不便であることの理想
有朋自遠方來。不亦樂乎。せっかくの遠方からの来客なので、どこにでもあるチェーン店ではつまらないと思い、古民家風の居酒屋に入った。茶室の躙口(にじりぐち)のように狭い玄関で、友人も私も頭をぶつけた。靴を脱いで、農家の土間のようなカウンター席に座って「さて、何を注文しようか」と辺りを見廻してもメニューがない。壁にもどこにも品書はない。やや途方に暮れながら、カウンターの向う側で忙しく立ち振る舞っているおばさんに声をかけると、「今日は筍がおいしいわよ」というような言葉が返ってくる。「じゃあ」ということで、それを注文する。値段はわからない。そんな調子で酒を呑み、料理を口にした。美味しかった。店内の雰囲気も良かった。予想通り、会計は安くなかった。おそらく、こうした明確なメニューもないような店は、店の人と客とのコミュニケーションを通じて、酒と料理を楽しむのであろう。だから、そこで酒と料理を本当に楽しむためにはそれなりの時間とお金を要する。これを不便と感じるか否か。
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一般的に言えば、チェーン店の方がはるかに便利であることは間違いない。最近はタブレットで、従業員をわざわざ呼ばなくても自由に簡単に注文できるし、値段も明記してある。現時点での会計も常時確認できる。そこに店と客のコミュニケーションなど基本的に必要ない。すでに一部では導入されているが、今後ロボットなどが全面的に導入されれば、従業員さえも不要になるかもしれない。世の中はどんどん便利になっていく。文字通りのコンビニでは一言も口をきかなくても買い物ができる。確かに、便利な社会はパラダイスに他ならない。しかし、それが我々の望む真の理想社会なのか。
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ところで、NHKに「子供たちのための哲学」という短い番組があって、先日のテーマは「便利っていいことなの?」であった。「色々な新しいモノができて便利になった」という子供に対して、「じゃあ、そういうモノがなかった昔の人たちは不幸だったの?」と問いかける。子供は悩みながらも「便利なモノに溢れている現代に生きる自分たちに比べて、昔の人たちは不幸だった」とは言い切れないことに気づく。昔だって幸福な人はいたに違いない。何故か。番組ではそれ以上深く子供に問い詰めることはなかったが、昔の人はモノのない生活を不便だとは感じていなかったからだろう。新しいモノが出現して、初めてそのモノの欠乏が不便を生み出す。では、新しいモノは出現すべきではなかったのか。いや、そんなことはない。新しいモノの出現が人々の生活を便利にし、便利な生活が人々に幸福をもたらしたのは事実だ。しかしその一方で、便利すぎる生活に対する根強い反感があるのも事実だ。そうした反感を抱く人々は新しいモノを拒絶し、敢えて完全なる自給自足という不便な生活を望む。それはアルカディアへの回帰と言ってもいいだろう。そこには確かに一つの理想がある。不便であることの理想だ。便利なパラダイスの理想と不便なアルカディアの理想。現代はそうした二つの理想に引き裂かれている。
新しい戦前
人気タレントのタモリ氏が現代を評して「新しい戦前かもしれない」と呟いたそうだ。その感覚はよくわかる。目に見えない危機の予感。現代は再び「自由からの逃走」を繰り返すのか。人は何故、自由から逃走するのか。本当に自由ではないからだ。現代人が自由だと思って享受しているものは大審問官から与えられた自由にすぎない。それは本当の自由ではない。では、「本当の自由」とは何か。「人は自由に呪われている」とはサルトルの言葉だが、そもそも我々に「本当の自由」を生きる覚悟があるのか。
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ウクライナの戦火は未だ消えない。しかし、日本は平和だ。時に爆弾を投じるバカが現れるが、一般大衆の失笑を買うだけだ。陽気も好くなり、来るべきゴールデンウイークには多くの人々が行楽地に出かけることだろう。そこにはパラダイスがある。人々はパラダイスで自由を享受する。しかし、パラダイスの自由は「本当の自由」ではない。それは爆弾では得られない。現代は新しい戦前になりつつある。
Never!
