ユートピアの筋書(8)
東京へゆくな、ふるさとをつくれ。この有名な或る詩人の言葉を一つの筋書で理解すれば、「パラダイスへゆくな、アルカディアをつくれ」ということになる。ちなみに東京で生まれ育った人は故郷がないとよく言われる。故郷とは一般的にアルカディアを意味するからだ。従って、パラダイスの象徴とも言うべき東京を故郷とする者は二重の意味でアルカディアに関係することになる。絶望と希望。予め失われたアルカディア、帰るべき故郷はないという絶望。「ならば故郷は創るしかない」と腹を括り、新しき故郷としてのアルカディアに賭ける希望。しかし、厳密に言えば、こうした絶望と希望は他の多くの地方出身者も同じだろう。余程の僻地(未開地)でもない限り、どの故郷ももはやアルカディアではない。どこもかしこも東京のコピー、リトル・トーキョーのプチ・パラダイスと化しつつある。従って、地方出身者もまた帰るべき故郷(アルカディア)は失われたという絶望に駆られ、新しき故郷としてのアルカディアを創るしかないという希望に賭けていると思われる。尤も、それもこれも全てパラダイスへの絶望を前提にしている。率直に言って、東京に憧れている人は未だたくさんいるに違いない。そこには単なるゾーエーでは味わうことのできぬ、「ちむどんどん」するビオスの快楽装置が溢れている。幸か不幸か、パラダイスの可能性は未だ汲み尽くされていない。とは言え、その本質である「欲望の資本主義」が致命的な危険性を孕んでいることは今や誰の目にも明らかであり、パラダイスの運命を見極めることも大きな筋書の一つになっている。ただし、それはすでにマルクスが「資本主義の超克」という形で書いている。その筋書は未だ有効なのだろうか。それを見極めるためにも、我々は新しき故郷としてのアルカディア(すなわち、新しき村)に至る筋書について更に深く思耕しなければならない。
ユートピアの筋書(7)
安心で安全な生活を望むなら、新しいことは一切しないことだ。昨日に変わらぬ今日、今日に変わらぬ明日、その繰り返し。先人たちの経験が積み重なってできたルーティーン、そこにarchetypeが形成され、その反復が伝統となる。絶対的な神が与えてくれた(とされる)無為自然が失われた楽園と化した今、伝統の保守こそが人間に安楽な生活をもたらしてくれる。失われた楽園(エデン)から伝統の保守による楽園(アルカディア)へ――これがドラマのプロローグとなる。問題はここからの筋書だが、人間はアルカディアに安住できるだろうか。
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伝統的社会というゲマインシャフト。それは個人のオイコスを核とした故郷だと言ってもいい。人は誰しも故郷で育まれる。故郷のない人はいない。しかし、青年は荒野を目指す。一生故郷にとどまる人もいないわけではないが、多くの人は故郷を後にする。何故か。伝統は因循姑息なものとなり、同じことの繰り返しにウンザリする思いがするからだ。たとい安心で安全な生活を失うことになっても、人間は「新しきもの」を求める。それによってアルカディアにはない豊かさを追求する競争が生まれる。それがパラダイスへの筋書だが、そこには常に「歴史の恐怖」という問題がある。かくして筋書はユートピア数歩手前で、アルカディアとパラダイスの相克という様相を呈することになる。
ユートピアの筋書(6)
