暗殺とトロッコ問題 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

暗殺とトロッコ問題

トム・クルーズ主演の「ワルキューレ」という映画を観た。シュタウフェンベルクというドイツ将校によるヒトラー暗殺計画を描いたドラマだ。これはかなり大掛かりな、しかし結果的には極めて杜撰なクーデタ計画だったが、そこには「独裁者暗殺」に対する一片の躊躇もない。あるのは「悪の排除」に対する鉄の信念だけだ。その信念に関しては、ゲオルク・エルザ―のような個人的試みにおいても変わらない。しかし、信念は暗殺を正当化し得るのか。例えば、エルザ―の時限爆弾はヒトラーを殺すに至らず、不運にもその場に居合わせた八名の生命を奪う結果に終わった。他にも多くの重軽傷者を出したが、これはエルザ―にとっても不運なことであっただろう。しかし、たといヒトラー暗殺が成就していたとしても、それに伴う周囲の人々の犠牲は不可避であった。そのことについてエルザ―はどう考えていたのか。やはり「悪の排除」のためにはやむを得ない犠牲と考えていたのか。

ところで、倫理学にトロッコ問題というものがある。暴走するトロッコ(トロリー)の先では五人が作業している。このままでは五人を轢き殺してしまう。しかし、自分は分岐器の傍にいて、トロッコの進路を変えることができる。ただし、別の進路の先にも一人が作業中だ。自分は進路を変えるべきか否か、という問題だ。五人と一人。数だけを考えれば、五人の生命を救うために一人の生命を犠牲にすることは正当なことだ。疑問の余地はない。少なくとも一人を救うために五人を犠牲にすることよりも妥当だと判断される。しかし、それで本当にいいのか。言うまでもなく、これは単純に答えが出せるような問題ではないが、その一人がヒトラーだったらどうか。人は躊躇なくトロッコの進路を変えるだろうか。あるいは逆に、その一人が自分の最も愛する人だったらどうか。現実には様々な場合があり、数だけの問題で判断することはできない。重要なことは、たとい最終的には数の問題に行き着くとしても、その判断には死ぬほど苦悩すべきだ、ということだ。ユートピアとは、正解などどこにもない問題に死ぬほど苦悩する場所に他ならない。

おそらく、世間一般の常識からすれば、正解などどこにもない問題に死ぬほど苦悩することは時間の無駄でしかないだろう。実際、トロッコ問題に直面すれば、死ぬほど苦悩している時間的余裕などはない。それよりも事前に「人間の生命には価値の格差などあり得ないので、トロッコ問題に際しては端的に数の問題で判断すべし。その結果、一人の生命が失われても、その判断をした者に罪はない」と明文化する法律を制定しておいた方が良い。そうすれば、人はどんな場合でもその法律に従って判断・行動すればいいのであって、そこには如何なる苦悩も罪の意識も生じないだろう。実に理想的な解決だと言える。しかしながら、こうした他律的な解決はパラダイスの理想ではあっても、断じてユートピアの理想ではない。パラダイスではあらゆることがマニュアル化され、人はそれに従っていれば快適な生活が約束される。ユートピアは違う。根源的に違う。ユートピアではあらゆることを主体的に考えなければならず、正解のない問題にも死ぬほど苦悩することが要請される。果たして、こんな面倒くさいユートピアには魅力がないだろうか。やはり快適で便利なパラダイスの方が好ましいのだろうか。