新・ユートピア数歩手前からの便り -63ページ目

垂直図書館(5)

「居場所のない人の居場所」をつくる――これが「新生・新しき村」の根源的な使命だ。ただし、一口に「居場所のない人」と言っても様々な場合がある。先月のETV「100分de名著」は北条民雄の「いのちの初夜」だったが、かつてのハンセン氏病患者は一般社会に居場所がなかった。「居場所がなかった」と言うよりも、完全隔離によって「居場所を奪われていた」と言うべきだろう。その状況は今ではかなり改善されているとは言え、同様の苦しみは他の病気や障碍、あるいは部落のような社会的差別においてもある。それは明らかに人間の理想に反している。感染症などの正当な隔離を除いて、人間の理想は可能な限り包括的であるべきだと私は思う。すなわち、「居場所のない人」が一人もいない社会の実現に他ならない。しかし、それはキレイゴトではないか。そもそも「居場所のない人」はどうして生まれるのか。

先日、私は「ルポ死亡退院:精神医療・闇の実態」というドキュメンタリーを観た。八王子の或る精神病院の実にひどい患者虐待の実態だ。日常的に虐待を繰り返す看護師たちとそれを指示する院長の悪が糾弾されるべきは当然だが、そうした非人道的な場所に患者を隔離した家族と行政の悪を見逃してはならない。むしろ、我々の問題にとっては後者の悪、実質的に患者を一般社会から見棄てた悪にこそ注目しなければならない。とは言え、我々は本当にその悪を非難できるのか。「必要悪」という言葉が何度も繰り返し発せられた。家族や行政とて人非人ではない。精神を病んだ人の居場所を何とか見つけたいと努力したに違いない。できれば家庭に居場所をつくりたいと思ったが、やがて手に負えなくなる。精魂尽き果てて、やむなく行政に頼る。行政は適当な病院を探すが、普通の病院では盥回しにされる。結果、八王子の病院のような劣悪な場所にしか行き場がなくなり、そこが患者にとっての終の棲家になる。もし八王子の最悪病院が受け入れてくれなければ、患者はこの世界のどこにも居場所がなくなるだろう。「家に帰りたい…」と患者が泣いて訴えても、家族は引き取りを拒否する現実。この現実に直面して、人々は「必要悪」という言葉を繰り返すしかない。この「必要悪」を如何にして超克すべきか。この問題と格闘するために要請される場所が垂直図書館だ。

垂直図書館(4)

図書館に来る人の大半には明確な目的がある。受験勉強に集中できる静かな空間を求めて来る人もいれば、巷で話題のベストセラー本をタダで読むために来る人もいる。勿論、何かを真面目に調べるために来る人もいるだろう。しかし、中にはこれといった明確な目的もなしに来ている人も少なくない。例えば、失業者とか不登校の学生だ。こうした人たちは家庭や学校に居場所がなくて、フラフラと図書館に辿り着いた漂流民のような感じがする。特に寒さが厳しいこの季節、暖かい館内は快適であり、新聞・雑誌にあらゆるジャンルの書籍など、行き場のない人の暇潰しには最適の場所だと言えよう。しかも、市民の憩いの場でもあるべき図書館としては、たとい明確な目的もなくやって来る漂流民といえども、これを排除することなどあり得ない。しかし本音を言えば、かかる漂流民は図書館にとって「招かれざる客」ではないか。少なくとも、歓迎されているようには見えない。何故か。先述の「図書館の二階構造」に即して言えば、漂流民には図書館の「一階」にも「二階」にも用がないからだ。漂流民にとって、図書館は言わば「無料休憩所」にすぎない。喫茶店にせよ居酒屋にせよ、店に入って暇を潰そうとすれば当然お金がかかる。その点、図書館はタダで何時間いても追い出されることはない。正に図書館は行き場のない人にとってのパラダイスに他ならない。ただし、それはあくまでも束の間のパラダイスであり、決して持続可能な場所ではない。それにもかかわらず、たとい刹那的であっても、図書館が「居場所のない人の居場所」になっている現実には大きな可能性があると思われる。では、図書館が今後「居場所のない人の居場所」として真に発展していくためには何が必要であろうか。

