祝祭共働態の二律背反(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

祝祭共働態の二律背反(10)

この便りは殆ど誰にも読まれていないので思いつくまま勝手なことばかり書いているが、私には常に「自分の思耕の方向性は根源的に間違っているのかもしれぬ」という危惧がある。それは「善きサマリア人への疑念」と逆対応するものであり、私が求めている祝祭共働態の本質に深く関わることだ。結局のところ私は、「始源の無垢」を超克する「生成の無垢」によって、子供の「無垢の歌」と大人の「経験の歌」の対立を止揚する方向に祝祭共働態の実現を見ているが、そこに何か極めて重要なものが欠落しているような気がしてならない。その何かが私の不安を募らせる。

余談ながら、私は先日「おうちへ帰ろう:障害のある赤ちゃんの特別養子縁組」と題するETV特集を観た。大江健三郎の「個人的な体験」もさることながら、見ず知らずの夫婦の障害のある赤ちゃんを自分の養子にするなど一般の常識を超えている。最近の医学では胎児の段階で障害の有無が判明するらしいが、我が子の障害の可能性を告げられた夫婦は如何なる決断をするか。容易な決断でないことは言うまでもない。「子供はどうしても欲しいが、私たちが育てたいのはふつうの赤ちゃんなのです」という声が紹介されていたが、この本音を非難することなど誰にもできない。少なくとも、結婚をしたこともない、子供を持とうとしたことさえない私に非難することはできない。できないけれども、それにもかかわらず、その本音は徹底的に批判されねばならないと私は思う。「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称しがたい。しかし、とにかく一部を成している」とは芥川龍之介の言葉だが、人はふつう「落丁の多い書物」など買わない。当然のことだ。万一買ったとしても、すぐに落丁のない「ふつうの書物」に取り替えるだろう。どの書物にも「落丁本・乱丁本はお取り替えします」と明記してある。しかし、人生が書物だとするなら、たとい落丁本・乱丁本であっても、我々はそれを買わねばならない。勿論、落丁や乱丁が生じないように細心の注意を払うことが先決であり、もし生じたら可能な限り修繕を試みる必要はある。しかし、書物の場合は修繕よりも新品に取り換えることの方が当然でも、人間の場合は違う。落丁や乱丁のある赤ちゃんを授かったなら、その修繕を望むことはあっても、断じて新品に取り替えることを考えてはならない。それは胎児の段階においても言えることだ。落丁や乱丁のある本は書物とは言えないが、落丁や乱丁のある赤ちゃんは人間なのだ。――と偉そうに批判しても、現実には何の力にもならないだろう。人間も書物と変わらず、不良品は新品に取り替えた方がいい。それが自然の情なのだ。

さて、どうも横道に逸れがちだが、ここで問題にしたいのはそうした障害のある赤ちゃんを放棄する人たちの徹底批判ではない。その批判もさることながら、様々な葛藤の末に放棄された他人の赤ちゃんをわざわざ自分たちの養子にする人たちがいるという現実をこそ問題にしたい。勿論、そうした特別養子縁組を望む人は極めて少数にすぎない。いくら不妊治療をしても子宝に恵まれない夫婦が養子縁組に活路を見出すことはあっても、やはり求められるのは「ふつうの赤ちゃん」だ。まさか商品のように等級があるわけではないだろうが、実質的にはペットショップでの買い物と同様の感覚があるのではないか。すなわち、「少しでも可愛くて、従順なモノがいい」という感覚だ。こうした感覚からは障害のある赤ちゃんの特別養子縁組など絶対に理解できない。露骨な言い方をすれば、どうしてわざわざ不良品を買うようなことができるのか。それも自分が生み出した不良品ならまだしも、他人が生み出し、他人が放棄した不良品を買うことができるのか。考えられることは唯一つ、その人にとって障害のある赤ちゃんは不良品などではないからだ。それは商品でさえない。人間なのだ。生きている人間なのだ。生きている以上、放棄することはできない。それは自分の子か他人の子かとか、更に言えば人間かそれ以外の生物か、ということなど関係ない。生きているものは放棄できない。唯それだけのことだ。私はそこに祝祭を見る。根源的な祝祭を見る。

こんなことを言えば私の人格を疑われるかもしれないが、私は時に知的障害のある人を羨ましく思うことがある。その人たちはいつも「全肯定の青空」を見ているような気がするからだ。晴れの日は言うに及ばす、雨の日でも曇りの日でも常に「全肯定の青空」だけを見て生きているように思われる。勿論、これは知的障害の実情を知らぬ者の勝手な妄想にすぎない。それに「そんなに羨ましければ、実際にお前が知的障害を持てばいいじゃないか」と言われるだろう。全くその通りだ。私に反論の余地はない。しかし、話を障害のある赤ちゃんの特別養子縁組に戻せば、障害のある赤ちゃんを受け容れた家庭は確かに祝祭空間だと言える。そんなキレイゴトだけでないことはよくわかっているつもりだが、障害のない我が子たちも含めて、正に家族全員一丸となって障害のある赤ちゃんを育てていこうとする共働態の在り方は祝祭としか言いようがない。ただし、それは私が求めてきた祝祭共働態ではない。そこには発展がないからだ。共生はあっても、人間を歴史的に高めていく発展がない。しかし、祝祭に発展が必要だろうか。発展を求めれば自ずと競争が生まれ、結果的に共生を台無しにするのではないか。どうも祝祭共働態をめぐる私の不安は終わりそうにない。