学者だと思っている。尤も「哲学者」という言葉は厳めしいので、私としては「思耕者」を名乗りたいが、それは人口に膾炙していない言葉なので已む無く「哲学者」と自称する。周知のように、哲学の語源はソフィア(知)を愛することだが、ソフィアとは何か。アリストテレスによれば、知のあり方にはエピステーメー、テクネ―、フロネーシス、ソフィアの四種類あるそうだが、それぞれの違いについての難しい話は哲学史の先生にお任せすることにして、ここでは単に根源的な知の転回だけに注目したい。それは万物のアルケーを知ろうとしたミレトス学派から「汝自身を知れ」という格言によって覚醒したソクラテスへの転回だ。これは通常、自然学から人間学への転回と解釈される。勿論、厳密に言えば話はそんなに単純ではないだろう。ソクラテス以前に人間学がなかったわけではないし、ソクラテス以後に自然学が衰退したわけでもない。むしろ、逆だ。人間を「魔術の園」(Zaubergarten)から解放して近代以降の繁栄に導いたのは主に自然科学の発展であった。実際、現代人の殆どが必要としている知は自然科学によって得られるものだ。具体的には数学や物理学などの理数系の知であり、私はそれを思い切り単純化して「ニ二が四」と称したい。唐突ながら、私は常々自分の洗濯機を実にエライヤツだと感心している。かなり年老いているにもかかわらず、真冬の極寒でも、真夏の猛暑でも、全く正確に働いてくれる。尤も、昨年突然ホースが破裂して驚いたが、そうした経年劣化による損傷は仕方がない。やがて洗濯機本体も経年劣化で働けなくなる悲しい日が訪れるにせよ、今洗濯機を全自動で正確に働かせている「ニ二が四」それ自体は永久に不滅なのだ。言うまでもなく、これは洗濯機以外のあらゆる機械について言えることだ。例えば、身近なものでは自動車にパソコン、それらが故障すると全く憂鬱になるが、そんな時には自動車やパソコンの「二二が四」を知り尽くしている修理人がまるで神様のように見えてくる。機械は全て「二二が四」でできている。いや、機械だけではない。大門未知子の「決して失敗しない」神業の外科手術を見ていると、人体もまた「二二が四」でできていると思わざるを得ない。そのオペは基本的に自動車やパソコンの修理と変わらないからだ。すなわち、損なわれた「二二が四」の回復に他ならない。全く「二二が四」は素晴らしい。あんなに重くて大きい飛行機が空を飛べるのも「二二が四」の御蔭だ。「二二が四」なくして雲をつく摩天楼もあり得ない。世界は「二二が四」によって成り立っている。人間の「生活」も然り。少なくとも一般的な人間「生活」の幸福はその大半が「二二が四」の発見と応用によるものだ。その意味において、パラダイスは「二二が四」によって実現されると言えるだろう。それ故、人々はあらゆる分野に「二二が四」を求めていく。恰もそれが幸福な「生活」への入場券であるかのように。しかし、それにもかかわらず、ドストエフスキイの地下生活者のような人間もいる。彼は叫ぶ、「二二が四、それは死の始まりだ!」と。一体、何が生じているのか。私はそこにカイロスのはたらきを見出す。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(7)

大災害やコロナ禍で「人生」が崩れ去れると、「生活」が剝き出しになる。その剥き出しの生の前では、それ以外の全てが不要不急と化す。「人生」も例外ではない。「人生」を問題にする哲学や文学は贅沢だとされる。確かに、被災地で必要とされるのは一個のおにぎりであって一冊の哲学書ではない。しかし、たとい「生活」が根源的な生の次元であっても、人間が生きる次元はそれに尽きるものではない。むしろ、人間が人間として本当に生きる「べき」なのは「人生」の垂直的次元ではないか。復興において「生活」の再建が優先されるのは当然だとしても、究極的には「人生」の再構築まで辿り着かねばならない。尤も、被災する以前に「人生」があったかどうか、それはまた別問題だ。人々はコロナ禍以前の当たり前の日常を思い出す。親しい友人たちとマスクなしでおしゃべりし、気軽に宴会をしたり旅行に行ったりできた日々――それは今や失楽園での出来事のように思い出される。そこには間違いなく幸福な「生活」の日常があった。しかし「人生」は? 飢えて死んでいく子供に「嘔吐」は無力だ。しかし「嘔吐」は無意味ではない。その不要不急の意味に刮目させるカイロスは必ずある。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(6)

