新・ユートピア数歩手前からの便り -68ページ目

新しき村は理想主義のカリカチュアか(7)

「剛球一直線」の藤村甲子園と並んで、いやそれ以上に野球少年としての私が憧れたのは星飛雄馬(マンガ「巨人の星」の主人公)だ。余談ながら、作者によれば飛雄馬(ひゅうま)という名は「ヒューマン」に由来するそうで、彼の野球人生は人間としての苦悩に満ちている。それは父・一徹から「大リーグボール養成ギプス」なるものを装着させられたことから始まっている。実際、飛雄馬の野球人生は「大リーグボール」を生み出すための苦悩の連続として理解することができる。では、「大リーグボール」とは何か。最初、それは藤村同様の豪速球だったが、次第に魔球化していき、バットを狙う魔球(1号)、消える魔球(2号)、そして最終的にはバットをよける超スローボールの魔球(3号)へと進化していく。尤も、「新巨人の星」まで含めると話は別だが、「豪速球に始まり、超スローボールに終わる」とした方が「大リーグボール」としては首尾一貫するように思う。しかし、重要なことは「大リーグボール」の完成度ではなく、あくまでもそれを生み出すに当たっての飛雄馬の苦悩だ。彼は幼い頃から父・一徹の教えに従って「大リーグボール」の完成を目指す「野球マシン」になるべく血の滲むような努力を重ねてきたが、「大リーグボール1号」の後あたりからそのことに疑問を感じ始める。殊に野球の本場アメリカから、黒人のスラムから這い上がるために「野球マシン」と化すことを余儀なくされたオズマの出現(中日ドラゴンズに助っ人として入団)に触発されて、「自分はオズマのような野球マシンにはなりたくない!」と強く思うようになる。これに対して一徹は「完璧な野球マシンになることが野球人としての完成だ」という態度を貫くが、飛雄馬はそれに反抗する。しかし、彼は具体的に何をしたか。年俸の倍増を要求したり、ボウリングなど若者が楽しむレジャーに現を抜かすこと、すなわち四六時中野球のことばかり考えているストイックな聖人からお金や娯楽に対する欲望に執著する俗人への転落でしかなかった。果たしてそのような転落が「マシンになること」への反抗と言えるのか。甚だ疑問に思わざるを得ない。飛雄馬自身もやがて美奈という真摯に生きている女性との出会いを通じて自己欺瞞に気づき、再びストイックな生活を取り戻していく。しかし、野球に賭ける自らの人生に対する苦悩が終わったわけではない。そこに藤村甲子園との決定的な違いがある。

さて、野球の例を挙げて問題をむしろ更に錯綜させたような気もするが、問題の核心はあくまでも理想主義の貫徹にある。飛雄馬の苦悩に見られるように、それは常に聖なるものと俗なるものの間で揺れ動く。一般的には「理想主義は聖なるもの、現実主義は俗なるもの」とされるが、私はそうした二元論を粉砕したい。と言うより、そうした二元論に基づく理想主義こそカリカチュアに他ならない。聖なるものと俗なるものに引き裂かれる飛雄馬の苦悩の先に真の理想主義への道が開ける。

新しき村は理想主義のカリカチュアか(6)

かつて野球少年だった頃、私は藤村甲子園(水島新司のマンガ「男どアホウ甲子園」の主人公)の「剛球一直線」に憧れた。それが野球少年としての私の理想であった。藤村は速球しか投げない。尤も、その晩年には変化球も投げていたようだが、私の理想としてはあくまでも速球一本での勝負だ。そして、誰よりも速い球を投げることに夢中になった。しかし、速球とは何か。マンガでは剛球としてあるが、他にも豪速球とか快速球という表現もある。生来深く考え込む傾向のあった私は、自分の理想とする速球の在り方について思い悩んだ。しかし、剛球や豪速球は重いナタでズバッと断ち割る感じだが快速球は軽やかなカミソリでスパッと切り裂く感じだなどと考えているうちに、そんなことに思い悩んでいる自分がほとほと嫌になった。そもそも自分の貧弱な身体能力で投げられる速球など高が知れている。到底プロのレヴェルには達しえない。それにスピードが問題であれば、人間は所詮ピッチングマシンには敵わない。人間の身体的能力の限界がどうであれ、その限界に挑戦することはマシンに近づくことでしかない。私はそのようにして世界一の速球を投げられない自己を正当化した。言うまでもなく、それは知的能力についても同様で、人間は今やAIに勝てなくなっている。すなわち、投げるボールのスピード、走るスピード、情報処理のスピードなどが価値を有する水平の次元では人間の理想はマシンになることでしかない。実際、スポーツ選手がその典型だと思われるが、激しい練習によって超人的プレイを可能にする人体改造はマシンと化すことを目指している。テレビでクイズ王と称して活躍している人たちもまた、どんな出題にも瞬時に答えられるマシンと化しているようだ。受験勉強もまた然り。しかし、改めてよくよく考えてみれば、マシンは人間ができないことをするために生み出されたものであり、その「全知全能」のマシンに少しでも近づくことは人間の能力向上に他ならない。そこに理想を見出すことは強ちおかしなことではないだろう。とは言え、それはあくまでも水平の次元における価値観によるものであり、マシン崇拝こそ理想のカリカチュアではないか。少なくとも私は、数値化できる能力に人間の理想を見出すことができなくなった。それもまた私の醜悪な自己正当化なのだろうか。

