新・ユートピア数歩手前からの便り -77ページ目

ダス・ゲマイネ

ここに自殺を考えている人がいるとして、どうしたらその死を思いとどまらせることができるだろうか。尤も、考えている人は滅多に死ぬことはないし、そもそも死を思いとどまらせることが正しいかどうかさえよくわからない。かつて椎名麟三は死のうと思うことと実際に死んでみせることとの間には無限の深淵があると語っていたが、それはキリーロフのドタバタ劇を見ても明らかだろう。おそらく、論理的自殺など殆どあり得ないのではないか。しかし、通俗的に言えば、人は実に頻繁に自殺する。他のイキモノでは到底考えられないことだ。どんな人間でも例外なく、どうせいつかは必ず死ぬ運命なのに、どうしてわざわざ死期を早める必要があるのか。想定される必要は唯一つ、苦痛の滅却、それしかない。失恋、失業、その他様々な失敗、もしくは病気や怪我によって、その状態で生き続けるのが堪らなく苦痛となり、人は「もう死んだ方がマシだ!」と思うに至る。私は死んだことがないので「死の苦痛」を知らないが、もし安楽死が法的に許されるなら、それを希望する人は結構いるのではないか。無差別殺人をする輩もその動機を訊かれて「自分では死にきれないので、死刑にしてもらおうと思って…」などと答えている始末だが、安楽死が可能であればそうした理不尽な犯罪もなくなるに違いない。しかし、自殺にせよ、安楽死にせよ、なんと通俗的な死だろう。マイナスの苦痛はプラスに転じれば幸福になるのか。それもまた実に通俗的な人生観ではないか。殺されても死なない何か。本当の問題はプラスから始まる。

観想と活動、もしくはマルタとマリア

「新しき村は駆け込み寺ではない」という認識は根源的に改めるべきだとしても、駆け込み寺に終始するわけにはいかない。逃げ場は一時的な避難所でしかなく、そこを真の居場所にするためには何かが必要になるからだ。その何かについて思耕していると、「新しき村は修道院のようになるべきだ」という或る長老の言葉が思い出された。率直に言って、その言葉を初めて聞いた時、私には違和感しかなかった。それは新しき村の本質の半分しか言い表していないと思ったからだ。新しき村は内向的運動に尽きるものではない――そんな反論もしたように覚えている。しかし、修道院は内向的運動に尽きるものではなかった。成程、修道院は世俗からの逃げ場だと考えるのが一般的だが、それに尽きるものではない。渡辺優氏によれば、修道院には「観想修道会」と「活動修道会」がある。前者は静謐な空間で神に祈りを捧げることを重視し、後者は修道院の外に出て司牧や宣教することに専念するらしい。おそらく、こうした観想と活動は分離して考えるべきではなく、むしろ一つの運動の往相と還相として理解すべきだろう。とは言え、そこには自ずと優先順位が生まれてくる。渡辺氏は次のように述べている。

「観想的生(bios theoretikos)と活動的生(bios praktikos)というアリストテレス的区分に立つギリシア人たちにとって、前者は社会的日常から離れたところで究極的真理の観想を目指す哲学者の生であり、後者はポリスにおいて日常生活を営むその他市民たちの生であって、前者が後者に優越すると考えられていた。他方、キリスト教教理の基盤を築いた古代教父たちは、神愛と隣人愛とは不可分であると考えたが、観想的生が活動的生に優越するというギリシア哲学に、神愛がより霊的で卓越した愛であるという論拠を認めたのである。」

興味深いことに、こうした「神愛に対する隣人愛の、観想に対する活動の劣位という理解」の聖書的根拠が「マルタとマリア」に見出されていることだ。引き続き、渡辺氏の解説。

「イエスへの給仕に忙しく動きまわる姉マルタの姿が活動的生に重ねられる一方、イエスの足元に座り込んでその話にじっと耳を傾ける妹マリアの姿が観想的生に重ねられた。そして、マリアにも給仕を手伝うよう求めるマルタの言葉へのイエスの返答「マリアは良いほうを選んだ」が、観想的生の優位を示す神の言葉として解釈されてきたのである。」

しかし、どうだろうか。観想的生は本当に活動的生に優るのだろうか。エックハルトはむしろ、神のために活動するマルタにこそ理想の境地があると解釈しているそうだが、我々もこの点について更に深く思耕せねばならない。観想か活動か。マリアかマルタか。新しき村はその稜線上を歩む。

テッパチ!