本来、無為自然は桃源郷と言うべきであって、エデンとは違う。その違いを端的に言えば、エデンはユートピアの原点であるが、桃源郷はそうではない。これはどういう意味か。桃源郷とユートピアは質的に全く異なる。桃源郷はそれ自体で完結した理想であるのに対し、ユートピアはドラマを孕んだ理想なのだ。従って、エデンはユートピアというドラマの起点になるが、桃源郷には如何なる発展の余地(必要)もない。尤も、桃源郷もそこに辿り着く過程にドラマを見出すことは可能だろう。ただし、そのドラマにおいて理想としての桃源郷は終始一貫ビクともしない。ユートピアは違う。エデンの理想は失われる運命にあり、その失楽園の絶望からユートピアのドラマは始まる。とは言え、桃源郷とエデンの理想としての構造は共通している。エリアーデに即して言えば、それは永遠回帰の神話、すなわちarchetype(祖型)の無限の反復を享受する生活に他ならない。その俗的表現が「衣食住の懸念なく日々ノンビリ暮らせる生活」だが、これはもはや現実にはあり得ない理想となっている。だからこそ、桃源郷が求められるわけ だが、私は敢えて「失われたエデン」という筋書を選びたい。そこには循環するコスモス(永遠回帰の神話)よりも新しき何かを求めるヒストリーを選ぶ人間の運命があるからだ。エリアーデは「歴史の恐怖」を問題にしているが、「失われたエデン」から始まるユートピアのドラマは一筋縄では行かない。
ユートピアの筋書(5)
「エデンはヘブライズムの楽園であり、アルカディアはヘレニズムの楽園だ。前者の本質が他律的な唯一絶対神の支配にあるとすれば、後者の本質は人間の自律を促す神々の愛にある」――そうした対比が考えられる。ただし、私は学問的には死んだも同然の人間なので、それを歴史学的に裏付けるつもりはない。つもりはあっても、その能力がない。従って、エデンにおける支配とアルカディアにおける愛は象徴的な対比でしかない。とは言え、先述したように、主人の奴隷に対する一方的な支配に愛を見出すことはできる。しかし、それは「真の愛」ではない。尤も、愛について厳密に考えようとすれば、「アガペー・エロ―ス・フィリア」の区別とか愛と恋の違い(愛には心が真中にあり、恋には下心がある)を問題にしなければならないが、ここでは「真の愛」はあくまでも対等な関係を前提にした「相互承認」としたい。当然、神と人間の相互承認は人間と人間の関係にも反映し、必然的に主従関係のディコンストラクションが要請される。端的に、エデンは絶対的な神によって与えられた「他律の楽園」、アルカディアは人間がつくる「自律の楽園」、と言ってもいい。「アルカディアはエデンの前向きの反復だ」と言うのはそういう意味だ。
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さて、このようなエデンとアルカディアの象徴的な対比もさることながら、その本質的な共通点を忘れてはならない。それは「衣食住の懸念なく日々ノンビリ暮らせる生活」だ。そして、その共通点だけで判断すれば、エデンの方が楽園として優れているというのが一般的な見解だろう。エデンにおいて人間は神の絶対的な支配の下で無条件に安楽な生活を享受できるからだ。尤も、神話ではエデンにおいて人は「耕す」という行為をしているが、エデンの象徴的本質からすれば無為自然と考えたい。つまり、神の恩寵によって人間は無為のまま日々遊んで暮らせる、ということだ。正に飼い主に溺愛されるペットの如き生活だが、これこそが「衣食住の懸念なく日々ノンビリ暮らせる生活」の極致だと思われる。実際、もし可能なら、エデンにおける神に飼い馴らされた安楽生活を望む人は少なくないだろう。しかし、幸か不幸か、エデンは永久に失われた。絶対他律の神は死に、無為自然などもはやどこにもない。従って、もし「衣食住の懸念なく日々ノンビリ暮らせる生活」を持続可能なかたちで望むならば、我々はそれを我々の力で創るしかない。それがアルカディアだ。
ユートピアの筋書(4)