どうも言いたいことがストレートに言えないが、「剛球一直線」に憧れていた少年の私は明らかに水平の次元しか見ていなかった。いや、厳密に言えば、未だ水平も垂直も意識していない次元に私は生きていたのであり、そこで目に見えるものの価値の追求に夢を見ていたにすぎない。しかし、それは理想ではなかった。鄙見によれば、人は夢に挫折して初めて理想を見出すことができる。従って、水平の次元で夢を追求できている限り、その人にとって「人間の理想を追求する拠点としての新しき村」は全く必要ないものだ。尤も、このように言ってしまうと、新しき村の理想主義はどうも出家者のそれに似てくるように思われる。殊に、水平の次元における夢の追求こそが現実だと確信している世俗者(大衆)からすれば、その現実を超えようとする理想主義者は出家者に等しいものだろう。しかし、それは断じて私の本意ではない。新しき村の理想主義は世俗者と出家者の在り方を共に超克していく。

新しき村は理想主義のカリカチュアか(5)

少し開き直って言えば、たといカリカチュアだと嗤われても、理想主義がなくなるよりはマシだろう。理想主義を貫く――それは打たれる可能性が高いのを承知の上で、敢えて直球勝負を挑むようなものだ。大衆はそれを「馬鹿の一つ覚え」と言う。当然の嘲笑だ。勝つためにはカーブやフォークといった変化球も投げる必要がある。それは今や少年野球でも常識だ。しかし、勝つことが全てなのか。勿論、勝負である以上、勝つことは至上命令だ。しかし、それにもかかわらず、勝つことより重要な何かがあるのではないか。その何かを求めることが理想主義に他ならない。とは言え、勝負に理想主義を持ち込むこと自体を現実主義者は嗤い続けるに違いない。馬鹿は死ななきゃ治らない。やはり致命的に甘いのだろうか。

例えば、かつて高校球児だった松井選手が甲子園で相手チームに連続敬遠されて、結果的に松井選手のチームが敗れたことを思い出す。その際、敬遠の指示を出した相手チームの監督に対する賛否両論が巻き起こった。言うまでもなく、敬遠はルールに何ら反するものではなく、ましてやそれによってチームを勝利に導いたのだから、むしろ客観的には称賛されるべき戦術だ。なのに何故、その立派な戦術に非難めいた声が上がったのか。考えられる主観的な理由は唯一つ、「高校野球は正々堂々と真向勝負すべし!」という理想主義によるものだ。確かに、敬遠は正当な戦術ではあるが、強打者との真向勝負を回避することは「勝負の理想(美学)」に反する。しかし、「勝負の理想」を優先して松井選手と真向勝負していたらどうなったか。おそらく、高い確率で高校生離れした天才強打者の松井選手に打ち込まれ、結果は逆になっていただろう。では、理想を犠牲にしてまで勝つよりも、キレイに負けた方が良かったのか。ここで我々は決定的な分岐点に立つ。勝負に徹するか、それとも勝負を超える何かを求めるか。現実主義と理想主義。人それぞれ考え方、生き方は違うだろうが、全ては自らの実存に垂直の次元が切り込んでくるかどうかのカイロスによると私は考えている。垂直の次元とは無縁の水平的人間(大衆)には理想主義は永久に目に入らない。

新しき村は理想主義のカリカチュアか(4)

