ユートピア活動(2)
イマドキの若者たちを目にすると無性に苛立つことが多くなった。これは明らかに私が紛れもない老人になった証だが、この苛立ちは一体何か。失われた若さへの羨望の裏返しか。確かに、それもあるだろう。しかし、それだけではない。むしろ、イマドキの若者たちが本当の意味で若くないこと、あるいは若さを主体的かつ情熱的に使用していないことに私の苛立ちの根があるように思われる。勿論、全ての若者たちを「イマドキの若者たち」という言葉で一括りにすることは乱暴すぎる。事実、「イマドキの若者たち」ではない若者たちもたくさんいるだろう。陽キャラもいれば陰キャラもいる。甲子園を目指す高校球児のような青春の王道を往く者もいれば、帰宅部のような青春の裏道を彷徨う者もいる。しかし、前者の元気ハツラツの若者たちでさえ、かつての若者たちほどの若さは感じられない。ワカモノはバカモノに通じるとよく言われるが、理に反する無鉄砲なことをするのが若さの特権ではあるものの、本当の若さには別の次元が必要になると私は思う。それは、三島の言葉を借りて言えば、「生命尊重以上の価値」が問われる次元だ。しかし、それは今や「失われた次元」でしかない。至る所で健康第一が叫ばれ、それが常識となっている。若さの象徴である甲子園でも投手の球数制限が常識となり、選手の健康を害するようなことは極力排される。こうした風潮が悪いわけではない。むしろ、正しい。母校のため、郷土のため、肩を壊すまで連投に連投を重ねることが美談とされるようなかつての風潮の方が狂っている。しかし、若さには一種の狂気も必要ではないか。正気の人にとって、野球などに「生命尊重以上の価値」がないことは明らかだ。いや、この世界の如何なるものにも「生命尊重以上の価値」など認めないことが正気の証、すなわち健全な人間の常識なのだろう。しかし、それにもかかわらず、そうした常識に私はどうしようもない苛立ちを覚えてしまう。そして、この世界に「生命尊重以上の価値」を認めようとする狂気を求める。そうした狂気にこそ真の若さがあると信じているからだ。当然、狂気は正気の世界を破壊する凶器となる危険性を常に孕んでいる。しかし、その現実と対峙し続けることに若さの意義もあるのではないか。健康第一の正気の若さはやがて老いていくが、「生命尊重以上の価値」を求める狂気の若さは決して老いることがない。その若さがユートピア活動の原動力となっていく。