相変わらずのドラマ中毒で、現在放送中のドラマにはほぼ全て目を通しているが、その中に「テッパチ!」がある。テッパチとは自衛隊のヘルメット(鉄鉢=鉄帽)のことらしく、ドラマの舞台は陸上自衛隊だ。ウィキペディアによれば、「全てのものに見限られ、刹那的な人生を生きてきた若者が陸上自衛隊の自衛官候補生となり、過酷な訓練を受けながらも、大切な仲間と出会い、友情を育んでいくことで、人との繋がりの大切さを体現していく姿を描く」というもので、典型的なビルドゥングスロマン(Bildungsroman)だと思われる。ドラマはワケアリの自衛隊教官が歌舞伎町のような繁華街を様々な理由で彷徨っている若者たちに声をかけることから始まる。若者たちの彷徨う理由は様々でも、行き場がないという現実は共通している。このシーンを私は深い関心を以て観た。かく言う私も若い頃、同じような経験をしたことがあるからだ。

大学に入ったものの、幼い頃からの夢だった野球に挫折して、私は完全に行き場を失っていた。他のスポーツに新たな行き場を求めたりしたが、結局は無駄だった。そのうちに野球が自分の本当の居場所であったかどうかさえ疑わしくなり、全ては世間の評判(価値観)に踊らされていただけだと思うようになった。では、私本来の居場所とは何か。考えれば考えるほど訳が分からなくなって、私は街を彷徨った。おそらく、「テッパチ!」の若者たちと同様にひどく虚ろな目をしていたのだろう。そんな目をしていたせいか、梅雨空の昼下がり、初老の紳士が突然私に声をかけてきた。「学生さんでしょう。こんな時間に何をしているんですか」私服警官の職質だと思った私は、別にやましいことなど何もなかったが反射的に身構えた。しかし、男は実に柔和な表情で自分は自衛官だと言った。

数多のキャッチセールスの場合と同様に、いつもなら「急いでいるんです」と言って足早に立ち去るのに、その時の私はそうしなかった。何故だろうか。男の柔和な表情が「私は君のように街を彷徨っている若者たちを何人も知っていますよ」と語りかけていたせいだろうか。私は誰かに自分の苦悩を聞いて欲しかったのかもしれない。加えて、私には自衛隊に対する漠然とした関心があった。私は幼い頃からずっと野球バカで、野球マンガかベースボールマガジン社の本しか読んでいなかったが、たった一人、気になる文学者がいた。三島由紀夫だ。と言っても、彼の小説など一冊も読んだことはなく、ただ彼の自衛隊での割腹自殺、とりわけその際に発せられた檄文の中の「今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」という言葉にシビレたにすぎない。その衝撃的な事件は私が中学生の頃の出来事であり、野球バカの私はすぐに忘れて再び野球に没頭したが、「生命尊重以上の価値」という言葉は無意識の裡に深く胸に刻まれていたのだと思う。それが野球の挫折によって静かに意識に浮上してきたのだ。

男は自衛隊の魅力と存在意義について熱心に語り、私はそれに真摯に耳を傾けた。私は大いに迷った。自衛隊のパンフレットと男の連絡先を手渡されて別れる時、私は半ば自衛隊への入隊を決意さえしていたように思い出す。自衛隊もしくは国防に「生命尊重以上の価値」があるような気がしたからだ。しかし、それにもかかわらず、結局私は自衛隊に行かなかった。自衛隊に「私本来の居場所」を見出すことはついにできなかった。何故か。やはり違和感を拭い去れなかったからだ。それは三島ファンとして足を運んだ憂国忌の集会に対する違和感と同様だった。自衛隊と同列に語るのは問題があるが、右翼団体に対する違和感もそうだ。身を棄つるほどの祖国はありや。私には三島の「生命尊重以上の価値」に匹敵する言葉がもう一つあった。それはキルケゴールの「自分がそのために生きかつ死ぬことができる主体的真理」という言葉だ。自衛隊ではなく、私は主体的真理を求める哲学を自分の「この道」として選んだ。それが正しい選択であったかどうか。あの時、テッパチの仲間になる決断をしていたら、私の人生はどうなっていただろう。そんなことを考えながら、1.75倍速でドラマを観続けている。

