二重運動の必要性 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

二重運動の必要性

「新生・新しき村綱要」において、私は「新しき村(の往相)はあくまでも社会運動ではあるが、単なる社会運動に尽きるものではない。新しき村は一般的な意味における宗教ではないが、その本質は深く宗教運動に切り込んでいく。それが新しき村の運動の還相に他ならない。そうした往相と還相の二重運動、すなわち水平の次元における社会運動と垂直の次元における宗教運動の螺旋的統合にこそ新しき村の独自性(世界史的意味)があり、我々がその実現を目指す根源的理由もある」と述べた。私個人としては後者の運動、すなわち宗教運動に究極的関心がある。マルクスと共に「宗教の批判はあらゆる批判の前提だ」と考えているからだ。その意味において、今カルトに救いを求めている多くの人々が新しき村に関心を抱いてくれることを私は切に望んでいる。実際、未だ画餅にすぎないものの、様々な問題に苦悩する人間が結集・連帯する「新生・新しき村」が実現すれば、それは一種のカルト集団と見做されるだろう。少なくとも世間はそう判断する。確かに、新しき村に限らず、そもそもあらゆるコミューン運動は世間一般にとって胡散臭いものであり、そこには常にカルトへの危険性がある。しかし、新しき村はその危険性を深く自覚し、それを超克していく場所だと私は信じている。その根拠となるものこそ、新しき村における二重運動、すなわち社会運動と宗教運動の螺旋的統合に他ならない。それは「天国の批判は地上の批判と化し、宗教の批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する」というマルクスの認識と通底している。言うまでもなく、救いはお金では買えない。多額の献金をしても、高価な壺を購入しても、そんなところに真の救いはない。そのような大審問官的手法によって人間を救おうとするカルトを新しき村は断じて容認しない。かくして宗教のラディカルな批判は社会変革と相即することになるが、そこに新たな危険性があることを我々は決して見逃すべきではないだろう。