結局、恩寵も阿片ではないか。現実主義者は執拗にそう批判するに違いない。私はそれに対して反論できない。するつもりもない。所詮、論証できる問題ではないからだ。勿論、私にとって恩寵は阿片などではない。恩寵は現実逃避ではなく、むしろ現実に深く切り込んでいく力を与えてくれるものだ。理想主義は必然的に現実主義に敗れるが、恩寵はその必然的敗北を、さて何と表現すべきか、未だ相応しい表現を生み出せないが、何か全く新しいものに転化させる。取り敢えず、イロニーからフモールへの転化と言っておく。現実主義は理想主義を嗤うが、恩寵はその嗤いを笑い飛ばす。そこに祝祭が生まれる。祝祭は断じて「理想主義のカリカチュア」などではない。尤も、カリカチュアも一種の笑いと言えなくもないが、それはあくまでも水平の次元における笑いであり、厳密にはイロニーと言うべきだろう。垂直の次元における笑いであるフモールとは質的に全く異なる。

ちなみに、私も若い頃は結構バラエティー番組を楽しみに観ていたが、最近は殆ど観なくなった。殊に今のお笑い番組には全く興味が湧かない。それでも時に息抜きに観てみるが、下らない悪ふざけの連続でウンザリする。笑いたくても笑えない。端的に言えば、そこには笑いがない。尤も、お笑い芸人は今や若者たちの憧れの職業の一つであり、現在も「最初はパー」と題するお笑い芸人を目指す人たちのテレビドラマが放映中だ。しかし、情熱を以てお笑い芸人を目指している人たちには申し訳ないが、今人気絶頂の芸人たちにしても、そこに笑いは見出せない。あるのはカリカチュアだけだ。大衆はカリカチュアの笑いで満足できるかもしれないが、我々は更に高次の笑いを求める。それがフモールに他ならない。「高次の笑い」などという表現は絶望的に粋ではなく、フモールには全く相応しくないけれども。

新しき村は理想主義のカリカチュアか(3)

理想主義と現実主義が戦えば、前者は必ず敗れる。必然的な敗北が理想主義の本質だと言ってもいい。例えば、ケン・ローチが「大地と自由」において描いたスペイン革命。反ファシズムという共通の理想を求めながら、アナーキストとスターリニストは異なる運命を辿る。すなわち、アナーキストは必然的にスターリニストに敗れる。もしアナーキストがもっと現実的だったら、おそらく勝利していただろう。しかしアナーキストは理想を重視した。理想を失えば、もはやアナーキストではない。だからアナーキストは、たとい負けるとわかっていても、理想を放棄することができない。愚直と言えば、これ以上の愚直はない。ただし、問題は理想への愚直なまでの執著にではなく、あくまでも理想の重視が現実の軽視をもたらしたことにある、そう考えるのが一般的だ。とは言え、理想と現実、両者共に重視することなどあり得るのか。それは自然法則に反し、理想と現実の両立を望むこと自体が理想主義の空想ではないか。確かに、現実は重力のようなもので、この物理的世界に生きる限り、我々はそれに抗えない。上にあるものは必ず下に落ちる。理想主義が必ず現実主義に敗れるように。弱肉強食の自然世界の鉄則だ。それにもかかわらず、その鉄則に敢えて反抗を試みるならば、ヴェイユの言うように、その可能性は恩寵に求めるしかない。正にこの恩寵こそ垂直の次元に他ならない。我々は重力に徹底的に抗いながら、愚直に恩寵を待ち望む。

新しき村は理想主義のカリカチュアか(2)

「人道主義のカリカチュア」とは如何なる意味か。そもそも人道主義が悪だなどと思う人は皆無だろう。むしろ、誰しも人道主義は善だと信じている。しかし、人道主義を貫いて生きようとすると、たちまち愚直だと嗤われる。現実がわかっていないと非難される。例えば、今のウクライナにおいて(ロシアにおいても基本的には同じだが)「戦争は人殺しであり人道に反する。それ故、自分は兵士にならない」と主張すればどうなるか。結果的に、その人道主義はロシアの侵略を許容することでしかないだろう。殺さなければ殺される。それが現実だ。実篤は「殺されても死なないもの」を問題にしたが、これなどは正に愚の骨頂に他ならない。しかし、その愚をただ嗤っているだけでは、人道に反する醜悪な現実は永久に一ミリも動かない。それでいいのか。少なくとも我々は人道を貫く理想主義に全てを賭ける。その覚悟がある。甘いと嗤われてもいい。それは確かに極めて愚かなことではあるが、決して苦悩がないわけではない。ましてや断じてカリカチュアなどではない。ラディカルな理想主義としてのユートピアは空想性や反動性の対極に位置する。では、ラディカルな理想主義とは何か。