逃げ場について

障害のある赤ちゃんの特別養子縁組も赤ちゃんポストも逃げ場にすぎない。少なくとも、それ自体が根源的解決をもたらすようなものではない。しかし、逃げ場は必要だ。育児放棄や遺棄された赤ちゃんだけではなく、風俗業に身を落とすしかない少女や反社会的集団に転落するしかない少年その他、行き場を失った人間には逃げ場は不可欠だと思われる。この世に逃げ場がなければ、あの世に逃げ場を見出すしかないだろう。しかし、あの世を最終的な逃げ場とする前に、我々には未だ為すべきことがある。それがユートピア活動なのだが、我々が再生しようとしている「新しき村」は取り敢えず逃げ場であってもいいと私は思う。実際、私が村で生活していた当時でも、村に逃げ場を求めて流れてきた人は少なからずいた。しかし、そうした人たちはことごとく「新しき村は駆け込み寺ではない!」と一喝されて追い返されてしまった。確かに、「新しき村」の本質が逃げ場にないことは事実だ。また、当時の村には逃げ場となるだけの精神的・経済的余裕がなかったと言われれば、その通りだ。しかし、ユートピア、すなわちどこにもない場所はそもそも苦しい現実世界からの逃げ場ではなかったか。浄土も然り。ただし、逃げ場は空想の産物であってはならない。空想としてのユートピアの現実化、すなわち逃げ場を真の居場所にすることが「新しき村」の課題だと言えよう。考えてみれば、世の中は様々な逃げ場で溢れている。先述の風俗業や反社会的集団もそうだが、各種の駆け込み寺としてのNPOから場末の居酒屋、ゲームセンター、ホームレスの溜まり場まで、正にピンからキリまである。行き場を失った人間の苦悩を誰よりも切実に抱いていたラスコオリニコフは殺人に逃げ場を見出した。これ以上の悲劇はないが、それは今でも現実に繰り返されている。「新生・新しき村」はそうした悲劇と真摯に向き合い、正当な逃げ場となることから再出発しなければならない。真の居場所づくりはそれからでいい。

極道と中道

善きサマリア人の次善のユートピアではなく、私はあくまでも究極的なユートピアを求めたい。そもそも善きサマリア人自身が自らの存在意義に悩み始めるのではないか。善きサマリア人はその精神に忠実であればあるほど、人間を根源的に救えない現実に直面せざるを得ない。根源的な救済のためには根源的な思耕が不可欠だ。そして、根源的な思耕は実践の現場からの離脱を余儀なくさせる。実践か観想か。深い葛藤の末、善きサマリア人は根源的苦悩の思耕者になる。しかし、思耕者になったところで、根源的苦悩を滅却できるわけではない。生きている限り、苦悩は続く。たとい苦悩の滅却という個人の悟達を得たとしても、それは人生の往相にすぎず、世界全体の苦悩への没入という還相なくして真の悟達はあり得ない。「重要なのは、病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」とはカミュの言葉だが、実践と観想は螺旋的に循環するものと考えるべきだ。そこに水平と垂直の婚姻がある。善きサマリア人は根源的思耕者となり、根源的思耕者は再び善きサマリア人になる。善きサマリア人と根源的思耕者の中道こそがユートピアの道を極めるのではないか。中道こそ極道、端的にそう言ってもいいだろう。少なくとも、中道は中途半端な道などではない。もし善きサマリア人が次善のユートピアに甘んじるならば、それは中途半端な道であって断じて中道ではない。中道は道を極めなければ得られない。

補足 祝祭共働態の二律背反:最適社会とコミューン

障害のある赤ちゃんの特別養子縁組は赤ちゃんポストと同様に次善策でしかない。そんな「逃げ場」をつくるから赤ちゃんを放棄するバカ親が跡を絶たないのだ――そういう批判もあるだろう。確かに、「赤ちゃん放棄」という犯罪そのものの根絶を可能にする原理の構築、それこそが最善策であるべきだ。しかし、それは往々にして机上の空論と化し、最善策をあれこれ摸索している間にも「赤ちゃん放棄」は已むことがない。とすれば、それは実質的に「赤ちゃん放棄」を野放しにしていることに等しい。次善策は根源的解決をもたらさないが、少なくとも目の前の赤ちゃんを救うことはできる。それで充分ではないか。全知全能ではない無力な人間にできるのはそれくらいしかない。そこに善きサマリア人の精神もある。私はその精神を尊重したい。できれば自らもその精神を持ちたいと思う。世の中には、赤の他人が遺棄した障害児を自分の養子にするような善きサマリア人たちが少数ながら存在する。それは人間の希望であり、私は心から尊敬する。しかし、――と私は思わずにはいられない。全世界の人間が善きサマリア人になれば、そこに理想社会は実現するのだろうか。

