新・ユートピア数歩手前からの便り -74ページ目

ユートピアの交差点(2)

先日、「ももさんと7人のパパゲーノ」というドラマを観た。周知のように、パパゲーノとはモーツアルトのオペラ「魔笛」に登場する鳥刺し男だが、精神医学の分野では「死にたい気持ちを抱えながらも死ぬ以外の選択をしている人々」のことであり、そうした人々の体験談が自殺の抑制に繋がることを「パパゲーノ効果」というらしい。今回のドラマでも、ももさんという自殺を考えている女性が旅に出て、7人の個性的なパパゲーノと出会うことになる。その結果、ももさんには自殺以外の可能性が見えてくる。しかし、それは死にたいという気持ちがなくなることではない。おそらく、ももさんは依然として死にたいと思っているだろう。誤解を恐れずに言えば、それでいいと私は思う。むしろ、この腐敗した世界に生きたいと思う方が間違っている。人間として生きることに誠実であればあるほど、絶望は必至だ。ただし、絶望が死に至る病だとしても、「重要なことは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」――カミュと共に私もそう言いたい。その意味において、パパゲーノもまたユートピア数歩手前に生きている。それにしてもパパゲーノの「死ぬ以外の選択」とは一体何だろうか。

ユートピアの交差点

「理想社会の実現」を自らの生涯の仕事とすることには一点の迷いもないが、その言葉を愚直に繰り返しているだけの毎日にはウンザリしている。何かを始めなければならぬ。しかし、何を始めればいいのか。そんな思いを胸に燻らせながら古いドラマを観ていると、一人の若い女性が子供の寝顔をながめて呟いた。「世の中にはセックスよりも気持ちのいいもんがあるんだ…」女性は夜の街を彷徨いながら暮らしてきた。主に水商売で金を稼ぎ、客や行きずりの男と肌を合わせている時だけ安心感を得ることができた。野暮を承知で言えば、彼女は肉体の刹那的な快楽以上の生の喜びを知らなかったのだ。しかし或る時、彼女は一晩の情事の相手が見棄てた子供を押し付けられることになる。勿論、彼女の子ではない。アカの他人の子だ。当然、彼女も見棄てようとする。しかし、子供にしがみつかれ、棄てるに棄てきれず、結局一緒に暮らし始める。そして、様々な葛藤を経て、先のような一言を呟くに至る。その後、実の母が現れて子供を引き取るが、子供は実の母の下から逃げ出して彼女の下に戻ってくる。さて、「セックスよりも気持ちのいいもん」とは一体何か。「人を愛すること。自分よりも大切なものがあること」と彼女は言った。私が始めなければならぬ何かもその辺りにあるような気がする。

ユートピアの拠点

新しき村をユートピアの拠点にしたいと私は思っている。しかし、厳密に言えば、それは新しき村をユートピアにすることではない。そもそもユートピアは「どこにもない場所」であり、新しき村に限らず、この世界にある如何なる理想郷もユートピアにはなり得ない。新しき村は常にユートピア数歩手前にとどまる。ユートピアは言わば「見えざる教会」であって、「見える教会」としての新しき村との間には質的断絶(絶対的差異)がある。しかし、無関係ではない。ユートピアの拠点としての新しき村はこの世界に理想社会を実現しようとする。それはアルカディアとパラダイスの螺旋的循環の運動だ。繰り返し述べているように、私の使命はこの水平化(世俗化)した世界に垂直性(聖なるもの)を取り戻すことにある。端的に、水平の次元に垂直の次元を導入すること、と言ってもいい。しかし、水平の次元とは別に垂直の次元があるわけではない。少なくとも私は水平の次元を超絶したサンクチュアリの如き垂直の次元に意味を見出さない。人間が現実に生きているのは水平の次元であり、その現実を離れた垂直の次元は意味を成さないからだ。むしろ、垂直の次元は水平の次元に受肉してこそ我々人間の生きる意味となる。そうした受肉の現実を歴史の中で具体的な「かたち」にしていくのが新しき村の運動に他ならない。それがユートピアの拠点としての新しき村の使命でもある。

