反論(5)
一般的に、ユートピアは「幸福になれる場所」だと思われている。「幸福になりたい!」という人の思いは重力と同様に自然なものだ。殆どの人はその自明性を疑わない。しかし、ドゥンス・スコトゥスによれば、人は幸福であることを自然本性的に望むが、意志はしない。そのことを私は橋爪大輝氏のアーレント論から学んだ。すなわち、自然本性的に幸福を望むことも「自然的な意志」(natural will)と見做されるものの、そのような自然的傾向性は真の意志ではない、ということだ。真の意志は如何なる自然本性にも束縛されない。こうした見解に基づいて、アーレントは「もし人が自然的な意志しか持たないならば、人はせいぜいbonum animal(善き動物)でしかなかっただろう。つまり、正にその合理性が、人間本性によって与えられた目的に相応しい手段を選択することを手助けしてくれる、一種の啓蒙された獣でしかなかっただろう」と述べている。では、真の意志とは何かと言えば、それは「自由意志」(free will) だ。予めデザインされた目的に対する手段を選ぶ自由しか持たない「自然的な意志」とは違って、「自由意志」はそれ自体のために追求される目的をデザインする。当然、それはその目的を追求する「私」の人生の意味をデザインすることでもある。アーレント曰く、「人間の幸福に向かう自然的な傾向性と、或る人の熟慮の上に選ばれた人生の目標としての幸福との間には違いがある。人間にとって、自らの意志する計画を成し遂げるために幸福を全く度外視することは決して不可能ではない。」要するに、意志がデザインする目的こそ人間の最高の目的であり、たとい幸福を人生最高の目的とする場合でも、それは自然本性によって望まれた幸福とは厳密に区別しなければならない、ということだ。そこには質的断絶がある。次元の違いがある。私は自然本性に基づく幸福主義を決して蔑ろにするつもりはないが、人生の意味はそれに尽きるものではないと思っている。ユートピアは幸福主義を超越する場(「幸福になれる場所」の超越)に他ならない。
反論(4)
私は何に対して反論を試みているのか。どうも横道に逸れそうなので少し整理が必要だ。私はこの世界で幸福になろうとは思わない。この思いを論理的に辿っていけば、この世界で幸福に生きている人の批判に行き着くだろう。しかし、その批判は論理的に割り切れるものではなく、およそ共感など得られそうにない。幸福に生きている人をどうして批判するのか。大きなお世話ではないか。私はここで「世界がぜんたい幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉を繰り返すつもりはない。確かに「世界には未だ不幸な人がたくさんいるのに、その現実を無視して自分だけが幸福になるべきではない」というエゴイズム批判の視点は重要だ。しかし、その視点を徹底させれば、シモーヌ・ヴェイユの過酷な運命を辿るしかない。それは極めて誠実な運命ではあるが、私には崇高すぎる。常に世界の不幸と共にあることは大切だが、共倒れは避けるべきではないか。聖なるヴェイユからは非難されるかもしれないが、現実への凝視よりも現実を超克する活動に私は関心がある。果たして、それは現実逃避であろうか。人はキレイゴトだけでは生きられない。世界のどこかで飢えて死んでいく人がいても、私は生きるためにメシを喰う。しかし、幸福になるために、ではない。何が違うのか。メシを喰うために生きることには真実がある。その真実に基づいて人は幸福になりたいと願う。そして、そこに「幸福を願うコミューン」が求められる。そこに反論の余地はない。しかし、私はそうした「願いのコミューン」からの一歩を踏み出さざるを得ない。何故か。私はここで言葉を失う。反論は途方に暮れる。
反論(3)