善きサマリア人は目の前で苦しんでいる人の救済に全力を尽くす。それは正しい。疑問の余地はない。しかし、善きサマリア人は人間の根源的苦悩を解くことができない。例えば病の場合、私は以前に医学における臨床と研究について考えたことがあるが、病の根絶のためには臨床と研究の両輪が必要になる。勿論、両者を二元論的に分離することはできず、むしろ深く相即していると考えるべきだろう。しかし、一人で両者を徹底させることは不可能であり、現実にはそれぞれ自立した分野になる。同様に、目の前で苦しんでいる人に寄り添う善きサマリア人と人間の根源的苦悩について思耕する人は独自の方向性を持つことになる。そして、それぞれの方向性は二つの理想社会のヴィジョンとなる。私はその二つのヴィジョンを真木悠介氏の言う最適社会とコミューンの差異と重ね合わせたい。

真木氏は「特定の人々ではなく全ての人々にとっての理想社会」を構想するという課題に取り組んだ。その場合、全ての人間にとって望ましい世界という理念の要請と人間たち相互の欲求の背反性という現実の認識との間の矛盾を解決する二つの方式として、次のような最適社会とコミューンについて述べている。

最適社会:欲求の背反性の合理的な調整に志向する型のユートピア

コミューン:欲求の背反性の原理的な否定に志向する型のユートピア

鄙見によれば、善きサマリア人は前者を目指し、根源的苦悩の思耕者は後者を求める。これはどちらが正しいという問題ではない。それに、真木氏によれば、最適社会は「管理社会」に、コミューンは「スターリニズム的抑圧」に帰着する危険性を孕んでいる。我々が直面しているのは「あれか、これか」ではなく、「あれでもない、これでもない」という問題だろう。それは祝祭共働態の二律背反と通底している。全世界の人間が善きサマリア人になれば、そこには理想社会が実現するかもしれない。しかし、それはやはり次善のユートピアでしかない。

祝祭共働態の二律背反(10)

この便りは殆ど誰にも読まれていないので思いつくまま勝手なことばかり書いているが、私には常に「自分の思耕の方向性は根源的に間違っているのかもしれぬ」という危惧がある。それは「善きサマリア人への疑念」と逆対応するものであり、私が求めている祝祭共働態の本質に深く関わることだ。結局のところ私は、「始源の無垢」を超克する「生成の無垢」によって、子供の「無垢の歌」と大人の「経験の歌」の対立を止揚する方向に祝祭共働態の実現を見ているが、そこに何か極めて重要なものが欠落しているような気がしてならない。その何かが私の不安を募らせる。

余談ながら、私は先日「おうちへ帰ろう:障害のある赤ちゃんの特別養子縁組」と題するETV特集を観た。大江健三郎の「個人的な体験」もさることながら、見ず知らずの夫婦の障害のある赤ちゃんを自分の養子にするなど一般の常識を超えている。最近の医学では胎児の段階で障害の有無が判明するらしいが、我が子の障害の可能性を告げられた夫婦は如何なる決断をするか。容易な決断でないことは言うまでもない。「子供はどうしても欲しいが、私たちが育てたいのはふつうの赤ちゃんなのです」という声が紹介されていたが、この本音を非難することなど誰にもできない。少なくとも、結婚をしたこともない、子供を持とうとしたことさえない私に非難することはできない。できないけれども、それにもかかわらず、その本音は徹底的に批判されねばならないと私は思う。「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称しがたい。しかし、とにかく一部を成している」とは芥川龍之介の言葉だが、人はふつう「落丁の多い書物」など買わない。当然のことだ。万一買ったとしても、すぐに落丁のない「ふつうの書物」に取り替えるだろう。どの書物にも「落丁本・乱丁本はお取り替えします」と明記してある。しかし、人生が書物だとするなら、たとい落丁本・乱丁本であっても、我々はそれを買わねばならない。勿論、落丁や乱丁が生じないように細心の注意を払うことが先決であり、もし生じたら可能な限り修繕を試みる必要はある。しかし、書物の場合は修繕よりも新品に取り換えることの方が当然でも、人間の場合は違う。落丁や乱丁のある赤ちゃんを授かったなら、その修繕を望むことはあっても、断じて新品に取り替えることを考えてはならない。それは胎児の段階においても言えることだ。落丁や乱丁のある本は書物とは言えないが、落丁や乱丁のある赤ちゃんは人間なのだ。――と偉そうに批判しても、現実には何の力にもならないだろう。人間も書物と変わらず、不良品は新品に取り替えた方がいい。それが自然の情なのだ。