神なき荒野よりもエデンの方がいい――そう考えるのが人情であり、そこから別の筋書が生まれる。子の自立に親の死は必ずしも必要ではない。死ぬべきはあくまでも親の支配であって、子と親は互いに自立した人間として生きればいい。そもそも老いていく親は自然にその支配力を失っていくのであり、やがて逆に子に支配される運命にある。ただし、それを支配ではなく愛の関係として受け取り直せば、そこに一つの理想が実現する。具体的には三世代同居の理想だ。「親は赤ん坊だった私のオムツを替えてくれた。今度は私が年老いた親のオムツを替える番だ」という循環。そうした無限の世代交代にエデンの前向きの反復を見出すことも可能だろう。私はその前向きに反復されたものをアルカディアと称してエデンと区別したい。
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大雑把に言えば、エデンが神の一方的な支配の下での楽園であったのに対し、アルカディアは神の愛の下でそれぞれの人間が自立した人格として共生する楽園だ。この区別を更に具体化すれば、エデンにおける人間は神のペットにすぎないと言えよう。ペットとは愛玩動物であり、そこにどんなに深い愛情があっても、それは一方的な支配以外の何ものでもない。この点、ペットを人間のように愛している人は納得できないかもしれない。ペットに人格を認め、飼い主とペットの間には愛情があると言い張る人も少なくないと思われる。確かに、忠犬ハチ公や盲導犬・介助犬、最近注目を集めている看取り犬などを見ていると、人間と動物の間にも愛情関係が成立している。しかし、たとい両者が愛で結ばれていても、やはり対等ではない。それは主従関係なのだ。鄙見によれば、主人と奴隷の間にだって愛情関係は成立する。慈愛深きご主人様の御恩とそれに誠実に応えようとする奉公人。ここにエデンの本質がある。神(飼い主)の人間(ペット)に対する限りなき愛情は楽園を生み出すが、その本質は一方的な支配に他ならない。我々はエデンにおける神の一方的な支配を愛と見做して、その地を楽園として生きることもできる。それが筋書の一つだ。しかし、この筋書ではユートピアにまで辿り着けない。ここに筋書の分岐点がある。あくまでも神の一方的な支配に反抗するならば、我々はエデンを後にして神なき荒野に出ることになる。そして、神なき荒野はパラダイスへと通じている。それに対して、神の一方的な支配を「真の愛」にまで高めるならば、我々はエデンをアルカディアへと前向きに受け取り直すことになる。エデンか、アルカディアか、パラダイスか。差し当たって、アルカディアへの筋書を検討してみよう。
ユートピアの筋書(3)
「あなたの望む理想社会のイメージを教えて下さい」――そんなアンケートがあれば、人はどのように答えるだろうか。おそらく、その大半は神話におけるエデンのイメージではないか。すなわち、衣食住の懸念なく日々ノンビリ暮らせる生活だ。私はそこにユートピアの原点を見出すが、人間はそこにとどまることができるだろうか。神話によれば、人間はそこから追放された。何故か。善悪を知る木の実を食べたからだ。その結果については様々な解釈があるが、私は当為(Sollen)の発生、それに伴う「現にある自己」と「あるべき自己」の分裂と理解したい。人間は神の支配下で安穏に暮らす「現にある自己」を恥じ、「あるべき自己」を求めて新天地へと旅立つ。追放とは言うものの、神を暴君と見做す必要はない。むしろ、言わば「可愛い子には旅をさせよ」という神の愛と理解した方がいい。実際、いつまでも我が子を自分の支配下におこうとするのはダメ親であり、子にしてもいつまでも親の庇護の下で暮らそうとするのは情けない。親が子のために生きるのは当然だとしても、その子もやがて親になって子のために生きる。ゴーギャンはその無限の繰り返しに疑問を感じ、「一体いつになったら人間は主体的に生き始めるのか」と言った。神と人間の親子関係のディコンストラクションが要請される所以だ。子が未成年状態を脱して自立するためには親としての神の死が必要になる。神が君臨し続ける世界で人間の自立はあり得ない。エデン=ユートピアの原点の喪失は必然的に神の死を伴う。楽園追放後の「あるべき自己」への旅は神なき荒野から始まる。
