カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(8)
私は大学の教員ではないし、一冊の著書もないが、自らを哲学者だと思っている。尤も「哲学者」という言葉は厳めしいので、私としては「思耕者」を名乗りたいが、それは人口に膾炙していない言葉なので已む無く「哲学者」と自称する。周知のように、哲学の語源はソフィア(知)を愛することだが、ソフィアとは何か。アリストテレスによれば、知のあり方にはエピステーメー、テクネ―、フロネーシス、ソフィアの四種類あるそうだが、それぞれの違いについての難しい話は哲学史の先生にお任せすることにして、ここでは単に根源的な知の転回だけに注目したい。それは万物のアルケーを知ろうとしたミレトス学派から「汝自身を知れ」という格言によって覚醒したソクラテスへの転回だ。これは通常、自然学から人間学への転回と解釈される。勿論、厳密に言えば話はそんなに単純ではないだろう。ソクラテス以前に人間学がなかったわけではないし、ソクラテス以後に自然学が衰退したわけでもない。むしろ、逆だ。人間を「魔術の園」(Zaubergarten)から解放して近代以降の繁栄に導いたのは主に自然科学の発展であった。実際、現代人の殆どが必要としている知は自然科学によって得られるものだ。具体的には数学や物理学などの理数系の知であり、私はそれを思い切り単純化して「ニ二が四」と称したい。唐突ながら、私は常々自分の洗濯機を実にエライヤツだと感心している。かなり年老いているにもかかわらず、真冬の極寒でも、真夏の猛暑でも、全く正確に働いてくれる。尤も、昨年突然ホースが破裂して驚いたが、そうした経年劣化による損傷は仕方がない。やがて洗濯機本体も経年劣化で働けなくなる悲しい日が訪れるにせよ、今洗濯機を全自動で正確に働かせている「ニ二が四」それ自体は永久に不滅なのだ。言うまでもなく、これは洗濯機以外のあらゆる機械について言えることだ。例えば、身近なものでは自動車にパソコン、それらが故障すると全く憂鬱になるが、そんな時には自動車やパソコンの「二二が四」を知り尽くしている修理人がまるで神様のように見えてくる。機械は全て「二二が四」でできている。いや、機械だけではない。大門未知子の「決して失敗しない」神業の外科手術を見ていると、人体もまた「二二が四」でできていると思わざるを得ない。そのオペは基本的に自動車やパソコンの修理と変わらないからだ。すなわち、損なわれた「二二が四」の回復に他ならない。全く「二二が四」は素晴らしい。あんなに重くて大きい飛行機が空を飛べるのも「二二が四」の御蔭だ。「二二が四」なくして雲をつく摩天楼もあり得ない。世界は「二二が四」によって成り立っている。人間の「生活」も然り。少なくとも一般的な人間「生活」の幸福はその大半が「二二が四」の発見と応用によるものだ。その意味において、パラダイスは「二二が四」によって実現されると言えるだろう。それ故、人々はあらゆる分野に「二二が四」を求めていく。恰もそれが幸福な「生活」への入場券であるかのように。しかし、それにもかかわらず、ドストエフスキイの地下生活者のような人間もいる。彼は叫ぶ、「二二が四、それは死の始まりだ!」と。一体、何が生じているのか。私はそこにカイロスのはたらきを見出す。