没後二十五年にして発見された遠藤周作の未発表原稿に関するテレビ番組を観た。「影に対して」(元々は「燭影」)と題された作品はほぼ完成していたのに、何故公にされなかったのか。番組によれば、その作品は遠藤自身の父と母の葛藤を描いたものであり、離婚した二人の内実を余りにも赤裸々に暴く結果になったからだ。しかし、ここで問題にしたいのは発表を断念した遠藤の父母に対する個人的感情ではなく、あくまでも遠藤の描いた父母の生き方の違いに他ならない。「生活」を生きた父と「人生」を生きた母――これが遠藤の描いた対比だ。

「生活ではなく人生を」というのが遠藤のキャッチフレーズだったそうだが、「生活」は毎日の日常を当たり前に生きることであり、「人生」は志を持って高みを目指して生きることを意味する。遠藤は更に、こうした対比をアスハルト(アスファルト)と砂浜の対比に準える。すなわち、歩きやすいけれど足跡の残らないアスハルトの道が「生活」であり、歩きにくいけれど足跡の残る砂浜の道が「人生」というわけだ。文学者である遠藤が「人生」を重視するのは当然だが、さりとて「生活」を無視することはできない。そんなことは遠藤も百も承知であり、「生活」と「人生」に引き裂かれる人間の運命はトーマス・マンなど数多くの文学者が取り組んだテーマだ。漱石だって馬鈴薯と金剛石の対比を描いている。結局、こうした対比の根柢に私は「ゾーエー」と「ビオス」の対比を見出す。

さて、番組ではこの作品を読んだ一般の大学生たちの感想を紹介していた。総じて「人生」には憧れるが「生活」を無視することはできない、歩きにくい砂浜を歩きとおせるのは限られた特別な人間であり平凡な一般人はやはり歩きやすいアスハルトの道を選ぶしかない、という月並みなものだった。しかし、果たしてそうだろうか。「人生」へのカイロスは誰にでも開かれている。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(5)

何かがおかしい。この世界に私の居場所がない感じ。それでも私は日々生きている。おそらく明日以降も同様に生き続けるだろう。しかし本当に生きているとは思えない。日々生きているのに本当には生きていないなんて、実に奇妙だ。考えようによってはバチアタリなことかもしれない。しかし、どうも生きていることには二つの次元があるようだ。アガンベンによれば、古代ギリシアには生きていることを意味する二つの言葉があった。「ゾーエー」と「ビオス」。前者は全てのイキモノに共通の「生きている」という単なる事実の表現であり、後者は個々の人間およびその集団に固有の「生の形式」を表現する。これらを僭越ながら私なりに解釈すれば、「ゾーエー」は肉体の糧によって維持される生であり、「ビオス」は魂の糧によって創造される生ということになる。人はパンのみにて生くるにあらず。神の言によって生くるなり。水平の次元で得られるパンが肉体の糧であり、垂直の次元で邂逅する神の言が魂の糧に他ならない。(ちなみに、水平の次元では神の言は得られない。得られるとすれば、それは偶像崇拝の世迷言にすぎない。)果たして肉体の糧と魂の糧、どちらが重要だろうか。これは通常、意味のない問いでしかない。次元の異なるものなど比較仕様がないからだ。人はパンのみにて生くるにあらず。さりとてパンなしでは生きられない。神の言など腹の足しにはならないだろう。しかし、満腹になればそれでいいのか。本当に生きていると言えるのか。この疑問がカイロスを呼び寄せる。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(4)

