パラダイスの批判(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

パラダイスの批判(3)

有名な笑い話がある。終日ノンビリと釣りをしている怠け者が友人から「いつまでも遊んでいないで働いたらどうだ」と非難される。怠け者は言う、「何のために働くのか」「裕福になるためだ」と友人。「裕福になるとどうなる」「一日中ノンビリと釣りをして暮らせる」「それなら俺はもう今しているじゃないか」という話だ。勿論、野暮を承知で言えば、怠け者のノンビリとした生活はこのままでは持続しない。親が大金持だとか宝くじに当選するなどの幸運でもない限り、人間はずっと怠け者でいることは許されない。働かざる者食うべからず。これは人間生活の基本原則だ。しかし、ノンビリとした無為の生活が人生の目的なら、一刻も早く労働から解放されることが理想とされるだろう。例えば、マルクスの娘婿であるポール・ラファルグには『怠ける権利』という名著があるし、ボブ・ブラックというアナキストは「労働廃絶論」を世に問うている。最近では中国に「寝そべり族」なるものが登場しているし、日本でもギリギリFIRE(経済的自立の早期退職)の生活態度が話題になっている。こうした傾向はパラダイスにも言えることだ。すなわち、かつてはモーレツに労働することでしかパラダイスは手に入らないと信じられていたが、今やパラダイスも大きく変質している。大豪邸に住むパラダイスは時代遅れとなり、たとい狭いアパートの一室であっても、自分の好きなことをしていられるなら、そこがパラダイスとなる。実際、マンガやゲームに没頭して終日遊んで暮らしている引きこもりの子供を我々は如何にして批判できるのか。そもそも批判することが正しいのか否か。「遊んでばかりいるな!」と批判する勤勉な大人たちも、内心は羨ましく思っているのではないか。嫌々労働している大人たちと好きなことをして遊んでいる子供たち。どちらがパラダイスに生きているのかは明白だ。しかしながら、後者もそんなに幸福そうに見えないのは何故か。パラダイスには生の充実に必要な決定的な何かが欠けている――私はそう思わずにはいられない。