ユートピアの無力

圧倒的な力の差において、大男は小男を支配する可能性を得る。その可能性は自然の誘惑と言ってもいい。強い者は弱い者を支配したくなる。いじめたくなる。そこに明確な理由はない。弱い者を見ていじめたくなるのは自然の本能だ。もし強い者に「弱い者いじめはいけない」という意識が芽生えるとすれば、それは一体どこから来るのか。垂直の次元、と私は言いたい。そこには弱肉強食の論理はない。水平の次元においてライオンはシマウマを食うしかないが、もしライオンに垂直の次元に生きる術あらば、ライオンとシマウマは抱擁することもできる。それでもなお水平の次元に生きるためにライオンはシマウマを食わざるを得ないかもしれない。しかし、垂直の次元を得たライオンは「いただきます」の一言を発し、シマウマを食いながら静かに手を合わせるだろう。「それは御伽噺だ」と殆どの人は言うに違いない。しかし、ジョン・レノンの「夢想」と同様に、You may say I'm a dreamer. But I'm not the only one. I hope someday you'll join us. And the world will be as one. という希望を私も抱きたい。ただ「世界が一つになる」ということについては更に深い思耕が必要になる。垂直の次元において弱肉強食の論理はなくなるが、強い者と弱い者の差異までなくなるわけではない。重要なことは差異をなくすことではなく、差異の関係態を祝祭的に再構築することだ。強い者に「弱い者いじめはいけない」という意識が生じると同時に、弱い者に「強い者に屈服してはならない」という意識が生まれる。そうした双方向の意識をハイデガー流に「良心の呼び声」と称するならば、それは垂直の次元から聞こえてくる。とは言え、その声は往々にして水平の次元の狂暴な奔流にかき消されてしまう。それは現在も続くウクライナとロシアとの理不尽な関係に如実に示されている。水平の次元における圧倒的な暴力(弱肉強食の論理)に直面すれば、垂直の次元など甘っちょろい美辞麗句にすぎないだろう。それにもかかわらず、垂直の次元から聞こえてくる微かな声に耳を傾けようとする時、ユートピアはようやく起動し始める。問題は力の論理ではない。逆説的な言い方をすれば、ユートピアの起動力は無力だ。水平の次元における力の論理が垂直の次元における無力によってディコンストラクトされる時、そこに祝祭共働の花が咲き始める。

 

追伸:ここで今回は終わるつもりだったが、やはり甘いことばかり書き続けていることが自分でも嫌になって追伸する。結局、ウクライナはロシアに勝てるのか。水平の次元における力の論理からすれば、小男のウクライナが大男のロシア以上の軍事力を持たない限り、ウクライナの勝利は原理的にあり得ない。言うまでもなく、ウクライナ単独では不可能なので、ロシア以外の世界中の国々がウクライナに軍事支援する以外にウクライナ勝利の可能性は出てこない。そんなことが今の国際情勢であり得るとは到底思えないが、要するにロシアを捩じ伏せられるだけの力の集中のみが水平の次元におけるウクライナ勝利を可能にする。力の論理に即すれば、小男にそれ以外の可能性はあり得ない。では、垂直の次元における無力はどうか。それは実質的に無抵抗の闘いになるだろう。ロシアが侵攻してきても一切抵抗しない。愛する妻や娘がレイプされて虐殺されても一切抵抗しない。自分が殺されても一切抵抗しない。そんなことが可能だとは到底思えないが、もしそうした完全なる無抵抗を貫いた場合、その垂直の次元から何が生まれるか。残虐なるロシア兵にも「良心の呼び声」が生まれてくると我々は言うことができるのか。たとい最終的にはそうなるにしても、垂直の次元における無力の勝利が実現するまでに、一体どれほどの無辜の血が流されることだろう。ユートピアの無力はそれを贖うことができるのか。