垂直図書館(3)

「建物は一階があってはじめて二階が存在します。にぎわいをつくるとか地域おこしやまちおこしをするための図書館機能というのは「二階」部分の話なのです。まずは誰もが必要とする本や雑誌、あるいはオンラインデータベースやインターネットアクセス、さらには電子書籍の展開も含めた基本機能の提供が「一階」にあたります。

こうした図書館の基本機能は日本の図書館が、戦前からの歴史のなかで勝ち取ってきたことであり、社会的に保証してきたことであるため、この機能の後退を招く必要はまったくないと思います。

たとえ「貸し出し至上主義」などと言われようが、必要とするものを貸し出しも含めて利用できるということが図書館の恒久的な基本機能です。基本機能が正しく用意できたうえで、まさにまちづくりなどの機能としての「二階」の特性をいかに持ち合わせていくかということが大切です。

そうすれば、図書館がまちを支え、さらにまちが図書館から生まれていくことができます。にぎわいをつくるのも大切なのですが、まずはきちんと情報・知識を提供する場であることが重要なのです。」(岡本真・森旭彦『未来の図書館、はじめませんか?』)

こうした「図書館の二階構造」の指摘は注目に値する。水平図書館は明らかに「二階」に重点を置いた場所だが、「一階」がなければ単なるリクリエーションの場、すなわち娯楽の場になってしまうからだ。何か面白いイベントを企画して、人が多く集まって賑やかになればいいということではない。少なくとも「新生・新しき村」はそのような「村おこし」を目指すものではない。勿論、私は人が多く集まって賑やかになることを否定しない。むしろ、それが当面の課題だと思っている。しかし、問題は人が集まる目的だ。図書館の場合、先の引用にある通り、「情報・知識へのアクセス」が基本的な目的となる。つまり、人は自分に必要な情報・知識を得るために図書館にやって来る。ただし、一口に情報・知識と言っても様々だ。リラックスするために娯楽小説や落語・音楽のCD、映画のDVDなどを求めて来る人もいれば、何かの研究や仕事のための文献・資料を求めて来る人もいるだろう。これは図書館の「一階」部分だが、この基本的目的がどのようにして「二階」部分、すなわち人々の賑わいやまちづくりに繋がるのだろうか。一般的には、図書館に足を運ぶ目的は「一階」の基本機能だけで充足してしまうのではないか。せいぜい考えられる可能性としては、自分が読んだ本の感動を他者と分かち合う書評会(合評会)のようなものでしかないと思われる。しかし、その程度のことであれば、別に図書館で行わなくても、近くの喫茶店に場所を移して行った方がいいだろう。かくして水平図書館の問題点が浮き彫りとなる。率直に言って、「図書館の二階構造」は素晴らしいが、「一階」と「二階」の関係が未だ有機的に結び付いていないような気がする。ここに水平図書館の限界がある。

垂直図書館(2)

最近はゲーム機まで置いてある図書館があることを知って驚いたが、図書館法にリクリエーションが目的として明記されていることからすれば、別に驚くことではないだろう。むしろ、当然と言うべきかもしれない。すでにCDやDVDは当然のように場所を占め、図書館は確実に市民が寛げる憩いの場、更に言えば娯楽の場に「進化」しつつある。実際、今私が利用している図書館にも様々な人が訪れている。季節柄、受験生の姿が目立つが、労務者風のおじさん、何をしているのかよくわからないおばさん、暇を持て余したおしいさんにおばあさんなど千差万別だ。中には精神的に少し不安定ではないかと思われる若い人たちもいて、図書館という空間への興味は尽きない。勿論、改善すべき点は多々あるが、総じて公共図書館の「進化」の方向は間違っていないような気がする。私はそれを水平図書館の本質だと理解したい。水平図書館はあくまでも個々の市民の私的領域、すなわちそれぞれが自由に憩うことのできる場所であるが、さりとて単なる娯楽の場ではない。言わば、公的領域の数歩手前に位置している。いや、それが公共図書館である以上、水平図書館はすでに公共的な空間であることに違いはない。しかし、そこには未だ公的なものが構成される可能性はない。ただ、個々の私的な快楽を満たす公共空間があるだけだ。そのような空間は真の公的領域とは言えないと私は思う。