強くて立派な人間と弱くてダメな人間。前者ばかりではなく、後者にもカイロスは生じる。しかし、ベクトルは正反対だ。強い人間の主体的な決断に生じるカイロスとそれができない人間の弱さを認容する神の恩寵に生じるカイロス。「踏絵など断固拒絶する!」という実存的意志を貫ける強さと「踏んでもいいよ。人間だもの」と人間の弱さを受け容れてくれる神の優しさ。両者共にカイロスをもたらすものの、前者において自らの強さを誇る傲慢に流れればカイロスは台無しになる。後者においても自らの弱さに胡坐をかくようになれば同様にカイロスは消え去る。結局、人間の強さにせよ弱さにせよ、等しくユートピアへの扉の前に立つ可能性があるものの、それは常にディストピアへと転落する危険性にさらされている。強い人間はますます強くなればいいし、強くなりたくてもなれない弱い人間も絶望する必要はない。人生にカイロスは必ず到来する。それを生かすも殺すもその人次第だ。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(3)

カイロスは特別なものではない。誰の日常生活にもフツーに生じる瞬間だと私は言った。その信念は変わらない。しかし、カイロスを意識すること、すなわち垂直的に生きることは未だ一般的ではない。何か宗教的な段階、少なくとも倫理的な段階だと思われている。それが現実だろう。皆が皆、日々立派に生きているわけではない。むしろ日々情に流され、グダグダと生きている。当然のことだ。私も例外ではない。しかし、カイロスは何も立派に生きることの要請ではない。先述したいじめの場合、自分がいじめられるのを覚悟して「やめろ!」と叫ぶことだけがカイロスなのではない。私も含めて、大抵の臆病な人間は見て見ぬふりをする。つまり、踏絵に足をのせてしまう。積極的に踏むのではないにしても、弱さ故に足をのせざるを得ない。しかし、その弱さの現実にもカイロスはある。キルケゴールは殉教の宗教性と認容の宗教性と言った。遠藤周作の名作「沈黙」に即して言えば、決然と踏絵を拒絶して立派に殉教できる強さにだけカイロスが見出されるのではない。どうしても踏絵を拒絶できずに棄教してしまう弱さにもカイロスはある。勿論、そうした二つのカイロスは質的に全く異なる。キルケゴールに即して、前者は宗教性A、後者は宗教性Bにそれぞれ基づくものだと言えるだろう。ただし、両者の質的差異を実定化するべきではない。それは何れのカイロスの堕落にも繋がる。不可避の道ではあるけれども。

カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(2)

ユートピアは水平的には「どこにもない場所」だが、垂直的にはいつどこでも我々の生きる水平的現実を雷光のように切り裂く。それは我々の水平的な日常生活に聖なる垂直の次元が受肉する瞬間だと言ってもいい。こんな理屈っぽい言い方をすると何か特別な人にのみ生じる瞬間のように思われるかもしれないが、それは全くの誤解だ。もとよりカイロスは水平的に流れるクロノスとは質的に異なるが、例えば学校で誰かがいじめられている現場に遭遇する時、あるいは会社で理不尽な業務を余儀なくされる時、その瞬間は誰にでも訪れる。そこでなにを為すべきか、自ずと良心の呼び声が聞こえてくる。触らぬ神に祟りなし。いじめも不正も見て見ぬふりをすることもできる。その方が個人的には水平的なクロノスが平穏無事な時を刻んでいくだろう。しかし、たとい災いが必至だとしても、それを承知で敢えて平穏無事な時を切り裂く決断をするならば、その瞬間がカイロスとなる。そして、そうしたカイロスの時熟と共にユートピアが現実の場所となっていく。勿論、それは目に見えない「どこにもない場所」であることに変わりはない。しかし、垂直的にはある。不可視の現実として確かにそこにある。