ユートピアの起動

プロレスラーのような大男と青白い小男の関係において、力の差は歴然としている。その圧倒的な力で大男は小男を意のままに従わせることができる。場合によっては奴隷として恒常的に支配することも可能だろう。要するに弱肉強食の論理だ。これは自然界を貫き、人間も自然の一部である以上、この論理を拒否することなどできない。勿論、人間には他のイキモノには見られない「自然に反抗する自由」がある。たとい小男でも大男に反抗することはできる。しかし、小男は大男に勝てるのか。柔よく剛を制す。柔道の達人なら小男でも大男を投げ飛ばすことができるかもしれないが、その場合でも小男は柔道の力(大男の力を利用する技術)で大男より強くなったのであり、依然として弱肉強食の論理は生きている。もっと分かりやすい例を挙げれば、小男はナイフやピストルを所持して大男に立ち向かえばいい。いくら大男でもナイフやピストルには敵わない。ほぼ確実に小男は大男に勝てる。ただし、その勝利においても弱肉強食の論理は微動だにしていない。むしろ、小男はナイフやピストルを媒介に弱肉強食の論理を活用して大男に勝ったにすぎない。また、小男が他の小男たちと一致団結して大男に勝つ場合も同様だ。単に小男たちの団結力が大男の力に勝ったということにすぎない。このように小男が大男の支配を覆しても、そこにユートピアは未だ起動しない。ユートピアは弱肉強食の論理そのものの超克を求める。それは一体、如何なることか。

補足:アパテイア

「オクトー:感情捜査官 心野朱梨」というドラマがある。主人公の女性は人間の感情の動きが色として見えるという超能力の持ち主で、それを犯罪捜査に活用している。毎回、犯罪者(主に殺人者)の取り調べにおいて、その怒り、悲しみ、後悔といった感情の色をスケッチブックに描き分けているが、「動機なき殺人、全ての感情を捨てた女」と題する第七回は違った。殺人の容疑者として逮捕された初老の女性は「私が殺しました」とあっさり自供したものの、その表情からは一切の感情の色が見えない。つまり、殺意が全く見えないのだ。「一体、殺意なしの殺人は可能なのか」と主人公の女性捜査官は悩むが、いくら問い詰めても容疑者の眼は白いままで如何なる色も生じてこない。結局、この容疑者は殺人を犯していなかったというのがドラマの結末だが、それならば何故虚偽の自供をしたのかという理由は余り説得力がないので割愛する。私が注目したいのは、この虚偽の自供をした女性が幼い頃からの過酷な体験によって感情を捨ててしまったという事実だ。彼女は言う――「生きるとは感情の中でもがくこと。感情がある限り、生きる苦しみは絶えない」実際、彼女は何を言われても殆ど動揺することがなく、常に平静を保っている。一種のアタラクシアだと言ってもいいだろう。しかし、それが幸福なことだとは彼女自身思っていないに違いない。彼女の表情はいつも白く、喜怒哀楽の色など皆無だ。彼女は感情を捨て、生きることを放棄している。そこに人間の幸福がある道理がない。

純白の超克(10): 白鳥は哀しからずや

キルケゴールは自らの宗教的使命を「キリスト教界にキリスト教を導入すること」に見出した。彼の眼に当時のデンマーク国教会はキリスト教を失っているように映っていた。それは基本的に、ルターの眼に映っていたローマ法王庁と同様であろう。二人の宗教的使命は通底している。それを私なりに解釈すれば、「世俗化された宗教に聖なるものを取り戻すこと」と定式化される。私はキリスト者ではないが、こうした宗教的使命に深く共鳴している。

さて、キリスト教にせよ何にせよ、それが宗教である以上、そこには聖なるものが息づいている。先述したように、聖なるものには戦慄と魅惑の二面があるが、その運動は宗教の世俗化と連動する。端的に言えば、世俗化は宗教の運命であり、我々はそれを避けることができない。と言うより、世俗化は聖なるものそれ自体の運動なのだ。世俗化しない聖なるものは真の聖なるものではない。ここに我々が純白の超克を目指す理由もある。純白は聖なるものだが、純白にとどまる聖なるものは我々にとって現実的な聖なるものではない。聖なるものは俗なるものに、純白は色彩に受肉する。勿論、それは宗教の堕落を伴う過酷なものだ。甘いものではない。しかし、やはり避けることはできない。世俗化された宗教とは明らかに矛盾した概念であり、実質的には宗教の否定だ。「魔術の園」から解放された現代人の多くはもはや宗教を必要としない。かつては神の怒りであったカミナリ(神鳴り)も今や科学で説明できる。他の自然現象についても然り。たとい未だ科学では説明のできない超常現象が多々あるにせよ、それらはサブカルチャーのオカルトにすぎず、そこでは真の宗教は要請されない。世俗化は神の死をもたらし、究極的なものは水平化される。そこにはもはや「生命尊重以上の価値」などあり得ない。曲がりなりにも経済的に豊かで平和なパラダイスだけが残される。それが世俗化の成果に他ならない。