垂直図書館

杜撰な思耕で理念的なことばかり追ってきたので、ここで少し具体的な実践について書いてみたいと思う。結局、私は何を実現したいのか。「失われた次元」の再構築、すなわち人間の「生きる意味」を織り出すために不可欠な垂直の次元の再構築だ。「垂直の次元」などと言うと、何か特別な聖域と思われるかもしれないが、決してそうではない。むしろ、日常的に人が多く集う「場」を考えている。とは言え、やはり娯楽の場とは違う。確かに、人が多く集まる場所と言えばディズニーランドのような行楽地が連想され、それも必要な「場」であることに違いはない。また、新宿の歌舞伎町のような盛り場を夜の「新しき村」にするという構想も断念したわけではない。少なくとも私が求めている「垂直の次元」はそうした世俗的な場所と無縁ではない。それは聖なるものと俗なるものが祝祭的に共働する「場」であるからだ。しかし、当面の問題として、そのように抽象的な祝祭共働態をいきなり望むことは明らかに現実的ではない。そこで「垂直の次元」の具体相について思耕を続けている最中だが、最近は図書館の可能性に注目し始めている。周知のように、図書館法の第2条には図書館の定義が次のように記されている。

 

「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体が設置する公立図書館と、日本赤十字社又は一般社団法人、若しくは一般財団法人が設置する私立図書館がある」

 

また、現在私が利用している故郷の多治見市図書館の要覧の「私たちが目指す図書館」という項目には「図書館で情報に出会い、仲間と出会う。人とひと、人と情報をつなぐ場を提供します。……お互いが助け合い、より良く生きていくために、情報を通じ市民生活の質の向上に努めます」という文言がある。もとより私が求めている図書館の理想はこれに尽きるものではないが、これからの図書館が単なる「無料貸本屋」を超えて、人と人が出会い、人間が連帯する「場」になっていく可能性は大いにあるように思う。このことについて少し考えてみたい。

かなしいあきらめ

「フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかったしモオパスサンは知っていた。……ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。以上。」(太宰治「逆行」)

 

ユートピアを求める者はお坊ちゃんである。パラダイスの実現を目指す者は大人である。社会の理想は所詮、市民への奉仕の理想である。このかなしいあきらめを、理想主義者は知らなかったし労働者は知っていた。垂直の次元に「生きる意味」を求める者こそ、お坊ちゃん。以上。

 

今時、わけのわからぬ難解な純文学を一体誰が求めているのか。善良なる市民の多くが必要としているのは、日々の労働の疲れを癒してくれる娯楽のサブカルチャーだ。刹那的でもいい、スカッとした気分にしてくれるマンガやドラマだ。実際、よく売れているのはそうしたエンターテインメントの商品ばかりではないか。この現実に目を閉ざして、いつまでも純文学に固執している者はお坊ちゃん。以上。

確かに、悲惨な現実に直面していない理想主義者はお坊ちゃんと批判されても仕方がない。実篤を中心とした白樺派も同様にお坊ちゃん集団と見做されてきた。しかし、大杉栄のような人も、かつては白樺の精神に熱くなったのではなかったか。たといそこにお坊ちゃんと批判されるような甘さがあったとしても、その情熱だけは信じたい。少なくとも私はお坊ちゃんの理想を、ただお坊ちゃんだという理由だけで切り捨てたくはない。私は敢えて「かなしいあきらめ」を踏み越えていく。