さて、どうも横道に逸れがちだが、ここで問題にしたいのはそうした障害のある赤ちゃんを放棄する人たちの徹底批判ではない。その批判もさることながら、様々な葛藤の末に放棄された他人の赤ちゃんをわざわざ自分たちの養子にする人たちがいるという現実をこそ問題にしたい。勿論、そうした特別養子縁組を望む人は極めて少数にすぎない。いくら不妊治療をしても子宝に恵まれない夫婦が養子縁組に活路を見出すことはあっても、やはり求められるのは「ふつうの赤ちゃん」だ。まさか商品のように等級があるわけではないだろうが、実質的にはペットショップでの買い物と同様の感覚があるのではないか。すなわち、「少しでも可愛くて、従順なモノがいい」という感覚だ。こうした感覚からは障害のある赤ちゃんの特別養子縁組など絶対に理解できない。露骨な言い方をすれば、どうしてわざわざ不良品を買うようなことができるのか。それも自分が生み出した不良品ならまだしも、他人が生み出し、他人が放棄した不良品を買うことができるのか。考えられることは唯一つ、その人にとって障害のある赤ちゃんは不良品などではないからだ。それは商品でさえない。人間なのだ。生きている人間なのだ。生きている以上、放棄することはできない。それは自分の子か他人の子かとか、更に言えば人間かそれ以外の生物か、ということなど関係ない。生きているものは放棄できない。唯それだけのことだ。私はそこに祝祭を見る。根源的な祝祭を見る。

こんなことを言えば私の人格を疑われるかもしれないが、私は時に知的障害のある人を羨ましく思うことがある。その人たちはいつも「全肯定の青空」を見ているような気がするからだ。晴れの日は言うに及ばす、雨の日でも曇りの日でも常に「全肯定の青空」だけを見て生きているように思われる。勿論、これは知的障害の実情を知らぬ者の勝手な妄想にすぎない。それに「そんなに羨ましければ、実際にお前が知的障害を持てばいいじゃないか」と言われるだろう。全くその通りだ。私に反論の余地はない。しかし、話を障害のある赤ちゃんの特別養子縁組に戻せば、障害のある赤ちゃんを受け容れた家庭は確かに祝祭空間だと言える。そんなキレイゴトだけでないことはよくわかっているつもりだが、障害のない我が子たちも含めて、正に家族全員一丸となって障害のある赤ちゃんを育てていこうとする共働態の在り方は祝祭としか言いようがない。ただし、それは私が求めてきた祝祭共働態ではない。そこには発展がないからだ。共生はあっても、人間を歴史的に高めていく発展がない。しかし、祝祭に発展が必要だろうか。発展を求めれば自ずと競争が生まれ、結果的に共生を台無しにするのではないか。どうも祝祭共働態をめぐる私の不安は終わりそうにない。

祝祭共働態の二律背反(9)

ツァラトゥストラは精神の三態を語った。駱駝・獅子・子供だ。その三態を弁証法的に理解しようとすると、人間の成長過程を逆行することになる。従って、これは螺旋的に循環するものと考えるべきだろう。すなわち、駱駝以前に子供の状態があり、人間は子供から駱駝へ、駱駝から獅子へ、そして再び子供になるという運動だ。人間は最初から駱駝として生き始めるのではない。少なくとも、赤ん坊に背負うべき重荷はない。厳密に言えば、色々とあるだろうが、それは未だ自覚されていない。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑っていればいい。総じて赤ん坊は身体的欲望が満たされれば幸福だろう。言うまでもなく、そんな幸福は永続きしない。「始源の無垢」は必然的に破綻する運命にある。そして、子供は自分が駱駝であることを意識し始め、やがて親や教師が求める「良い子」という規範が重荷になる。そのまま重荷に耐えて「良い社会人」に成長するのもいいだろう。人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し。堪忍は無事長久の基。「良い社会人」にはそれなりの幸福が約束される。しかし、それは所詮「鎖につながれた幸福」ではないか。勿論、「鎖につながれているからこそ人間は幸福でいられる」という論理もある。大審問官の論理だ。しかし、そうした他律的な幸福に反抗を試みる人は(少数かもしれないが)、自律的な幸福を求めて闘う獅子になる。鎖を引きちぎって真に自由な人生を求める。結果、どうなるか。獅子の求める自律的な幸福とは何か。競争に勝ち抜いて頂上に一人立つことか。それもいいが、私には駱駝の幸福と獅子の幸福の差異がよくわからない。そもそも獅子は本当に鎖を引きちぎったと言えるのか。ヘーゲルによれば、他律と自律の違いは命令する主人が外にいるか内にいるかの違いにすぎない。もし駱駝も獅子も律という鎖を引きちぎれないとすれば、何がそれを実現するのか。ツァラトゥストラはその可能性を子供の「生成の無垢」に見出す。しかし、この人間が究極的に辿り着くべき子供の「生成の無垢」は「始源の無垢」とどう違うのか。祝祭共働態の実現はその差異にかかっている。