ユートピアの筋書(2)
楽園に生きている者は楽園を意識しない。楽園を失って初めて人は楽園を意識し始める。楽園とは常に失楽園だと言われる所以だ。私個人の拙い人生を振り返っても、「子供の頃は楽園だった」と思うのは大人になってからだ。尤も、そんなふうに思えるのは恵まれている証拠かもしれない。全ての子供が必ずしも楽園を生きているわけではない。親と死別したり、親に捨てられたり、親に虐待されたり、学校でいじめられたり、幼い頃から悲惨な日々を余儀なくされている子供も少なくないだろう。その場合には失われる楽園さえなく、ひたすら悲惨な日々からの解放だけが求められる。しかし、解放の地はどこにあるのか。この世界のどこにも楽園などありはしない。恵まれた境遇で育った人には子供の頃の楽園の記憶があるかもしれない。ただし、それはもはや失楽園でしかなく、そこに戻ることはできない。況や悲惨な境遇で育った人においてをや。それにもかかわらず、優しい両親の下で生存(ゾーエー)の心配など一切なく日々楽しく過ごす生活(ビオス)がユートピアの原点としてある。恵まれた人ならその原点に長く、もしかしたら一生とどまれるだろう。裕福な親の御蔭で一生涯遊んで暮らせる人生だ。その裕福な親を神と見做せば、エデンの園こそ正にユートピアの原点だと言えよう。貧乏な家に生まれた悲惨な人には夢のまた夢ではあるが、それが夢であることは間違いない。悲惨な人もまた、ユートピアの原点に憧れを抱いている。できれば、自分も金持の子と同じように一生涯遊んで暮らしたいと思っている。しかし、本当にそうか。悲惨な人には予めエデンの園は拒まれているが、そこが解放の地なのか。世の中にはエデンの園を未だに享受している恵まれた人とそれが拒まれている悲惨な人がいるが、その格差が問題なのか。確かに、その不平等も問題ではある。しかし、根源的な問題はユートピアの原点にこそあるのではないか。その原点の超克(ディコンストラクション)、そこからユートピアの筋書は始まる。
ユートピアの筋書
私はずっとユートピアのドラマを書きたいと思ってきた。この拙い便りもそのための問題提起のつもりで細々と続けてきた。残念ながら殆ど誰にも読まれず、便りは実質的に独白と化しているが、それでも構わない。私は自分の「この道」を歩くだけだ。そう思って腹を括ってきた。しかし、どうも私には書けそうにない。私に文才がないのもさることながら、ユートピアのドラマを書くということが途方もない野心であることに改めて気づいたからだ。ポストモダン的に言えば、ユートピアのドラマは「著者の死」を前提にしている。つまり、どんなに文才があっても、個人でユートピアのドラマを書くことなど原理的に不可能なのだ。ユートピアのドラマは多様な人間の諸関係の綜合であり、それ自体が祝祭共働態だと言ってもいい。従って、私個人の希望としては、新しき村を拠点にして多くの人たちと共にユートピアのドラマを書いていきたいと思う。ただし、そのためには筋書が必要になる。ドラマの実現はあくまでも共働作業だが、筋書なら個人でも書くことができる。とは言え、筋書も簡単ではない。ドラマとは質的に異なる困難が ある。基本的には個人が自由に構想するユートピアの様々な筋書がドラマの前提となるに違いない。そのことについて最終的な思耕を試みたい。
「ちむどんどん」とニヒリズム