補足:生き甲斐と生きる意味

余暇の楽しみを馬鹿にするような書き方をしたが、それは私の本意ではない。娯楽を生き甲斐とする人、娯楽の消費者であれ娯楽の生産者であれ、その人の命の輝きに偽りはない。例えば、ショー・ビジネスの世界。日々の労働に疲れた人が束の間の癒しを求めて劇場に足を運ぶ。その観客を少しでも楽しませようと命を懸けて素晴らしいショーをつくる人たちがいる。そうした娯楽の生産と消費には双方に生き甲斐がある。私はそのことを否定しない。むしろ、羨ましく思う。水平の次元にも生き甲斐はある。命の輝きはある。勿論、それは余暇の楽しみに限らない。殆どの人にとって労働は「命の再生産」のために嫌々するものだが、労働そのものが生き甲斐である幸福な場合もあるだろう。医師とか、教師とか、弁護士とか、他者の命に関わる所謂聖職者の労働がその典型だが、世間では危険で汚いとされる非聖職の労働にだって生き甲斐の可能性はある。尤も、金儲けだけを生き甲斐にしている労働者もいないわけではないが、そんなクズどもはここでは問題にしない。問題は「水平の次元にも生き甲斐はあり、それで十分ではないか」ということだ。言い換えれば、敢えて垂直の次元に「生きる意味」を求める必要があるのか、という問題に他ならない。

補足:「命の再生産」としての労働

私は命を軽視するつもりはない。命(ぬち)どぅ宝。命ほど大切なものはなく、命の持続こそが「普遍的な幸福」の大前提となる。ただし、無為自然の楽園が完全に失われてしまった以上、命が自然に持続することなどあり得ない。原罪によるものかどうかは別として、人の「命の再生産」は労働によって得るしかない。Arbeit macht frei.これが鉄則だ。しかし、労働は「命の再生産」はできても「生きる意味」を生み出すことはできない。「命の再生産」と「生きる意味」の創造との間には質的断絶がある。こうした私の見解は一般の理解を超えているだろうか。

一般的に、人は労働して賃金を得て命を繋いでいる。言うまでもなく、その賃金は基本的に「命の再生産」費に見合うものであり、自分と家族の衣食住の費用は当然ながら、次世代の労働力となる新たな命の出産・養育費、そして自分自身の命を磨くアップグレード費から成っている。要するに、労働の対価は今日と同じように明日も明後日も持続的に労働することを可能にする費用に他ならない。そのように「命の再生産」を果たしていくわけだが、かかる労働の循環が「生きる意味」をも生み出すとすれば、それは余暇の楽しみでしかない。すなわち、労働を長期的に楽しく持続できるように、定期的に命をリフレッシュさせる余暇の楽しみ、例えば友人と居酒屋で一杯やったり趣味のゴルフをしたり、更には家族で旅行したりすることなどが要請されるのであり、それが「生きる意味」になるということだ。実際、休日の薔薇色の余暇の楽しみのために、平日の灰色の労働に耐えている人も少なくないだろう。そうした人たちに「あなたの生きる意味は?」と問えば、「余暇の楽しみ」と答える人が大半を占めると思われる。しかし、果たして余暇の楽しみは「生きる意味」になるだろうか。厳密に言えば、余暇の楽しみは「命の再生産」に属するものであって「生きる意味」にはなり得ない。私はそう考えざるを得ない。とは言え、余暇の楽しみを生き甲斐に日々の労働に励んでいる人を私は批判するつもりはない。しかし、その生き甲斐は労働の次元、すなわち「命の再生産」を核とする水平の次元を超えるものではない。「生きる意味」は否応なく労働=水平の次元を超えていく。その創造に人間本来の活動がある。

