memento mori(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

memento mori(9)

もはや誤解はないと思うが、ユートピアは不老不死の理想を求めるものではない。それはむしろパラダイスの専売特許の理想だ。神話に遡れば、エデンが不老不死の楽園だったかもしれないが、我々の始祖が知恵の木の実を食したせいで人間はそれを失ってしまった。パラダイスはその失われた楽園を科学技術の力で回復しようとする。それは言わば、知恵の木の実の力で生命の木の実まで手に入れようとする試みだと解することができる。神に対する悪魔的反逆とさえ見做されかねない試みではあるが、実際に人間の寿命は伸びている。かつての不治の病も治るようになっているし、アンチエイジングの薬も次々と開発されている。加えて整形手術に遺伝子工学、更にはロボットやサイボーグなど、不老不死は単なるSFではなくなりつつある。しかし、不老不死のパラダイスが実現するとして、それが我々にとって究極的な理想足り得るだろうか。

私は先に「いつまでも生き続けたい」という不死の希望は「幸福な時間」の持続を核とすると述べた。不老によって若い頃のような欲望の充足がずっと続くならば、それは確かに幸福なことだろう。百歳を越えても若い頃と同じように人生を楽しめるパラダイス。しかし、そうした「幸福な時間」の持続は本当に生きるに値するものだろうか。私には何だか延々と続く金太郎飴のようで退屈なものだ。とは言え、私は何も人間の欲望を全て味わい尽くしたわけではない。当然のことだ。未だ知らない美味、見たこともない美しい光景、そして次々と生み出される刺激的な娯楽(ゲーム)の数々…。それらを不死身で永久に味わい続けることのできるパラダイスは多くの人にとってこれ以上ない理想に思えるかもしれない。それが自然や他者を犠牲にする(もしくは一部の特権者のみに許される)理想でない限り、私にパラダイスの否定を他者に強要する権利などはない。しかし、私自身はパラダイスに至上の理想を見ることはない。たとい不老不死の理想であっても、水平的な快楽の限りない持続は畢竟「同一物の永劫回帰」に収斂していく運命にあるからだ。ニーチェはそこに「ニヒリズムの極限形式」を見出すが、私にとってのパラダイスも同じだ。端的に言えば、パラダイスは退屈極まりない。そこで不老不死の身を得ても、生を真に充実させることは望めない。パラダイスには垂直の次元が欠けているからだ。