少し前に録画していた映画「ウィンストン・チャーチル:ヒトラーから世界を救った男」(原題:Darkest Hour)を観た。周知のように、ドイツやイタリアにおけるファシズムの急成長にもかかわらず、一貫して平和の維持を求めてきたチェンバレンの後任としてチャーチルは登場した。当然、チャーチルはファシズムに対する徹底抗戦を主張する。やがてアメリカが参戦して結果的に連合国が勝利した「勝てば官軍」の歴史観からすれば、平和(講和)を求めたチェンバレンは負け犬であり、チャーチルは英雄とされるのが「常識」となっている。この映画も例外ではない。ただし、ドイツ軍の破竹の進撃という当初の圧倒的な現実に直面して、流石に強気のチャーチルも講和を考慮せざるを得なくなる。弱気になったチャーチルは滅多に利用しない地下鉄に乗り、そこで市民たちにドイツとの講和の可能性について尋ねる。市民たちの答えは「Never!」たといロンドンが廃墟と化しても、自分たちはファシズムと最後まで戦い抜くと市民たちは口々に訴える。こうした市民たちの言葉に力を得て、チャーチルは議会で挙国一致による徹底抗戦を訴える一世一代の演説を為し、講和派も含めた議会全体が「Never! Never surrender!」と叫ぶシーンがこの映画のクライマックスに他ならない。正に、めでたしめでたし。
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しかしながら、地下鉄の車内で市民たちが口々に「Never!」と叫んだのは史実であろうか。あの時点でも英国はすでにかなりの戦死者を出していた。徹底抗戦が決まった後もロンドン空爆などで計り知れない犠牲者が出ることになる。確かに、独裁者には屈しない、自由を死守する、という大義はある。そして、大義のためには如何なる犠牲も厭わないという決意は輝かしいドラマを生み出す。しかし、多くの一般市民にとって、大義よりも日常のささやかな幸福、すなわち恋人とデートしたり、家族と旅行したりすることの方が大事だという現実もあるのではないか。もし大義よりも大事な生活があるならば、たといナチスが天下をとったとしても、一刻も早い戦争終結の方が望ましいだろう。そう考える市民がいてもおかしくない。つまり、徹底抗戦よりも早期講和、Never surrender!よりもNever fight!ということだ。真理はどちらのNeverにあるのか。
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さて、私はこの映画を観ながら、かつての日本にチャーチルのような男がいたらどうなっていたか、と空想していた。勿論、英国と日本では状況が違うので単純な比較は意味を成さないが、あくまでも空想として日本の徹底抗戦、すなわち本土決戦について考えずにはいられなかった。おそらく、更なる原爆が東京他に投下され、日本は破滅していただろう。徹底抗戦は狂気の沙汰であり、事実、殆どの日本国民は終戦=敗戦を歓迎したとされている。しかし、本当にそうだろうか。それで良かったのだろうか。いや、私は決して「たとい日本が滅んでも徹底抗戦=本土決戦すべきだった」と言いたいのではない。私はただ、戦後の日本が大義を失ってしまった現実を問題にしたいだけだ。今の日本に大義はない。あるのは小市民の私的領域における幸福が最優先される「常識」だけだ。この「常識」に抗して大義を問題にすれば、たちまち右傾化と罵られる。この現実に生きづらさを感じている者はユートピアを求めるしかない。小市民のパラダイスを超克するユートピア。それは断じて現実逃避などではない。Never!
