間奏曲:二つの危険性 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

間奏曲:二つの危険性

ナチス政権下、多くの知識人がアメリカへの亡命を余儀なくされた。言葉の問題を別にすれば、総じて自然科学者たちはアメリカの地に違和感を覚えなかっただろう。しかし、精神科学者たち、殊に神学者や哲学者は違った。その中の一人であるティリッヒは次のように述べている。

「アメリカの歴史全体がアメリカの精神を水平的な方向に駆り立てた。非常に広い、一見際限なき土地の征服、自然および自分自身との関係における人間の無限の可能性の進歩発展、カルヴァン主義と前期資本主義の動態、拘束的な伝統とヨーロッパ史の誤謬とからの自由――これらすべてはヨーロッパにおけるきわめて垂直的な思考から完全に区別された思考方法を顕著に示している。各人にあらかじめ定められた場を指定する封建制においては、水平的な進歩の可能性はきわめてわずかしか存在しない。生は垂直的な、神の力と悪魔の力の闘争であって、人間の可能性の進歩発展のための闘争ではない。もちろん、この種の対比はけっして絶対的なものでないことはいう必要もないことであるが、それらから生じる顕著な態度は神学的に深い意味をもっている。」(「神学における地域主義の克服」)

こうした対比からティリッヒは端的に「ヨーロッパには水平的な発展に欠けるという危険性があり、アメリカには垂直的な深みに欠けるという危険性がある。それは、たとえば教会の進路や、人びとの神学理解の方法に示されている」と明言している。すなわち、ヨーロッパにおける教会はその究極の基礎を問題にして、神学はその基礎をそれ自体において完結した体系を構築することを課題とするのに対し、アメリカの教会は一つの社会団体であり、プラグマティックな要求を核とした人々の社会的救済を課題とする、ということだ。言うまでもなく、こうした二つの課題は絶対的に対立するものではなく、我々には両方が必要だ。しかし現実には、どちらかが欠けるという危険性に常にさらされている。実際、ヨーロッパの神学は究極的真理の追究に専心し、アメリカの神学は社会貢献できる教会の指導者育成に重きを置くという差異は厳然として存在する。研究と実践。マリアとマルタ。ここに新生・新しき村の根源的な課題がある。