「ちむどんどん」とファシズム
誰もが何かに「ちむどんどん」する。「ちむどんどん」は生きる意味であり、それなくして人生(ビオス)はあり得ない。言い換えれば、「ちむどんどん」のないただ生きて在るだけの生(ゾーエー)は人生に値しない。人間は自らの「ちむどんどん」を求めて生きている――そう言ってもいいだろう。それは人間の本能なのかもしれない。近くに京王線の電車を見下ろせる絶好の場所があるが、いつも幼い子供たちが群れを成している。自分たちの足下を走り去る電車を実に熱心に見つめている目は正に「ちむどんどん」そのものだ。振り返れば自分自身もそうだったような気がするが、どうして子供は電車とか自動車とか飛行機などの乗物を見ると「ちむどんどん」するのだろうか。昔は「男の子なら乗物遊び、女の子ならお人形さん遊び」と相場が決まっていた。今はどうか。昔はなかったコンピュータゲームが溢れていても、子供の遊びは基本的に変わっていないのではないか。つまり、その基本はモノに対する「ちむどんどん」だ。勿論、それは大人になっても全く消え去るわけではない。しかし、大人になるにつれて、その関心はモノから「自分が何者かになる」というコトへと移行していくのではないか。電車を一例として考えれば、電車というモノから「自分が電車の運転士になる」というコトへの移行だ。言うまでもなく、全ての人が自分の望むコトを成就できるわけではない。しかし、コトは常に転化する。様々な事情で「電車の運転士になる」コトを成就できない場合は「鉄オタになる」コトで補償される。最近よく「推し」という言葉が耳目に触れるが、例えば「アイドルになる」コトと「アイドルの推しになる」コトの間には質的な差異がある。しかし、「ちむどんどん」することに変わりはない。問題はその永続性であろう。モノにせよコトにせよ、その「ちむどんどん」が永続的であるためには私的領域を超える必要がある。単なる自己満足のオタクの次元を超えていく必要がある。その時、「ちむどんどん」はどうなるか。杞憂かもしれないが、私的領域を超える「ちむどんどん」が限りなくファシズムに傾いていくことを私は危惧せずにはいられない。