新しくする人
小学四年生の頃、テレビで忠臣蔵のドラマを観て、その夜に熱を出したことがあった。遅すぎる知恵熱だったろうか。赤穂浪士の生き様=死に様は実にカッコイイが、自分も同じことができるだろうか。切腹するのは嫌だなぁ…、などと考えていたら熱を出していた。今から振り返ってみると、幼い私は大義の重さに苦しんでいたのだと思う。同志は皆、立派に大義に殉じていく。自分も同じようにしなければならない。しかし、大義とは何か。大義より恋を選んで離脱した同志もいたが、自分はどうか。大義を信じ切れるのか。私は大義に圧し潰されそうになり、その重圧は様々に形を変えて今でも続いている。
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さて、私は昨日、「42:世界を変えた男」というアメリカ映画をBSで観た。黒人初のメジャーリーガーとして活躍したジャッキー・ロビンソンの伝記的映画だ。公民権運動以前の人種隔離が常識だったアメリカ社会で黒人が主体的に生きることの苦しさを改めて痛感した。映画では、ジャッキー・ロビンソンその人の苦闘もさることながら、彼をメジャーリーグに受け容れようとしたブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキー(ハリソン・フォードが演じる)の闘いも感動的に描かれていた。私はこの二人を中心にした闘いに目には見えない大義を見た。おそらく、黒人は黒人、白人は白人、と別々に生活していれば波風は立たないだろう。現実は黒人の白人への隷属であっても、そこに平和があることは間違いない。しかし、リッキーとロビンソンはその平和を破壊した。それによって(自身にも周囲にも)様々な軋轢が生じたが、そこには大義があった。古き世界の「平和」を破壊して、新しき世界をつくる大義があった。その大義はやがて多くの人に理解されるようになり、今や新しき世界の「常識」になった。残念ながら、その「常識」は未だ完全に根付いているとは言えないが、世界を新しくする人の運動が終わることはない。目に見える大義の衝突に絶望的な気分に陥りながらも、私はそう信じている。
目に見えるものと見えないもの(10)
余談ながら、私は法学部に入学したが、三年時に文学部に転部した。或る高名な政治学の教授のゼミで「法律や政治は何ら究極的なものではない。究極的な真理を求めるならば、むしろ法律の死、政治の死をこそ目指すべきだ」と発言したところ、教授の逆鱗に触れ、「近代の社会科学は究極的なものと絶縁することによって成立した。究極的な真理を問題にしたいのなら、君は文学部へ行くべきだ」と叱責された。私は落胆してゼミを去ったが、教授の見解は基本的に間違っていないと思った。それで結局、教授の適切なアドヴァイスに従って文学部に転部したが、それは目に見えるものから見えないものへの転向でもあったように思われる。
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さて、かくして私は目に見えない「究極的な真理」の探究を自らの一生の仕事とするに至ったが、それは目に見えるものを無価値なものとして否定することではない。逆だ。目に見えない理想を求めれば求めるほど、目に見える現実に直面せざるを得ない。その意味では、法学部を早々に見限ったのは若気の至りだったと今では少々反省するところもある。懸命に勉強して法律家なり政治家なりになっていれば、より多くの苦しむ人たちを現実に救う仕事ができたかもしれないからだ。確かに、人は目に見える世界で苦しんでいるのであり、その目に見える苦しみを解決できるのは主に法律であろう。そして、適切な法律をつくるのが政治家だ。少なくとも法治国家では、人々は法律に頼り、何事も法律の力で解決しようとする。法律を守って生きるのが正しい生活であり、法律を破れば厳しく罰せられる。善と悪、正と邪は法律によって厳密に区別される。当然のことだ。しかし、それにもかかわらず、世の中には法律では裁き切れない問題がある。目に見えない真理を求めて苦しんでいる人がいる。そこにこそ人間の取り組むべき「究極的な問題」があり、その解決の可能性は宗教にしかないと私は思っている。ただ、目に見えない筈の真理が目に見える宗教に「発展」する時、宗教は瞬時に人を苦しめるものに転化するから厄介だ。言うまでもなく、目に見えるようになれば宗教も法律で裁くことができる。しかし、そこにはもはや宗教の真理はない。法律の有効性はあくまでも目に見えるものに限られる。目に見える問題との戦い方を学ぶ法学部から「究極的な問題」と格闘する文学部へと転部した私は、目に見えないものの底なしの深淵に転落することを余儀なくされたが、そのこと自体に後悔はない。決して法律の現実的な有効性を疑うものではないが、私のライフワークはやはり目に見えない「究極的な真理」の実現にこそあると依然として信じているからだ。
