オイコスの充実
私の致命的欠陥、何を言っても説得力がない理由の一つは私が家庭を築いていないことにある。人生を個人幻想・対幻想・共同幻想の三層として理解すれば、私には対幻想がスッポリと抜け落ちている。こんな男が「オイコスの幸福にとどまるな!」と叫んでも、全く説得力がないのは当然だろう。私はそのことを深く自覚している。反省している。けれども、今更どうしようもない。私は私自身の立場で人生の諸問題について思耕していくしかないのだ。そもそも私はオイコスの幸福を軽視しているわけではない。できれば私もそれに浴したいと思っている。ただ、人生の理想はオイコスの幸福に尽きるものではない――そう考えているにすぎない。「考えるな。感じろ!」というのも一つの生き方だが、私は究極的な人生の真理を見極めたい。このように「究極的なもの」を熾烈に求めること自体が一つの病なのかもしれないが、それならそれで仕方がない。私は病みつつ生きていこうと思う。
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さて、愚痴はこれくらいにして本題に戻ることにする。或る武漢の住民はコロナの危機に際して次のように語ったそうだ。「本当に必要なのはどのような政府なのか。それは一人一人の根本的な利益を真に守ることができる政府だということを人々が理解することを期待している。この根本的な利益とは、財産だけにとどまらず、命に関する事でもあるのだ!私はまず何よりも人間、生きた人間でありたいのだ!申し訳ないが、危機の際に我々の自助自滅を強いる政府と国家など、私は愛することなどできないのだ!」ここには民衆の偽らざる本音がある。彼にとって最も重要なのは自らの私的領域であり、そのオイコスの幸福に他ならない。そこでポリスが必要とされるにしても、それはオイコスの幸福を守るためのものでしかない。しかし、ポリスとは果たしてそのようなものなのか。