新・ユートピア数歩手前からの便り -59ページ目

人間萬歳

先日、或る人が実篤の「人間萬歳」という言葉を激しく非難した。「とんでもないことだ。これほど世の中に悲惨なことが起きているのに、よくもまあ人間萬歳などと寝ぼけたことが言えたものだ。一体、世界をこんなにも腐敗させたのは誰か。人間じゃないか!」という思いだろう。当然の非難だ。それでも一応、「新しき村」の理想に関心を抱く者として反論せねばならぬという衝動に駆られて、「ディープ・エコロジー」の地球第一主義による人間批判は正しいけれども、人間第一主義ではない人間主義もあるのではないか…などと切り出してみたものの、結局うまく言えなかった。周知のように、ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と述べているが、「人間萬歳」という言葉の意味も語り得ぬものだ。しかし、語り得ぬものこそ最も語りたいもの、そして語るべきものではないか。沈黙するわけにはいかない。たとい非難に対する有効な反論にならなくても、私は言葉を紡ぎ出していく。沈黙か言葉か。唐突ながら、そうしたディレンマに直面した私の脳裡に浮かんでいたのはアイヒマンについて語るアーレントの姿であった。アーレントは別にアイヒマンを弁護したわけではない。なのにアーレントはユダヤ人同胞から猛烈なバッシングを受けた。何故か。これもまた語り得ぬものであろう。しかし、一つの究極的な問いが生じる。我々はアウシュヴィッツで「人間萬歳」と言えるのか。もし言えなければ、「人間萬歳」という言葉は無意味だと言わざるを得ない。逆に言えば、アウシュヴィッツで胸を張って言える「人間萬歳」という言葉のみがその意味を本当に輝かせることができるだろう。

さて、私は本日、1988年に放送されたNHK特集「どんなご縁で:ある老作家夫婦の愛と死」を観た。「最後の白樺派」と称された作家・耕治人氏ご夫妻のドキュメンタリーだ。新しき村との関係も少なからず描かれていたが、番組の中心は認知症になった奥さんと耕氏との日常生活であった。それは如何なる意味においても俗物の生活ではなかった。若き日の耕氏は新しき村に何を求めたのか。また晩年になって耕氏が再び日向の村を訪れたのは何故か。日々ボケていく妻。自身も舌癌に苦しむことになる。一見すると「悲惨」という言葉が浮かんできそうだが、私は「人間萬歳」と心で呟いていた。何故か。これもまた語り得ぬものであろう。

俗物と聖人

偉そうに俗物批判をしているが、私は自分の中に俗物が住んでいることを否定しない。だからこそ私は俗物批判をし続ける。しかし、その批判は私の中の俗なるものを滅却するためではない。少なくとも私の中の聖なるものを生かすために俗なるものを殺すことではない。俗物の反対が聖人であるならば、私は聖人批判もし続ける。先日、比叡山に一人きりで十二年間籠り続ける行(籠山行)を成就した高僧のドキュメンタリーを観たが、正に聖人だと感心した。十二年間も孤独に己事究明に集中することは並大抵のことではない。しかし、聖人は人としての生き方の頂点かもしれないが、「人間として本当に生きること」の往相でしかない。もし聖人であることに満足し、そこに止まるならば、それは人間として中途半端な生き方だと言わざるを得ない。私は俗物と聖人に引き裂かれる現実に生きている。それが私の「この道」であり、その先に人間の究極的な理想が結実すると信じている。

俗物のルサンチマンを超えて

俗物は目に見えるものしか信じない。人を見ても、身体的特徴や身につけているもの、あるいは学歴などで判断する。何が正義で何が悪かということも、目に見える法律だけで答えを出す。美しいものと醜いものを社会的規範で分け、美しいものだけを愛して、醜いものは極力見ないようにする。俗物の人生は実に明快だ。疑念の余地はない。しかし、現実にはそんな単純な俗物ばかりではない。目に見える世界では全てが数値化され、それによって優劣がはっきりと示される。テストで満点を取る人は三十点しか取れぬ人より優れている。しかし、三十点の人は十五点の人よりも優れている。そうした優劣の序列化に俗物は一喜一憂する。そして、少しでも上位のカーストで生きたいと望む。俗物はそれぞれのカーストに棲み分ける。一軍の人生、二軍の人生、三軍の人生……それが現実だと俗物は思い込む。時にその現実を疑うことがあっても、それは財力や権力で十五点の人が満点の人より優遇されるような不正の糾弾でしかない。目に見える数値化された価値でそれぞれの生きるカーストが決定される現実そのものを超克せんとする人は皆無だ。勿論、目に見えるカーストの現実に絶望した俗物が目に見えない何かに救いを求めることはある。しかし、それは主にサブカルチャーのSFやオカルト、あるいはバーチャルなゲームの世界であることが多い。「目に見える現実の世界では三軍以下の負け犬の人生であっても、仮想空間の夢の世界では自分は王様にだってなれる」というわけだ。そこに絶望した俗物の救いがあることはよくわかる。しかし、俗物が見出す救いの世界は所詮目に見える世界の背後世界にすぎない。端的に言えば、それは俗物の現実逃避だ。我々が求めるべき目に見えないもの(不可視のコミューン=祝祭共働態)は如何なる意味においても現実逃避ではない。それはあくまでも新しき現実の創造であるべきだ。

