ユートピアの筋書(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ユートピアの筋書(10)

おかしな夢をみた。私は新しき村の会合にいた。二十名ほどいただろうか。廃墟に等しいビルの殺風景な一室。それは会合と言うよりも、誰かを糾弾する除名裁判のようであった。「あいつは我々を裏切った!」と私の隣にいた男が叫んだ。一体、誰のことを言っているのか。私は周囲を見廻した。知っている顔があるようなないような、皆ぼんやりとしたペルソナで座っていた。すると、そのぼんやりとしたペルソナの一つが「私は裏切者ではない」と静かに言った。その後、「新しき村の精神を忘れるな!」とか「実篤先生は許さない!」という声が次々と一人の男に浴びせ掛けられたが、何分夢のことなのではっきりと覚えていない。ただ何となく、矢継ぎ早の糾弾に対して男はその都度「いや、違う」と力なく繰り返していたような気がする。「君はどう思うか」――私も意見を求められたに違いないが、私は何と答えたのか。これもよく覚えていないが、「排除の論理」に対する嫌悪だけが心に深く沈殿している。こんなものは新しき村じゃない! そんな絶望的な思いが胸に溢れる息苦しさで私は目を醒ました。実に嫌な夢であった。しかし、その夢の中の光景はユートピアの筋書には不可避だと思った。ユートピアを求めていけば、必ずあのような光景に直面せざるを得ない。そこにユートピアの運命がある。

さて、最近世間の耳目を集めている統一教会にしても、かつてのオーム真理教にしても、その熱心な信者たちもユートピアを求めていたに違いない。言い換えれば、一般社会の論理(それは往々にして競争を促すものだ)に絶望した人々はそれとは別の論理(それは往々にして共生を謳うものだ)を宗教に求めた。これは非難されるべきことだろうか。確かに、高額の献金や霊感商法などは常軌を逸している。とても正気の沙汰とは思えない。しかし、そうした狂気をカルトと称して宗教と区別しても何も解決しないだろう。健全な宗教と危険なカルトという区別をしたところで、宗教は常にカルトと化す危険性を胚胎しているし、カルトにおける宗教性を否定することもできないからだ。重要なことは、世間の常識では狂気としか思えないカルトにかくも多くの人々が救いを求めている現実に他ならない。少なくともユートピアの筋書にカルトの狂気は不可避だ。とは言え、私はそれを単純に肯定するつもりはない。あくまでもカルトの狂気を超克する筋書を摸索している。そのためにもやはり、カルトにしか救いを見出せない人間の心の闇を更に深く凝視しなければならない。そうした凝視なくして、ユートピアの筋書の新たな展開など到底望めないだろう。