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何れにせよ、「究極的な真理」は目に見えない。目に見えるものは全て不純だ。とは言え、「究極的な真理」を純粋に維持することが我々の為すべきことではない。目に見えないものが見えるようになれば、当然その純粋性は失われる。それが「究極的な真理」の運命だとしても、我々はその運命から逃げるべきではない。むしろ、運命愛こそが「究極的な真理」を実現する原動力にならねばならぬ。そこに不可視の運動を使命とする者の覚悟が試されている。
目に見えるものと見えないもの(9)
先日のETV「徹底討論:問われる宗教とカルト」のテーマは「信教の自由と法規制」であった。その討論の根柢には明らかに目に見えないものと見えるものとの葛藤がある。周知のように、安倍元首相銃撃事件以後、その背景にはカルトによる不当な寄付勧誘があったとされ、それを規制するために「被害者救済法」が施行された。この新法によって悪辣な霊感商法がなくなれば幸いだが、同時にそうした法規制が信教の自由まで侵害してしまうことが懸念されている。実際、一口に「霊感商法」と言っても、目に見えない霊感を法規制の対象にすることは困難だろう。そもそも宗教とカルト、もしくは正しい宗教と邪教を法的に区別することができるのか。これは究極的には「見えざる教会と見える教会」の問題、すなわち宗教の実定性の問題にまで深化するに違いない。極端な話、見える教会=実定化された宗教は全て邪教=堕落した宗教と見做すことも可能だろう。その場合、真の宗教は目に見えないものであり、その信仰の交わりを目に見えるもの(法律)で裁くことなど不可能になる。ここに一つの 真実がある。そして、この真実を盾にして様々なカルトが成長発展してきたことは間違いない。では、やはり宗教に対する法規制は必要なのだろうか。目に見えないものを目に見えるもので裁くことは可能なのか。
目に見えるものと見えないもの(8)
シェリーのアラストーは夢に見たヴェールの乙女を現実世界に探し求めるがどこにも見つけられない。そうした孤霊の彷徨は物自体にまで辿り着けないクライストの絶望と通底している。詩人は美のイデアを求めるが、目に見える現象としての美はついにイデアの影でしかない。それでも詩人は目に見えないイデアを何とかして表現しようとする。その典型がランボーの言うvoyant、すなわちあらゆる感覚の錯乱によって未知に到達する見者に他ならない。私はそうした詩人の聖なる仕事に憧れている。しかし、詩人への憧憬は永遠だが、私のライフワークは別にある。それは目に見えない聖なるイデアを目に見える俗なる世界に受肉させることだ。とは言え、詩人の仕事を否定するわけではない。聖なる詩人の運動がイデアへの往相だとすれば、俗なるものの聖化を求める私の運動はイデアからの還相だと言える。この二重運動において究極的な理想が実現する。これが私の求める理想主義の根幹に他ならない。しかし今、その根幹が大きく揺らいでいる。二重運動は分離され、目に見えないものを見ようとする詩人は世俗化し続ける世界の片隅に追いやられ、目に見えるものだけが現実を支配している。果たして、これが正しい方向なのだろうか。確かに、目に見えないものに支配された古き世界(魔術の園Zaubergarten)は過去のものとなった。目に見えるものが正しい(王様は裸だ!)とする近代世界がそれを終焉させたのだ。しかし、それは真に新しい世界を切り拓いたのか。我々が今生きている現代社会は真に新しき世界と言えるのか。私はその一点を全世界に向けて問いたい。
目に見えるものと見えないもの(7)
人気女優が不慮の死(自死でもいい)を遂げる。その目に見える美しさはピーク時のまま多くの人々の心に固定される。そして夭折の美学が生まれる。人気女優ならずとも、夭折の美学に憧れる人は少なくないだろう。殊に美少年・美少女にとって、生き続けることは自らの美に対する裏切りに他ならない。美の絶頂において死ぬ。それ以後にあるのは美の崩壊でしかない。確かに、こうした夭折の美学には魔力がある。しかし、それがどんなに魅力的であっても、夭折の美学は自己欺瞞だと私は思う。「美しく死ぬ」など愚の骨頂。本当の美しさは娼婦に堕ちても生き続けるソオニャに宿る。