俗物と民衆

「バラバかイエスか、どちらを釈放すべきか」と問われた民衆は「バラバを!」と叫ぶ。何故か。様々な説がある中で、「バラバはゼーロータイの関係者だったから」という説に注目したい。ゼーロータイとはローマの支配からの解放を目指すユダヤ人結社だ。おそらく、バラバは反ローマの暴動の罪で投獄されていたのだろう。更に想像をたくましくすれば、バラバはローマに抑圧されている民衆を救うために決起したのかもしれない。しかし、それは失敗に終わり、今処刑されようとしている。バラバは単なる強盗殺人犯ではない。むしろ、民衆にとっては義人だと言ってもいい。そう考えると、民衆がバラバを選んだ理由もよくわかる。民衆はバラバに自分たちのメシア(救い主)を見たに違いない。では、イエスはどうか。イエスもまた自らをメシアと称していたのではないか。残念ながら、民衆の目にはイエスはメシアと映らなかった。何故か。民衆の目が俗物の目だったからだ。俗物の目にはバラバのような水平的メシアしか映らない。イエスは垂直的メシアであり、それは目には見えないものだ。

バートルビー的反抗

ロマン主義的反抗は俗物の息の根を止めることができるか。そこにはエイハブがモービィ・ディックを仕留めるのと同じくらいの困難さがある。俗物がモービィ・ディックだというわけではない。俗物を俗物たらしめている力が巨大なのだ。容易に否定できるようなものではない。実際、俗物を生み出す力がこの世界を形成していると言ってもいい。人は幸福な生活を営みたいと願う。その願いに偽りはない。誰かを愛し、自分も誰かに愛されたいと思う。個人幻想。対幻想。共同幻想。愛する家族の喜ぶ顔を見たい。ただそれだけのために生きて、何がいけないのか。いけない道理はない。そこには水平的幸福のパラダイスが広がる。その俗なる現実がモービィ・ディックを生み出す。強敵だ。しかし、エイハブは決して諦めない。我々はそうしたエイハブの不屈の闘志に勇気づけられる。鼓舞される。と同時に、エイハブの対極に、奇妙な男を見出す。「そうしない方がいいと思います」と繰り返すバートルビーだ。彼は俗物ではないのか。いや、彼は断じて俗物などではない。俗物だったら、もっと社会に迎合して楽しそうに生きるだろう。実に奇妙な形ではあるが、彼もまたモービィ・ディックと闘っているのだ。エイハブとバートルビーは対を成している。

ロマン主義的反抗

「俗物的(ブルジョア)人間が、真っ先に機械の真似して機械になってしまった。彼は政治的全体の一構成員にすぎなくなったとしても幸福なのであり、自分自身が人格から記号に転じてしまったとしても、あらゆる点で完全と呼ばれる。個人がそうであるように、大衆も同様である。彼らは食べ、結婚し、子を産み、老い、これが無限に続く。単に生きるためだけの生活は下劣さの源泉であり、哲学と詩の世界精神を少しも持ち合わせないものは全て下劣である」――こうしたフリードリヒ・シュレーゲルの言葉は現代人の心にどう響くだろうか。「馬鹿にするな!自分たちは違法なことは何もしていない。誰も傷つけることなく、日々幸福に暮らしている。それのどこが悪いのか」と怒り出すだろうか。しかし、現代人にも未だ心があるならば(完全に人格から記号へと転じていないのなら)、俗物であることへの疑念が生じてくる筈だ。では、俗物とは何か。バイザーによれば、「俗物」(der Philister)は近代社会の物質主義的倫理に献身する者だ。「俗物は快適さのためだけに行為する。俗物は芸術を娯楽の一形態としか見ず、宗教を単に苦痛を和らげる鎮静剤としてしか見ない。俗物は人生の全てを繰り返されるお定まりのものにしてしまい、それが安楽と安全への渇望を満たしてくれる限り、道徳的、宗教的、かつ政治的現状に調和させようとする。俗物にとって人生の目的は単に存在し繁殖することである。」残念ながら、現代社会はこうした俗物たちによって半ば支配されているようだ。しかし、未だ希望はある。僭越ながら私も、「大衆抹殺論」によってささやかな抵抗を試みている。今のところ俗物は歯牙にもかけないが、その薄っぺらな幸福主義が長続きする道理がない。ただし、俗物と闘う武器は貴族主義でもエリート主義でもない。むしろ、俗なるものの根柢にある土着的なものであることを肝に銘じるべきだろう。