新しき村は理想主義のカリカチュアか

三木清の「構想力」と共に、西田哲学の現代的発展の可能性を私は鈴木亨の「労存」並びに「響存」に見出している。それらに学びながら「祝祭共働態」の具体相を摸索しているが、その途上で、鈴木亨の次のような言述に遭遇した。

「大正にいたって、日本においてヒューマニズムと呼ばれたのは、さきの内村鑑三などの潮流であるキリスト教人道主義が、トルストイなどの影響と相まって、主として文学上に現れたものであった。そしてその頂点を形造るものは有島武郎であり、のちに白樺派の文学運動となっていったものであろう。

有島は自己の土地を小作人に解放したり、文学の上で人間への愛情豊かな思想をあらわしたが、しょせん貴族の慈善的・博愛主義的性格を脱するものではなく、たんに自己の個人的良心の満足を超えるものではなかった。しかもこの個人と社会との矛盾はついに彼をして自殺にまでかり立てねばやまなかったのは周知の通りである。有島によってそれでも自己の奥底にまで達した人道主義は、その後継者たちにあっては、個体の内面へも深められず、社会の外面へも働き得ず、苦悩をもたない人道主義として、ヒューマニズムそのものの本質を失いつつ、エゴイズムにまで堕し去ったのである。そして武者小路実篤の新しき村運動において人道主義は一つのカリカチュアとなりおわっている。」(鈴木亨「現代文明と人間の運命」)

果たして有島は「貴族の慈善的・博愛主義的性格」の人でしかなかったのか。しかし、鈴木の有島理解の妥当性はここでは不問に付す。問題は我々の新しき村運動が「人道主義のカリカチュア」と見做されていることだ。鈴木はどれほど深く新しき村運動について思耕したのか。本当に我々の運動は「苦悩をもたない人道主義」なのか。

鈴木は更に「新しき村運動の空想性と反動性を指摘し、批判したものの一人は、自己をたんなる人道主義者から科学的社会主義者にまで高め得たヒューマニスト河上肇であった」と述べ、最終的には「河上肇において日本のヒューマニズムが一つの典型を表現したものと言えよう。この日本人民のヒューマニズムに根ざす革命的潮流は、あらゆる弾圧に屈せずして、ファシズムが荒れ狂う間も奥深く流れ、ついに一九四五年連合諸国の反ファシズム軍とともにファシズムを壊滅させたのであった。ここに日本人民のヒューマニズムが脈動している」とまで称揚している。確かに、当時の実篤の天皇に対する姿勢からすれば、その反動性を批判されても仕方がない面もある。その空想性についても、すでに大杉栄などからの鋭い批判もある。しかし、そうした批判は深く胸に刻みつけながらも、私は科学的社会主義がヒューマニズムの極北だとは到底思えない。周知のように、「空想から科学へ」と和訳されているエンゲルスの著作の原題は「Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft」、すなわち「ユートピアから科学(学問)への社会主義の発展」だ。一般的には「ユートピア=空想」というのがほぼ常識になっているが、私はその常識を覆したい。少なくとも「新生・新しき村」は空想性とも反動性とも無縁のものだ。そのことについて少し思耕を試みたい。

補足:大衆抹殺論と基督抹殺論

わざわざ「大衆抹殺論」などという誤解を招きそうな言葉を選んだのは、私の念頭に幸徳秋水の「基督抹殺論」があるからだ。秋水は次のように述べている。

「基督教徒が基督を以て史的人物となし、其伝記を以て史的事実となすは、迷妄なり、虚偽也。迷妄は進歩を妨げ、虚偽は世道を害す。断じて之を許すべからず。即ち彼が仮面を奪ひ、粉粧を剥ぎて、其真相実体を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去ることを宣言す」