目に見えるものと見えないもの(6)
美しい花がある。花の美しさは目に見えない。目に見える花の美しさはやがて色褪せる。しかし、目に見えない花の美しさは永遠だ。この永遠性にIdealismus(理想主義)の本質がある。目に見えない花の美しさをイデアとすれば、それは目に見える様々なかたちで現象する。芽吹く美しさ、開花する美しさ、そして萎れる美しさ。それらが目に見えない花の美しさ(イデア)の三態(現象)だと言えよう。一般的には、目に見える花の美しさは開花にピークを迎えるとされるが、芽吹く花にも萎れる花にも美しさはある。当然、それぞれの美しさは質的に異なる現象だが、そのイデアは共に生きている。言わば三位一体だ。
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さて、ドラマを長く観続けていると、中学生か高校生の頃にデビューして、朝ドラのヒロインに大抜擢されるなどしてブレイクし、映画や連ドラの主役を何度も務めた後に、やがて四十代、五十代、六十代と年相応の脇役に転じていく女優の姿に遭遇することがある。言うまでもなく、その女優の美しさのピークは二十代から三十代にかけての姿にあるが、それ以前の初々しい蕾の姿にも、それ以後の老練な枯れた姿にも美しさはあると私は思うようになった。尤も、目に見える美しさの一般的な概念からすれば、ピーク時までの美しさのみが美と認められ、それ以後は美の崩壊と見做されるだろう。多くの場合、女優本人もピーク時までの美しさに固執して、整形などで若さの美を何とかして維持しようとする。確かに、瑞々しい若い顔と皺が刻まれた老いた顔では、前者が美しいとされるのは自然の情であり、不老不死が人の理想であることは否定できない。しかし、若い顔がどんなに美しくても、それは女優の美しさ(イデア)の現象の一つにすぎない。従って、女優の為すべきことは、一現象にすぎぬ若さの美に固執することではなく、自らの目に見えない美しさ(イデア)を老いのかたちで現象させること、すなわち老いた顔に刻まれた皺の一本一本に美を表現していくことに他ならない。
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古来、「女房と畳は新しい方がいい」と言われている。結婚をしたことのない私には確かなことは言えないが、この格言は自然主義に基づくものにすぎない。すなわち、目に見える美しさだけに支配されている。新妻が美しいのは当然だ。しかし、その美しさは経年劣化を余儀なくされる。これまた当然のことだ。それ故、「女房と畳は―」と言われるわけだが、果たして本当にそうだろうか。新妻はやがて母となり、おばあさんになっていく。それは美の劣化であろうか。私はそうは思わない。少なくとも理想主義はそこに移ろいゆく美の現象を見る。「女房と畳は古くなって初めて味わいが出てくる」――ここに理想主義の真骨頂がある。さりとて、古ければいいということではない。イデアと現象の関係には更なる問題が生じてくる。次に、それについて思耕したい。
目に見えるものと見えないもの(5)
目に見えるものと「本当に見る」との間には質的な断絶がある。極端な話、盲目の方が「本当に見る」に近い場合もある。ジッドが「田園交響楽」で問題にしているように、視力を回復したジェルトリュードは真実(現実)を見る力を得たが、目に見えない真理からは遠ざかったように思われる。さりとてジェルトリュードは盲目のままでいるべきだったと言うべきではない。彼女の視力の回復はあくまでも悦ばしきことであった。盲目は醜悪な真実を見ないで済むが、美しい真実を見る視力を放棄する理由にはならない。「春琴抄」の佐助の決断はまた別の理由によるが、盲目への意志は真実に直面することからの逃走(現実逃避)にもなり得る。勿論、盲目には盲目者にしか分からぬ真実があるだろう。盲目であることの苦しさを知らぬ私にはその真実について軽々に語る資格はないが、盲目には視力に優る「本当に見る」力があるように思う。非難を承知で言えば、盲目には目に見えるものに邪魔されずに「本当に見る」力がある。しかし、先述したように、たとい盲目の方が「本当に見る」に近いと しても、盲目が肯定されることにはならない。盲目は言わば経験以前の無垢のようなもので、そこにおける「本当に見る」は未だ本当の意味で実現していないからだ。子供の無垢における真理は大人の経験を経て初めて「真の真理」として実現する。ジェルトリュードは視力を回復して真実を見た。彼女は更に真実の根柢にある「目に見えない真理」を見なければならない。