多様性を口実にするな

LGBTQ  の人たちを描くドラマが本当に多くなった。カミングアウトすべきか否かという葛藤を軸にした悲劇もさることながら、そんな苦悩とは無縁に「カラフルな多様性の世界はこんなにも素晴らしい!」とはしゃぎまくる喜劇が主流になっているような気がする。前者が所謂「日陰者」のドラマだとすれば、後者は一片の後ろめたさもない「何でもアリ」のドタバタ劇だ。一般的には、前者から後者への移行は社会の進化・発展と見做すことができる。LGBTQが「日陰者」だった時代は過去のものとなり、当たり前の存在として社会に受け容れられる。とは言え、それはあくまでも建前であって、現実には未だ「ヘンタイ」と思うのが本音だという人も少なくないだろう。かく言う私にも「何が正常か」ということに関しては根強い偏見がある。更に思耕を深めていく必要を痛感しているが、人の多様性を肯定することには全く疑念はない。人のそれぞれの在り方・生き方は様々であってよい。しかしながら、そうした多様性の肯定と「何でもアリ」の世界は違うのではないか。私はかつて「ナンバーワン」と「オンリーワン」について思耕したことがある。「ナンバーワン」だけが素晴らしいとされる競争社会からそれぞれの人が「オンリーワン」として肯定される共生社会への移行は基本的に望ましいことだ。しかし、それは「ナンバーワン」になろうとする懸命の努力を否定するものではないし、何の努力もせずにダメな自分を「オンリーワン」としてそのまま自己正当化するものでもない。例えば(余り良い例ではないが)、テストで満点をとる優等生だけが評価される社会はどこか歪んでいる。しかし、全く勉強せずに零点をとる劣等生を「オンリーワン」として肯定するなら、その社会もやはり歪んでいるのではないか。もはや誤解はないと思うが、私は決して「劣等生も懸命に勉強して優等生になるべきだ」と言いたいのではない。優等生はそれなりに努力を重ねてテストで満点をとった。それは正当に評価されるべきだと思う。ただし、全ての人が同じテストで評価される必要はない。そのテストでは劣等生にしかなれない人は自分が懸命に努力できる「この道」を見出せばいい。それが「オンリーワン」への道だ。多様性を口実に「オンリーワン」になる道を水平化した「何でもアリ」の世界は愚の骨頂。

世俗社会の聖化

「イーハトーブ(理想郷)は、今を生きる私らが未来に投影する幸福社会のことではない。逃れることのできない現実に対する切迫した、全面的な批判意識によって想像・創造される、この現在のもう一つの〈場〉のことである」と桜井大造氏は述べているが、私が求めているユートピアもそうした「場」だ。私はそれを垂直の次元と称している。垂直の次元は目に見えない。しかし、「どこにもない場」として在る。目に見えるのは水平の次元であり、人はそこで日常的に生活している。その専らの関心は幸福の追求であろう。福祉の充実した、経済的に豊かで安心安全な社会の実現。幸福に満ちた水平の楽園をパラダイスと称するならば、人はそれ以上の理想を見出すことはできない。しかし、人間は違う。人間は個人の幸福を超える複数性において生きる。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とは賢治の言葉だが、世界全体の幸福を求めることは断じて滅私奉公のようなものではない。そもそも個人の幸福を断念して得られるような全体の幸福など碌なものではないだろう。少なくとも賢治の言う「世界がぜんたい幸福になること」ではない。次元が違うのだ。ただし、それは優劣の問題ではない。「幸福になりたい!」と人は切実に願う。学校や職場でのいじめ、貧困、人と人との愛憎関係の縺れなど、水平の次元には様々な苦しみによる不幸が渦巻いている。そうした不幸から脱したいと願う思いは決して低劣なものではない。ましてやその不幸が垂直の次元においてたちまち解消されるなどということはあり得ない。「垂直の次元=高次元、水平の次元=低次元」ではないのだ。水平の次元は我々が人として現実に生活している極めて重要な場だ。しかし、そこに生じてくる水平的諸問題と格闘するためにはどうしても垂直の次元が必要になる。私は未だその必要性をうまく表現できないが、垂直の次元は決して修行僧だけのものではない。人間として本当に生きようとする全ての者に必要不可欠なものだ。垂直の次元は聖なる次元ではあるが、決して世俗的な水平の次元と別にあるのではない。むしろ、それは世俗社会に受肉していく。俗なるものを排除するのではなく、それに受肉していくことこそ真に現実的な聖化だと私は思っている。その思いを共有できる地平を何とかして切り拓きたいものだ。