祝祭共働態の二律背反(8)

「全肯定の青空」を私は見たことがある。小学四年生の初夏、土曜日の午後のことだ。私は親しい友人たちと近くの岩山へ行った。その麓まで自転車で行き、そこから頂上に誰が一番先に辿り着くかを競った。結果、かなりの差をつけて私が勝った。誰もいない静かな頂上の大きな岩の上に大の字になって、雲一つない空を見た。吸い込まれるような青だった。遠くから小鳥のさえずりだけが聞こえてくる。私には何の憂いもなかった。未だ受験勉強など頭の片隅にさえなく、毎日友人たちと好きなことをして遊んでいればよかった。しかし、それが最初で最後だった。それ以来、私は一度も「全肯定の青空」を目にしたことがない。

さて、ランボーも「海と溶け合う太陽」という永遠を見たことがあるようだが、それも一度きりではなかったか。そして、その失われた永遠をもう一度見るために、彼は詩人になった。ランボーにとって詩人になることは「見者」(voyant)になることであり、それは「あらゆる感覚の長く無制限な論理的錯乱」によって未知に到達することに他ならない。その未知こそ永遠だと私は思う。「全肯定の青空」も然り。子供にしか見ることのできない「全肯定の青空」を大人は金輪際見ることができない。しかし、それにもかかわらず、人間は大人になっても「全肯定の青空」を見たいと思う。そこにキルケゴールの言う「願いのディアレクティク」がある。キルケゴールの言葉を三土興三の「酔歌」から引用する。

「願ひを棄てることはもとより偉大である。しかし諦め棄てての後に、更にその願ひを固持することはより一層偉大である。永遠なるものを把握するのは偉大である。しかし時間的なるものをば、それを棄てて後に、なお確保することは更に偉大なることである。」

何れにせよ、私の願いは「全肯定の青空」をもう一度見たいというものであった。その二律背反を孕んだ願いは如何にして叶うのか。ランボーは「見者」の道に進み、キルケゴールは信仰に飛躍する。祝祭共働態は全く新しい「この道」を摸索する。

祝祭共働態の二律背反(7)

フィリップ・アリエスによれば、「純真無垢な子供」という理念は近代の産物であり、それ以前に「子供」は何ら特別な存在ではなかった。おそらく、アリエスは正しい。「子供が大人になる」ことは「オタマジャクシがカエルになる」ことに等しく、そうしたイキモノの成長過程は不可逆なものだ。カエルはオタマジャクシに戻れない。そもそも戻ろうなどとは夢にも思わない。イキモノとしてのヒトも全く同様で、肉体的成長のベクトルを逆転させることは不可能だ。しかし、人間は違う。人間は時に「子供」に戻りたいと思う。もう一度、「子供」のように純真無垢に生きたいと願う。「子供の誕生」が近代の産物なら、「人間の誕生」もまたそうだ。ヒトから人間へ――その移行を進化と言えるかどうかは不明だが、そこに近代化を見出すのは可能だろう。人間は近代化と共に理想を求め始める。

さて、もはや誤解はないと思うが、「子供に戻りたい」という願いは「若返りたい」ということではない。少なくとも、私がここで問題にしている「子供」の理想はアンチエイジングの夢とは質的に全く異なる。勿論、醜く老いていく肉体を美しい若い肉体に戻したいというのは人間の見果てぬ夢だろう。しかし、たとい今後の科学技術の発展によってその夢が実現したとしても、それは人間の理想とは関係がない。人間の理想は水平の次元における反・老化の夢を垂直に突き抜けていく。