間奏曲:汗顔の至り | 新・ユートピア数歩手前からの便り

間奏曲:汗顔の至り

昨日は前田速夫さんの最新刊『未完のユートピア』の出版を記念する集まりが東京は東中野であり、私も前田さんとの対談という形で参加させて戴いた。もとより対談などおこがましい限りで、生来口下手な私としては前田さんのお話を適宜補足することができれば幸いと思っていた。それでも唯一つだけ、「ユートピア」という一般的には余り評判の良くない言葉、すなわち「理想主義」同様、現実の諸問題から遊離したキレイゴトとしか見做されない言葉の復権、というと大袈裟だが、今「ユートピア」を問題にすることの意味を改めて考える必要性を訴えたいと念じていた。そのためには当然、アルカディアとパラダイスとの関係を明らかにしなければならないが、自分の内部ではすでに明確であることも、いざ他人様(ひとさま)の前で話そうとすると実は未だ多くが曖昧なままであることに気づかされる。結果、しどろもどろになる。これは何も今回ばかりではなく、私はいつも同じことを繰り返している。余談ながら、エドガー・アラン・ポーに「Mystification」という作品があるが、これは通常「煙に巻く」と和訳されている。私にとって「ユートピア」は本来「語り得ぬもの」であり、一種のmysteryに他ならない。ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と明言しているが、語り得ぬものこそ最も語りたいもの、語らねばならぬものだろう。沈黙は決して言葉の放棄ではない。「沈黙の言葉」と言うと、すでに新たなmysteryだが、語り得ぬものを如何にして語るのか。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」と或る人は詩っているが容易なことではない。少なくとも今の私にとって、「ユートピア」という世界(場)は「絶対矛盾的自己同一」や「coincidentia oppositorum」という言葉同様、依然としてmysteryの閾にとどまる。そして、自分自身を「煙に巻く」ことができても、他人様を「煙に巻く」ことはできない。そもそもリアリティのmystificationは現実逃避でしかないだろう。私は「ユートピア」の究極的リアリティ(現代社会に不可欠の意味)を確信しているが、やはりそのmystificationという安易な道に逃れてきたような気がする。正に汗顔の至りだ。今後はユートピアのリアリティを「煙に巻く」ことなく、どうしたら他人様に伝えることができるか、そのことを中心にこの拙い「ユートピア便り」を続けていきたいと思っている。