補足:命と生

命(ゾーエー)と生(ビオス)の区別に違和感を覚える人は少なくないだろう。命ある限り人は生きる。これは自然の理だ。しかし、「命があるだけでは本当の生ではない」と言ったらどうだろう。それは人間の虚妄にすぎないのか。例えば、マラソン選手が事故に遭い、一命をとりとめるために止む無く足を切断したとする。彼は生きている。足を失った御蔭で命がある。しかし、足を失った命に「生きる意味」はない。彼にとってマラソンが「生きる意味」だったからだ。足の喪失は生の喪失でもある。「命があっても生がない」とはこのような状況を指す。勿論、足を失ってもマラソン選手は義足とか車椅子でマラソンを続けることができる。それによって生の次元を新たに切り拓くことができる。あるいは、マラソンとは全く別の新たな「生きる意味」をつくり出すこともあるだろう。それが何であるにせよ、「生きる意味」は命の次元とは質的に異なる生の次元において生み出される。おそらく、この点に違和感があるのではないか。すなわち、「生きる意味」は命の次元にだってあるという違和感だ。果たしてそうか。

生きる意味(10)

目の前に立ちはだかっている壁の向こうに更に大きな壁があるとしても、我々の今為すべきことは目の前の壁を崩すことだ。疑問の余地はない。従って、戦争の終結、いじめの根絶、環境破壊の改善などが我々の喫緊の課題となる。すなわち、幸福な人生の実現だ。ただし、それは全世界の人が等しく享受できるような「普遍的な幸福」でなければならない。例えば、ウクライナの幸福がロシアの不幸になってはならない。もしくは、或る特定の地域の住民だけが幸福になっても不十分だ。しかし、世界がぜんたい幸福になるような普遍性など現実にあるだろうか。トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭は全て互いに似通っている」と述べているが、それは人生の最大公約数的な幸福にすぎない。いや、最小公倍数的な幸福と言うべきか。人の能力は様々だ。高次の幸福を目指し続ける人もいれば、低次の幸福で満足する人もいる。現実社会に格差が生じるのはやむを得ないが、大金持であれ貧乏人であれ、「家庭の幸福」という形だけは不変だ。格差はあくまでも量的なものであって、決して質的なものではない。しかし、本当にそうか。

さて、私は自分の問題意識が一般から大きくズレていることを自覚している。殆ど誰も共感しない。この拙い便りを書いている間も、「生きづらさを抱えて日々生きている人たちの本当の苦しさをお前は全くわかっていない」という声なき声が始終耳の奥底で響いている。実際、「生きる意味」なんてどうだっていい。むしろ、「お前は生きている意味のないクズだ!」と周囲から言われ続けてきた人にとって、「生きる意味」は自分の自由な人生を束縛する足枷でしかないだろう。「生きる意味」よりも生きづらさが遍く解消される幸福の方が大事、と言うよりも人を生きづらくさせているのは「生きる意味」なのかもしれない。ただし、この場合の「生きる意味」は親や教師が一方的に押し付けてくる世間一般の価値にすぎない。例えば、「偏差値の高い学校への入学」とか「高収入で社会的地位の高い職業に就くこと」だ。それらを満たすことのできるエリートたちは「生きる意味」があり、満たせないクズどもは「生きる意味」がないと見做される。ちなみに、今の学校にはスクール・カーストなるものがあり、容姿や学業・スポーツの優劣などで一軍・二軍・三軍といった階層が自ずとできているそうだ。論理的には一軍のみに「生きる意味」があることになるが、現実には二軍・三軍にもそれなりに一軍より質的に劣った「生きる意味」はあるだろう。「三軍の自分には一軍のような華やかな人生は望めないが、それなりに幸福な人生を送ることはできる」というわけだ。これが現実だとしたら、余りにも寂しすぎないか。一軍の幸福と二軍・三軍の幸福が棲み分けられるような現実ほど醜悪なものはない。では、この醜悪なる現実を変革するためには何を為すべきか。生きづらい世の中を少しでも生きやすくするためには何を為すべきか。カーストを生み出す「生きる意味」の粉砕か。逆だ、と私は思う。我々は世間が一方的に押し付けてくる「生きる意味」ではなく、真の「生きる意味」を生み出さねばならない。それは如何にして可能になるのか。課題はやはり、「次元の転換」に他ならない。