ユートピアの筋書(2)
楽園に生きている者は楽園を意識しない。楽園を失って初めて人は楽園を意識し始める。楽園とは常に失楽園だと言われる所以だ。私個人の拙い人生を振り返っても、「子供の頃は楽園だった」と思うのは大人になってからだ。尤も、そんなふうに思えるのは恵まれている証拠かもしれない。全ての子供が必ずしも楽園を生きているわけではない。親と死別したり、親に捨てられたり、親に虐待されたり、学校でいじめられたり、幼い頃から悲惨な日々を余儀なくされている子供も少なくないだろう。その場合には失われる楽園さえなく、ひたすら悲惨な日々からの解放だけが求められる。しかし、解放の地はどこにあるのか。この世界のどこにも楽園などありはしない。恵まれた境遇で育った人には子供の頃の楽園の記憶があるかもしれない。ただし、それはもはや失楽園でしかなく、そこに戻ることはできない。況や悲惨な境遇で育った人においてをや。それにもかかわらず、優しい両親の下で生存(ゾーエー)の心配など一切なく日々楽しく過ごす生活(ビオス)がユートピアの原点としてある。恵まれた人ならその原点に長く、もしかしたら一生とどまれるだろう。裕福な親の御蔭で一生涯遊んで暮らせる人生だ。その裕福な親を神と見做せば、エデンの園こそ正にユートピアの原点だと言えよう。貧乏な家に生まれた悲惨な人には夢のまた夢ではあるが、それが夢であることは間違いない。悲惨な人もまた、ユートピアの原点に憧れを抱いている。できれば、自分も金持の子と同じように一生涯遊んで暮らしたいと思っている。しかし、本当にそうか。悲惨な人には予めエデンの園は拒まれているが、そこが解放の地なのか。世の中にはエデンの園を未だに享受している恵まれた人とそれが拒まれている悲惨な人がいるが、その格差が問題なのか。確かに、その不平等も問題ではある。しかし、根源的な問題はユートピアの原点にこそあるのではないか。その原点の超克(ディコンストラクション)、そこからユートピアの筋書は始まる。