それでいいのかもしれない。殊に日本では、宗教は冠婚葬祭で必要とされる程度で丁度いい。人生の意味を授けてくれる宗教にのめりこめば、高価な壺を買わされるのがオチだ。触らぬ神に祟りなし。現代人の大半にとって「神の死」はすでに常識と化している。とは言え、世俗化のパラダイスにも未だ経済格差や環境破壊と言った様々な問題が渦巻いている。我々はそうした水平的問題に全力で取り組まねばならぬ。しかし、問題は本当にそれに尽きるのであろうか。心ある多くの人たちが水平的な社会問題の解決に尽力されていることは私も重々承知しているが、その根源的な解決のためには垂直的な宗教問題への取り組みが不可欠だと私は考えざるを得ない。つまり、現代人には水平的な社会運動と垂直的な宗教運動の両輪が必要なのだ。その両輪がユートピア活動の根幹を成すが、より重要なのは後者だ。それは「世俗化のパラダイスから聖化のユートピアへの運動」と理解することができるが、未だそのリアリティを上手く表現することができない。当面の課題は依然として「純白の超克」にある。どうして純白は超克されねばならないのか。それを要請する垂直的な宗教運動とは何か。それは先に述べた宗教的使命と密接に関係しているが、ここでは「空の青 海のあをにも染まずただよふ」白鳥は哀しすぎるとだけ言っておく。

純白の超克(9): 赤ん坊は揺籠の中で殺すべきか

Sooner murder an infant in it’s cradle than nurse unacted desires...これは大江健三郎の「個人的な体験」に出てくるブレイクの詩の一節だ。意味は「赤んぼうは揺籠のなかで殺したほうがいい。まだ働きはじめない欲望を育てあげてしまうことになるよりも」とされている。赤ん坊の生は純白だが、その泣声はすでに色がつき始めている。それは「ミルクが欲しい」とか「オムツを替えて欲しい」といった欲望の訴えだ。もはや無垢の歌とは言えない。むしろ、すでに経験の歌が始まっていると考えるべきだろう。こうして赤ん坊はその純白の生を失っていく。その喪失を不憫に思うのなら、いっそ揺籠の中で殺してしまうのも強ち無慈悲とは言えないかもしれない。しかし、たとい純白の生を失うことになっても、人間はやはり生きるべきではないか。そして、生きるとは色を重ねていくことであり、それは様々な欲望を育んでいくことに他ならない。

言うまでもなく、人間の欲望は果てしなく増大し、それは人生に光と影を生み出す。実際、現代人の欲望は古代人の想像を絶するものだろう。卑近な例を挙げれば、スマホは現代社会を実に便利なものにしたが、そこにはスマホのなかった世界にはあり得なかった欲望が続々と生み出され、歯止めの利かなくなった欲望の渦に巻き込まれた現代人の生活は次第に暗黒と化していく。さりとて現代人はもはやスマホを棄てることなどできない。欲望は不可能を可能にしてきたが、可能は必ずしも人間を幸福にしない。むしろ、果てしなき欲望の連鎖は人間を果てしなき競争に巻き込み、その生活を理想から遠ざけ続ける。こんな筈ではなかった。現代人は時に未開人の生活を羨むことがある。そこには純白の生とは言えないまでも、欲望が暴走する以前の素朴な生活があるように見えるからだ。やはり赤ん坊は揺籠の中で殺すべきだったのか。「否!」ときっぱり言うためには、我々は欲望の過剰に立ち向かわねばならぬ。そこには常に色彩の過剰に溺れる危険性がある。しかし、もはや純白に逃げるわけにはいかない。ユートピアへの道は純白への退路を断つことから始まる。