これは聖書神学における所謂「史的イエス」の問題に通じるものであり、要するに「歴史上のイエスは信仰のキリストではない」という主張に他ならない。その意味では、学問的には比ぶべくもないが、秋水の「基督抹殺」はブルトマンの「新約聖書の非神話化」に等しいと言える。ただし、それは表面的な相似にすぎず、深層的な問題意識は全く違う。端的に言えば、秋水は「イエスはキリストではない」という無神論的結論で安易に満足しているのに対し、ブルトマンはその結論を前提にしながらも「イエスとキリストの関係」に死ぬほどの苦悩を重ねているのだ。そこに「非神話化」から「実存論的解釈」への必死の飛躍がある。確かに、キリストは大衆の阿片かもしれない。阿片は根絶されなければならない。しかし、大衆が阿片で救われてきたというのは厳然たる事実だ。阿片を根絶すれば、大衆の絶望だけが残される。それでいいのか。いいわけがない。されど阿片の容認など論外だ。では、どうすべきか。阿片の根絶は、阿片を必要とし、阿片でしか救われない大衆の抹殺と相即すべきだ。少なくとも私は「大衆抹殺」と「基督抹殺」を表裏一体のものとして考えている。

補足:大衆抹殺論とホロコースト

大衆抹殺などと物騒なことを言えば、多くの人はホロコーストを連想するに違いない。しかし、それは誤解だ。むしろ大衆抹殺はホロコーストの対極に位置する。大衆抹殺はアウシュヴィッツでは実現しない。では、アウシュヴィッツでは何が行われたのか。人間の抹殺だ。ユダヤ人絶滅を命じたのは独裁者ヒトラーだが、その命令を無批判に受け入れたアイヒマンは陳腐な大衆であった。もし当時のドイツ市民がそれを見て見ぬふりをしていたのなら、その人たちも大衆に他ならない。独裁者と大衆、それら二つがワンセットになってホロコーストを実施した。これは決して対岸の火事ではない。同様の状況に直面した時、果たして私は大衆であることを否定して、単独者として行動できるかどうか。至難の業だと思う。皆が群れて一人をいじめている時、私はこの一人のために「やめろ!」の一言を発することができるのか。発すれば、今度は私が大衆の餌食になるかもしれない。怖い。大衆のまま何もせずに流されて生きていた方が幸福になれるだろう。この大衆の幸福に対して「否!」と叫ぶことのできる人が実際どれだけいるだろうか。私は殆ど絶望せざるを得ない。しかし、「否!」と叫ばなければユートピアへの道は切り拓けない。大衆抹殺論なくしてユートピア論の完成はあり得ない。

補足:大衆抹殺論に向けての対話

「あなたは大衆をひどく嫌悪していますね」

「私も大衆の一人だから、自己嫌悪です」

「あなたも大衆ですか」

「残念ながら」

「知識人だと思っていました」

「そんなわけがないでしょう。私に碌な知識などありません。私は大衆です。ただし、不断に大衆であることを否定しようとしている大衆です」

「往生際が悪いですね。さっさと否定して、立派な知識人になればいいでしょう」

「どうして大衆の否定が知識人になるのですか」

「違いますか。大衆の反対語は知識人でしょう」

「私はそうは思いません」

「では何ですか」

「私は大衆の本質は群れることにあると考えているので、その反対は決して群れない人、すなわち単独者です。知識人だって群れることがあり、その場合には知識人も大衆に他なりません。と言うより、今の知識人の殆どは大衆知識人ではないでしょうか」

「それであなたは単独者になりたいんですね。寂しくはありませんか」

「寂しい?どうしてそう思うのでしょう。単独者は群れませんが、孤立もしません。単独者は連帯します。いや、単独者こそが人間の連帯を可能にするのです」

「連帯がそんなに重要でしょうか。私には何だか重過ぎますね。むしろ、気楽に群れて遊べる大衆の方が人生を楽しめるように思いますが」

「そうかもしれません。私が大衆を否定しきれない一因もその辺りにあるでしょう。しかし私は群れる人間の存在を認めたくないのです。人間は群れると一変します。誰かをいじめる人間は例外なく群れています。繁華街で何らかの事故が生じた時、その被害者を救助することなく、スマホでその様子を撮影することばかりに夢中なのは大抵群れる人間です。一人きりだったら決してあんな醜悪な行為はしない。そして一人だったら、その一人一人が連帯して被害者を助けようとするでしょう。群集心理とよく言いますが、大衆は堕落した人間です」

「なのに大衆を否定しきれない。何故ですか」

「本能だからです。大衆と単独者に引き裂かれるのは人間の運命だと言ってもいいでしょう」

「大衆抹殺は見果てぬ夢ということでしょうか」

「そうですね。少なくとも、大衆抹殺しても、そして誰もいなくなった、ということにはなりません。むしろ、逆です。世界の大衆支配がこのまま増大していけば、やがて人間は誰もいなくなった、ということになるのは必定です。だから大衆抹殺論が必要になるのです」

「くわばらくわばら」