聖地の世俗化

2019年に制作された「改善か信仰か:激動チベット3年の記録」というドキュメンタリーを観た。チベット仏教の僧院を中心とした信仰の村を中国共産党政府主導で豊かな観光地へと「改善」していく記録だ。率直に言って、観ていて実に痛ましい思いがした。聖なる鳥葬の場が観光の見世物になっていく。何かが根源的に間違っている。しかし、何が間違っているのか。中国共産党に悪意はない(と思う)。心からチベットの人々を貧困から脱却させたいと願っているだろう。遊牧民を近代的な「脱貧困村」に定住させる試みも善意からだと信じたい。実際、電気・ガス・水道などが完備した住居は便利で快適だと喜ばれていた。チベットの聖地も経済的に見れば貧しい村にすぎない。それが秘境の観光地として生まれ変わる。道路が整備され、ホテルや巨大なショッピングモールが建設されて、多くの富裕な観光客が押し寄せるようになる。村は確実に経済的に豊かな村へと「改善」されるに違いない。言うまでもなく、こうした「改善」は中国共産党に限られたものではない。かつての大日本帝国も琉球やアイヌの村を、更には東南アジアの植民地を「改善」した経緯がある。今でも村興し・町興しの名目で過疎の村を「改善」しようとする試みはあるだろう。果たして、こうした「改善」は人間にとって望ましいものだろうか。多くの人がその「改善」によって幸福になることは間違いない。しかし、たとい少数だとしても、幸福な生活に垂直的疑念を抱く人間は必ずいると私は思う。そして、それは決して修行僧だけに限らない。

思耕錯誤(10)

「フィヒテの理想は、全ての人が他人の干渉なしに自分の幸福を追求するような共和国ではなく、全ての人が共通善のために働く共同体である」とバイザーは述べているが、私の思耕もこの理想に共鳴する。しかし、多くの人は自由に自分の幸福を追求できる世界をこそ望んでいるのではないか。別に共和国である必要はない。絶対君主国であれ何であれ、個人の幸福が享受できるならそれでいい。勿論、一口に幸福と言ってもピンからキリまである。大金持だけが幸福というわけではない。むしろ、貧しい人の方が幸福な場合もあるだろう。周知のように、日本国憲法第二十五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されており、そうした生存権さえ満たすことができれば取り敢えず幸福だと見做していいと思われる。その上で、それぞれの能力に応じて自分のなりたいものを目指すことが人を更に幸福にしていくに違いない。そこに個人の幸福という花咲くパラダイスがある。しかし、人生の目的は幸福の追求に尽きるものであろうか。このような問いは多くの人の反感を買うだけかもしれない。現実には未だ「健康で文化的な最低限度の生活」さえ営むことのできぬ不幸な人が社会に溢れているからだ。善きサマリア人よろしく、先ずは目の前で苦しんでいる不幸な人の救済に集中すべきだと私も思う。「そう思うなら、すぐにそうしなさい」とイエスなら言うだろう。いじめやネグレクトなど、様々な理由で居場所を失った人に「新しき居場所」をつくる。それが喫緊の課題であることに迷いはない。しかし、その「新しき居場所」がパラダイスに極まるかと思うと、途端に私は迷い始める。貧困が克服され、社会福祉が充実し、誰もが健康で快適な生活を送りながら個人の幸福を追求できる水平的なパラダイス。これが人生最高の理想であろうか。違う、と私は思わざるを得ない。パラダイスに垂直的疑念を抱かざるを得ない私の思耕はやはり錯誤でしかないのか。