人間萬歳
先日、或る人が実篤の「人間萬歳」という言葉を激しく非難した。「とんでもないことだ。これほど世の中に悲惨なことが起きているのに、よくもまあ人間萬歳などと寝ぼけたことが言えたものだ。一体、世界をこんなにも腐敗させたのは誰か。人間じゃないか!」という思いだろう。当然の非難だ。それでも一応、「新しき村」の理想に関心を抱く者として反論せねばならぬという衝動に駆られて、「ディープ・エコロジー」の地球第一主義による人間批判は正しいけれども、人間第一主義ではない人間主義もあるのではないか…などと切り出してみたものの、結局うまく言えなかった。周知のように、ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と述べているが、「人間萬歳」という言葉の意味も語り得ぬものだ。しかし、語り得ぬものこそ最も語りたいもの、そして語るべきものではないか。沈黙するわけにはいかない。たとい非難に対する有効な反論にならなくても、私は言葉を紡ぎ出していく。沈黙か言葉か。唐突ながら、そうしたディレンマに直面した私の脳裡に浮かんでいたのはアイヒマンについて語るアーレントの姿であった。アーレントは別にアイヒマンを弁護したわけではない。なのにアーレントはユダヤ人同胞から猛烈なバッシングを受けた。何故か。これもまた語り得ぬものであろう。しかし、一つの究極的な問いが生じる。我々はアウシュヴィッツで「人間萬歳」と言えるのか。もし言えなければ、「人間萬歳」という言葉は無意味だと言わざるを得ない。逆に言えば、アウシュヴィッツで胸を張って言える「人間萬歳」という言葉のみがその意味を本当に輝かせることができるだろう。
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さて、私は本日、1988年に放送されたNHK特集「どんなご縁で:ある老作家夫婦の愛と死」を観た。「最後の白樺派」と称された作家・耕治人氏ご夫妻のドキュメンタリーだ。新しき村との関係も少なからず描かれていたが、番組の中心は認知症になった奥さんと耕氏との日常生活であった。それは如何なる意味においても俗物の生活ではなかった。若き日の耕氏は新しき村に何を求めたのか。また晩年になって耕氏が再び日向の村を訪れたのは何故か。日々ボケていく妻。自身も舌癌に苦しむことになる。一見すると「悲惨」という言葉が浮かんできそうだが、私は「人間萬歳」と心で呟いていた。何故か。これもまた語り得ぬものであろう。
俗物と聖人
偉そうに俗物批判をしているが、私は自分の中に俗物が住んでいることを否定しない。だからこそ私は俗物批判をし続ける。しかし、その批判は私の中の俗なるものを滅却するためではない。少なくとも私の中の聖なるものを生かすために俗なるものを殺すことではない。俗物の反対が聖人であるならば、私は聖人批判もし続ける。先日、比叡山に一人きりで十二年間籠り続ける行(籠山行)を成就した高僧のドキュメンタリーを観たが、正に聖人だと感心した。十二年間も孤独に己事究明に集中することは並大抵のことではない。しかし、聖人は人としての生き方の頂点かもしれないが、「人間として本当に生きること」の往相でしかない。もし聖人であることに満足し、そこに止まるならば、それは人間として中途半端な生き方だと言わざるを得ない。私は俗物と聖人に引き裂かれる現実に生きている。それが私の「この道」であり、その先に人間の究極的な理想が結実すると信じている。