ドラマの痕跡
筋書はドラマではない、と私は書いた。しかし、ドラマにも「ドラマ」はないと思わざるを得ない。ドラマは常にすでに「ドラマ」の痕跡でしかない。あるいは我々が表現できるのは「ドラマ」の痕跡でしかない。例えば、確か小川国夫の作品だったような気がするが、次のような光景が不意に思い出される――
夏祭りを楽しんだ恋人の二人が、その帰路でチンピラたちに絡まれ、近くの廃屋に連れ込まれる。そこで女性はチンピラにレイプされる。男性は助けようとするが、他のチンピラに殴られ、羽交い絞めにされ、結果的に自分の恋人がレイプされる一部始終を目にすることになる。やがてチンピラたちが去った後、廃屋にはレイプされた女性と助けられなかった男性が残される。心身ともに傷だらけの二人はこれからどう生きていくのか。もう二度とかつてのようなバラ色の恋人同士ではいられない。死んだ方がマシだという現実。それでも生き続けていくとしたら――
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さて、この光景からは様々なドラマが想定できる。チンピラたちへの復讐。恋人たちの心中。古い恋の終わりと新しい恋の始まり。文才があれば、そこから興味深いドラマが生み出されるだろう。俳優と演出家に恵まれれば、各方面から高く評価される話題作になるかもしれない。しかし、そこに「ドラマ」はあるか。やはり痕跡しかないのではないか。