ユートピアへの絶望(8)
私はかつて、漱石に学んで「馬鈴薯と金剛石」という対比について思耕したことがある。「肉体の糧と魂の糧」という対比だ。最近の文脈で言えば、「ゾーエーに必要なものとビオスに必要なもの」という対比に相当する。「馬鈴薯と金剛石」はそれぞれの象徴だが、馬鈴薯はともかく、金剛石を「魂の糧」や「ビオスに必要なもの」の象徴とすることには違和感があるかもしれない。それは金剛石という一物質にすぎないものに「魂の糧」を見出すことへの違和感だ。おそらく、「魂の糧」は物質を超越する聖なるものだというのが一般的な見解だろう。金剛石などという俗なるものが「魂の糧」になる道理がない、多くの人はそう思う。しかしながら、聖なるものは俗なるもの(物質)に受肉して初めて現実的な力をもつ。すなわち、美しい金剛石も一つの石(物質)にすぎないが、そこに聖なるものが受肉すれば立派な「魂の糧」になるのだ。勿論、あらゆる物質にはそうした受肉の可能性がある。「肉体の糧」であるお米だって穀霊になる。もっと卑近な例を挙げれば、推し(アイドル)の存在さえ「魂の糧」になる。しかし、それは当の本人にしか理解できぬ逆説であって決して普遍的な意味を有するものではない。或る人にとって金剛石は「魂の糧」になるが、他の人にとっては単に高価で美しい石にすぎない。そんな金剛石ではあるが、日常の基本的な生(剥き出しの生)には全く必要ないものという意味では「魂の糧」に相応しい象徴だと言うこともできる。「肉体の糧」の必要性は誰にとっても自明で普遍的なものだが、「魂の糧」の必要性は人それぞれ異なる個別的なものだ。こうした必要性の質的差異は理想社会の追求を極めて複雑なものにする。そもそも人間の不幸は「肉体の糧」の欠如に由来する。「食うものがない」ということ以上に切実な問題はない。従って、誰もが「食うに困らぬ生活」の実現、戦争のない、貧困のない、平穏無事な生活の実現が理想社会の第一歩となる。しかし、それはあらゆるイキモノに共通する問題であって、どんなに切実であっても、やはり人間に固有な根源的問題とは言い難い。人は馬鈴薯のみにて生くるにあらず。それぞれの「魂の糧」が満たされて初めて理想社会は究極的に実現する。少なくとも私の求めるユートピア活動は「肉体の糧」の充足に尽きるものではない。それは「魂の糧」の次元をこそ切り拓くものでなければならない。とは言え、それは多くの人々にとって「大きなお世話」ではないか。全世界の人間の「肉体の糧」の充足までが普遍的かつ公的な問題であって、それ以後の「魂の糧」の充足は個別的かつ私的な問題に他ならない。すなわち、「肉体の糧」の充足までは共働するが、各自の「魂の糧」の充足にまで踏み込んでくれるな、それは甚だ迷惑だ、ということだ。その場合、「魂の糧」とは畢竟、個人の趣味の問題でしかない。果たして、本当にそうだろうか。「魂の糧」とは、「肉体の糧」の充足後の余暇に個人の趣味を楽しむような、そんな浅薄なものでしかないのか。僭越ながら、薄っぺらな現代社会の有様に私は深く絶望せざるを得ない。