「ちむどんどん」のないただ生きて在るだけの生(ゾーエー)は人生に値しない、と私は言った。これは暴言と思われても仕方がない。少なからぬ人間、特に若者は「ちむどんどん」なき人生に苦悩しているからだ。今の腐敗した世界のどこに人間が本当に「ちむどんどん」できるものがあるのか。勿論、甲子園を目指す高校球児を筆頭に、青春には何らかの「ちむどんどん」があるのが一般的だと思われる。自分にこれといった才能がなくても、「推し」をつくって「ちむどんどん」することはできる。地下アイドルでも二次元アイドルでも何でもいい。それは実質的にモノに対する「ちむどんどん」への回帰ではあるけれども、オタクの「ちむどんどん」を否定する謂れはない。今は多様性の時代。たとい男性が女装に「ちむどんどん」しても、もはや変態と罵られることはない。実際、お金さえあれば、この世界は様々な快楽装置に溢れていて、「ちむどんどん」の泉は涸れることがないだろう。しかし、本当にそうか。問題はお金ではない。たといお金に不自由していなくても、お金で得られる「ちむどんどん」など高が知れている。そこに虚しさしか感じない人も少なくないだろう。何故か。そうした「ちむどんどん」に人生の本当の喜び、人間が人間として生きることの本当の充実がないからだ。ここに人間の根源的なニヒリズムがある。お金で買える娯楽の「ちむどんどん」は言うに及ばず、今の世の中の「ちむどんどん」の大半は私的領域に限られている。私はそれを一概に否定しようとは思わない。むしろ、個人幻想としての「ちむどんどん」も対幻想としての「ちむどんどん」も享受したいし、日常の何でもないようなことに「ちむどんどん」する生活を大切にしたいという思いもある。しかし、それにもかかわらず、それらは究極的な「ちむどんどん」ではない。そういう思いも拭い難くある。率直に言って、人生最高の充実は共働幻想としての「ちむどんどん」にこそあるというのが私の信念だが、人生に究極性(絶対性)を求めることには躊躇いもある。殊に先述のようなファシズムの危険性を意識する時、やはり日常の「ちむどんどん」にこそ人間の幸福があるような気がしてくる。究極的な「ちむどんどん」か、それとも日常の「ちむどんどん」か――私の思いは揺れ続けているが、そこにユートピア実現の喫緊の課題もある。
「ちむどんどん」とファシズム
誰もが何かに「ちむどんどん」する。「ちむどんどん」は生きる意味であり、それなくして人生(ビオス)はあり得ない。言い換えれば、「ちむどんどん」のないただ生きて在るだけの生(ゾーエー)は人生に値しない。人間は自らの「ちむどんどん」を求めて生きている――そう言ってもいいだろう。それは人間の本能なのかもしれない。近くに京王線の電車を見下ろせる絶好の場所があるが、いつも幼い子供たちが群れを成している。自分たちの足下を走り去る電車を実に熱心に見つめている目は正に「ちむどんどん」そのものだ。振り返れば自分自身もそうだったような気がするが、どうして子供は電車とか自動車とか飛行機などの乗物を見ると「ちむどんどん」するのだろうか。昔は「男の子なら乗物遊び、女の子ならお人形さん遊び」と相場が決まっていた。今はどうか。昔はなかったコンピュータゲームが溢れていても、子供の遊びは基本的に変わっていないのではないか。つまり、その基本はモノに対する「ちむどんどん」だ。勿論、それは大人になっても全く消え去るわけではない。しかし、大人になるにつれて、その関心はモノから「自分が何者かになる」というコトへと移行していくのではないか。電車を一例として考えれば、電車というモノから「自分が電車の運転士になる」というコトへの移行だ。言うまでもなく、全ての人が自分の望むコトを成就できるわけではない。しかし、コトは常に転化する。様々な事情で「電車の運転士になる」コトを成就できない場合は「鉄オタになる」コトで補償される。最近よく「推し」という言葉が耳目に触れるが、例えば「アイドルになる」コトと「アイドルの推しになる」コトの間には質的な差異がある。しかし、「ちむどんどん」することに変わりはない。問題はその永続性であろう。モノにせよコトにせよ、その「ちむどんどん」が永続的であるためには私的領域を超える必要がある。単なる自己満足のオタクの次元を超えていく必要がある。その時、「ちむどんどん」はどうなるか。杞憂かもしれないが、私的領域を超える「ちむどんどん」が限りなくファシズムに傾いていくことを私は危惧せずにはいられない。