自分では未だ精神的にはかなり若いと思っているが、それはどうやら虫のいい勝手な思い込みにすぎないようだ。十歳ほどの年齢差で、もう言葉が通じない。私も若い頃には「大人はわかってくれない」と思っていたのに、老境に入って「若者はわかってくれない」と嘆くことになるとは!既存社会の既得権益の上に胡坐をかいている大人たちがわかってくれないのはいい。望むところだ。理解を求める闘争の火が燃え上がる。しかし、若者がわかってくれないのは正直キツイ。ツライ。今の若者はもはや若者ではないとさえ言いたくなる。若者とは古きものにしがみついている大人たちを蹴散らして新しきものを打ち立てていく存在ではないか。勿論、古きものが全て悪いわけではない。大人たちが古きよきものを保守しようとすることには無視できない意味がある。また、若者たちが打ち立てた新しきものもやがて古くなる運命を免れることはできない。新しきものにしがみついている若者も気がつけばいつしか大人になっているというわけだ。かくして古きものと新しきものは螺旋的に循環していくわけだが、この運動が垂直的なものを生み出すと私は考えている。もし垂直的なものがそこに受肉しなければ、水平の次元に「同一物の永劫回帰」が残されるだけだ。ニーチェはそれをニヒリズムの最高形式と称しているが、そこからの一歩については何も語っていない。四つの福音書を超える第五福音書としての「ツァラトゥストラ」は未だ完結していない。ツァラトゥストラの踏み出す一歩こそが待ち望まれる。
反論(2)
実篤は「殺されても死なないもの」と言い、三島は「生命尊重以上の価値」を訴えた。私とて殺されたくはないし、徒に生命を粗末にするつもりはない。不運にも殺されそうな状況に陥れば、必死に命乞いをするだろう。それが自然だと思われる。しかしながら、「考えを棄てなければ殺すぞ!」と脅されても、自分の考えを棄てなかった人がいる。それは自然に反する、不「健康」な人であろうか。周知のように、ガリレオは自らの信念を曲げて火刑を免れたが、それは「健康」な判断だったとカミュは述べている。「それでも地球は動いている」というガリレオの信念は自らの生命を犠牲にするほどのものではなかったからだ。では、生命を賭けるほどの信念がこの世界にあるだろうか。かつて神風特攻隊の若者たちは「天皇陛下萬歳!」と叫んで敵艦に突っ込んでいった。これは狂気の沙汰でしかなかったのか。今や「身捨つるほどの祖国はありや」という反語だけが響く世界は「健康」には違いない。しかし、その「健康」は確実にニヒルに蝕まれつつある。私はそこに垂直的なものの要請を意識する。それが反論の前提になる。
反論
幕末の江戸にタイムスリップした南方仁はその類稀な医療技術によってコロリ(コレラ)に立ち向かい、ペニシリンを独自に開発するなどして多くの民衆のイノチを救った。彼の活動に感動しながら、私はもし自分が南方先生と同じような境遇に陥ったら何ができるのかと考えた。何もできない。江戸時代から遥かに発展した科学技術文明の現代に生きながら、私個人には特別な能力など皆無に等しいからだ。自動車もパソコンもつくれない。しかし、私個人の無能力はさておき、現代の社会としての「進化」は明白だ。江戸時代には治せなかった病気や怪我が今では治すことができる。様々な機械の発明で、かつては不可能であったことが可能になる。そして封建的な身分制社会が曲がりなりにも民主的な自由平等社会になった。総じて、江戸の民衆から見れば、現代社会はパラダイスであろう。確かに、社会は飛躍的に便利になった。できないことができるようになった。しかし、それにもかかわらず、現代に生きる人たちは未だ生きづらさを抱えて生きている。その生きづらさは人それぞれであり、原因も様々だ。貧困、戦争、病気など。それらは現代社会の更なる「進化」によって解消するのであろうか。医療技術の進歩によって不治の病もどんどん減っていくに違いないが、どうしても癒せない病が残る。それは「健康」という病だ。どうして「健康」が病になるのか。「健康」であれば人は幸福になれるのではないか。「健康」であっても、貧困や戦争が人を不幸にすると言うのなら、完全なる「民主的な自由平等社会」が実現すれば人は幸福になれるのか。このような問いから、反論の糸口を探りたいと思う。
理想の押売か
「お前の理想を他人に押し付けるな!」私はそう非難された。「誰もが垂直的なものに関心を持つと思ったら大間違いだ。お前が垂直的な生に人間の本質があると思いたいならそうすればいい。それはお前の勝手だ。しかし、それは普遍的なものではない。そもそも垂直とか水平とか、そんな区別が一般に通用する道理がない。皆、日々をできる限り快適に過ごしたいだけなのだ。真面目に食うための労働に勤しみ、その上で自分を活かすことのできる仕事をする。能力のある者は皆が驚くような大きな仕事をするだろう。そんな輝かしい仕事ができなくても、誰にだって自分の仕事は見つけられる筈だ。たといそれが趣味だと見做されても構わない。幸福な人生はどこにでもある。農村にもあれば、都会にもある。金持にもあれば、貧乏人にもある。有名人にもあれば、無名の人にもある。理想なんかなくたって、人は幸福に生きていけるのだ。それを水平的な幸福にすぎないとお前は嗤うのか。嗤いたければ嗤うがいい。お前は寂しい奴だ。君死にたまふことなかれ。無意味な闘いはやめて早く目を醒ますことだ。」さて私はどう反論すべきか。