純白の超克(8): 欠乏と過剰

労働者のニヒリズムは一般的に「時間がない、金がない、自由がない」といった欠乏によるものだ。従って、そうした欠乏を反転させて「時間がある、金がある、自由がある」という状態にすれば、労働者のニヒリズムは解消することになる。論理的にはそうなる。実際、労働者はそれを望んでいるだろう。しかし、それは実質的に労働者から高等遊民への転向を意味する。つまり、「時間がある、金がある、自由がある」という状態になれば、もはや労働の必要はなくなるのだ。尤も、厳密に言えば、その状態を維持するために更なる労働が必要になる。また、どれだけの時間・金・自由を得たら欠乏の充足になるのか、それは人それぞれ違ってくる。おそらく、「単に基本的な衣食住で満足する人」と「より豊かな衣食住を求めていく人」との格差は無限に開いていくだろう。そうした格差の発生そのものは極めて自然であり、何ら咎められるべきものではない。しかし、そこには否応なく人生における価値観の対立が生じてくる。「贅沢は敵だ」と「贅沢は素敵だ」の対立。それは現在では「寝そべり族」と「ワーカホリック」の対立に発展している。一体、労働者の解放とは何か。

さて、私は先に「食うための労働の廃絶がユートピアの喫緊の課題だ」と明言したが、これまでの社会運動は総じて「労働条件の改善」を要求してきたにすぎない。そして、それは「労働基準法」に見られるように一定の成果を上げてきた。言うまでもなく、私はその成果を軽視するつもりはない。むしろ、先人たちの血と汗と涙の結晶だと思っている。しかし、その結晶はあくまでもパラダイスの実現にとどまる。ユートピアはそうした水平的な社会運動を垂直に突き抜けていかねばならない。ただし、労働者がそこまで望んでいるかどうかは定かではない。率直に言って、ユートピアの理想は未だよく理解されておらず、それは多くの労働者にとって余計なお世話でしかないだろう。確かに、パラダイスにおいて欠乏のニヒリズムは或る程度解消されるに違いない。しかし、正にその解消から新たなニヒリズムが生まれてくる。それは過剰のニヒリズムだ。純白の超克も、そのニヒリズムに至ってこそ問題となる。

純白の超克(7):月曜の朝のブルー

月曜の朝、労働者は皆一様にブルーになる。過敏な人はその前夜から。サザエさん症候群というヤツだ。それでも土日に楽しければそれでいい。灰色の労働に耐えれば、またバラ色の週末がやって来る。月曜の朝のブルーから灰色の労働を経てバラ色の週末に辿り着く――労働者はそうした色彩の循環を生きている。それが労働者の現実の生活だ。これに対して、言わば毎日が日曜日の高等遊民の生活はずっと白いままだ。月曜の朝のブルーも灰色の労働もない代わりにバラ色の週末もない。果たして、どちらが幸せなのか。

ユートピアの理想から言えば、どちらも本当の意味で幸せではない。「食うために労働する人が一人でもいるうちは、その社会は理想ではない」とは実篤の言葉だが、食うための労働の廃絶がユートピアの喫緊の課題であることは間違いない。その意味では、食うための労働から解放されている高等遊民の生活はユートピアの条件を満たしているように見える。しかし、本当にそうか。高等遊民に対する拭い難い疑念は、それが一部の特権階級に限られる点に見出される。では、全世界の人間が等しく高等遊民になれば、そこはユートピアになるのか。勿論、そんなことは原理的に不可能だ。高等遊民だって食わずにはいられないわけで、誰かが食うための労働をしなければならない。古代ギリシアでは奴隷がそれを担っていたと言われるが、ユートピアに奴隷制などあり得ない。それは人間ではなく機械を奴隷にする場合でも同様だ。例えば、食うための労働の一切をロボットがしてくれるSFのような世界が実現したとしても、それはユートピアではない。何故か。ユートピアには食うための労働からの解放以上の何かが要請されるからだ。その何かを取り敢えず「生の充実」と称するならば、それは高等遊民の白い生活ではなく、むしろ労働者の色彩豊かな生活に見出されるのではないか。実際、定年退職して高等遊民になった人の多くは月曜の朝のブルーを懐かしむのではないか。とは言え、灰色の労働に追いまくられる労働者が高等遊民の生活を羨むのも事実だ。労働者の多忙と高等遊民の倦怠。そこには二種類のニヒリズムがある。