観想と活動、もしくはマルタとマリア
「新しき村は駆け込み寺ではない」という認識は根源的に改めるべきだとしても、駆け込み寺に終始するわけにはいかない。逃げ場は一時的な避難所でしかなく、そこを真の居場所にするためには何かが必要になるからだ。その何かについて思耕していると、「新しき村は修道院のようになるべきだ」という或る長老の言葉が思い出された。率直に言って、その言葉を初めて聞いた時、私には違和感しかなかった。それは新しき村の本質の半分しか言い表していないと思ったからだ。新しき村は内向的運動に尽きるものではない――そんな反論もしたように覚えている。しかし、修道院は内向的運動に尽きるものではなかった。成程、修道院は世俗からの逃げ場だと考えるのが一般的だが、それに尽きるものではない。渡辺優氏によれば、修道院には「観想修道会」と「活動修道会」がある。前者は静謐な空間で神に祈りを捧げることを重視し、後者は修道院の外に出て司牧や宣教することに専念するらしい。おそらく、こうした観想と活動は分離して考えるべきではなく、むしろ一つの運動の往相と還相として理解すべきだろう。とは言え、そこには自ずと優先順位が生まれてくる。渡辺氏は次のように述べている。
「観想的生(bios theoretikos)と活動的生(bios praktikos)というアリストテレス的区分に立つギリシア人たちにとって、前者は社会的日常から離れたところで究極的真理の観想を目指す哲学者の生であり、後者はポリスにおいて日常生活を営むその他市民たちの生であって、前者が後者に優越すると考えられていた。他方、キリスト教教理の基盤を築いた古代教父たちは、神愛と隣人愛とは不可分であると考えたが、観想的生が活動的生に優越するというギリシア哲学に、神愛がより霊的で卓越した愛であるという論拠を認めたのである。」
興味深いことに、こうした「神愛に対する隣人愛の、観想に対する活動の劣位という理解」の聖書的根拠が「マルタとマリア」に見出されていることだ。引き続き、渡辺氏の解説。
「イエスへの給仕に忙しく動きまわる姉マルタの姿が活動的生に重ねられる一方、イエスの足元に座り込んでその話にじっと耳を傾ける妹マリアの姿が観想的生に重ねられた。そして、マリアにも給仕を手伝うよう求めるマルタの言葉へのイエスの返答「マリアは良いほうを選んだ」が、観想的生の優位を示す神の言葉として解釈されてきたのである。」
しかし、どうだろうか。観想的生は本当に活動的生に優るのだろうか。エックハルトはむしろ、神のために活動するマルタにこそ理想の境地があると解釈しているそうだが、我々もこの点について更に深く思耕せねばならない。観想か活動か。マリアかマルタか。新しき村はその稜線上を歩む。