補足:大衆抹殺論と基督抹殺論 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:大衆抹殺論と基督抹殺論

わざわざ「大衆抹殺論」などという誤解を招きそうな言葉を選んだのは、私の念頭に幸徳秋水の「基督抹殺論」があるからだ。秋水は次のように述べている。

「基督教徒が基督を以て史的人物となし、其伝記を以て史的事実となすは、迷妄なり、虚偽也。迷妄は進歩を妨げ、虚偽は世道を害す。断じて之を許すべからず。即ち彼が仮面を奪ひ、粉粧を剥ぎて、其真相実体を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去ることを宣言す」

これは聖書神学における所謂「史的イエス」の問題に通じるものであり、要するに「歴史上のイエスは信仰のキリストではない」という主張に他ならない。その意味では、学問的には比ぶべくもないが、秋水の「基督抹殺」はブルトマンの「新約聖書の非神話化」に等しいと言える。ただし、それは表面的な相似にすぎず、深層的な問題意識は全く違う。端的に言えば、秋水は「イエスはキリストではない」という無神論的結論で安易に満足しているのに対し、ブルトマンはその結論を前提にしながらも「イエスとキリストの関係」に死ぬほどの苦悩を重ねているのだ。そこに「非神話化」から「実存論的解釈」への必死の飛躍がある。確かに、キリストは大衆の阿片かもしれない。阿片は根絶されなければならない。しかし、大衆が阿片で救われてきたというのは厳然たる事実だ。阿片を根絶すれば、大衆の絶望だけが残される。それでいいのか。いいわけがない。されど阿片の容認など論外だ。では、どうすべきか。阿片の根絶は、阿片を必要とし、阿片でしか救われない大衆の抹殺と相即すべきだ。少なくとも私は「大衆抹殺」と「基督抹殺」を表裏一体のものとして考えている。