暗中摸索
殆ど誰にも読まれなくても、とにかく便りを発信し続けようと思ったのは、人間の究極的関心を信じていたからだ。ヒトは人となって、様々な生きづらさに直面する。勿論、ヒトの次元にも生存競争の苦しみはあるが、人の生きづらさは質的に異なっている。私はそれを人に固有のニヒリズムと理解しているが、どうも一般大衆には私の勝手な観念論でしかないようだ。人間の究極的関心もへったくれもない。ヒトと人との区別も余計なお世話だろう。一般大衆は快不快でしか動かない。そこにしか生きる真実を見出さない。「それで何が悪いのか」と言われれば、今の私に積極的に反論する言葉はない。ただ、かろうじて「それで本当にいいのか」と問い返すのが精一杯だ。実に情けない話だ。ニヒリズムの克服を自らのライフワークだとする信念が根柢から崩れていく。それでも人間の究極的関心を信じたい思いを棄て去ることはできない。美的段階から倫理的段階へと移行させるsollenの力、それは果たして観念論であろうか。私の思い込みにすぎないのか。そこで問われるのはやはり垂直的なもののリアリティだろう。それについて語ることのできる言葉を求めて、私は愚直に暗中摸索を続ける他はない。
ヒトから人へ、そして人間
啓蒙によってヒトは人になった。ここで言う啓蒙は近代に限られない。エデンにおいて知恵の木の実を食べたことが啓蒙の原点だと考えられる。その原点が原罪であるかどうかはさておき、それ以後、単なるイキモノとして生きるヒトの次元を超えて人は生きることになる。ヒトの次元から人の次元へ、どうして神話はその移行を楽園喪失として描くのか。確かに、イキモノの世界は大きな自然の摂理(ゾーエーの循環)に即した楽園だと言える。そこでは弱肉強食の論理さえ摂理だと見做される。シマウマがライオンに食われても、それは大自然の厳しい掟であって、シマウマは不平不満を訴えることはない。この現実を理不尽だと思うなら、それはすでに人の次元に生きているからだ。人はゾーエーではなくビオスを生きる。とは言え、人もイキモノである以上、ヒトでなくなるわけではない。人生の本質がビオスにあるとしても、人はゾーエーなくして生きられない。ゾーエーを肉体の糧、ビオスを魂の糧と解するならば、人生には肉体の糧を満たすための労働(labor)と魂の糧を満たすための「仕事」(work)が必要になる。しかし、厳密に言えば、魂の糧は「仕事」だけでは満たされない。そこには「活動」(action)が要請される。そして、「活動」のためには人は更に人間の次元へと超越(垂直的飛躍)しなければならない。アーレントによれば、「活動」は人間の複数性(plurality)を条件とする。ここで注意すべきことは、複数性は多数性ではない、ということだ。単に人がたくさんいても、それは複数性にはならない。複数性のためには人が真に主体的な単独者であることが不可欠だ。アーレント曰く、「人間的複数性とは唯一的存在者の逆説的な複数性である。」どんなに多くの大衆が群れても人間の次元は切り拓けない。必要とされているのは単独者の連帯なのだ。
actionへの渇望
通常、アーレントのactionは「政治的活動」と理解されることが多い。従って、私の俗物批判も「ノンポリの大衆は自分の好きなことだけに夢中になっていないで、選挙に足を運ぶなど、もっと政治に関心を持つべきだ」という苦言と見做されるだろう。しかし、政治への関心とは何か。大衆がそれぞれの好きなことに思う存分打ち込める社会環境を整えること――これが政治の目的なら、大衆もノンポリではいられない筈だ。ただし、その場合には、好きなことさえできれば、どんな政体でも良いことになる。すなわち、自分が好きなことに没頭できる私的領域が世界の中心であって、公的領域の機能としての政治活動はそれを常に安心安全な状態に保護することにすぎない。果たして、ここにactionがあるだろうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ない。むしろ、私の求めるactionは大衆の私的領域をその根源から大きく揺り動かすものだ。それは真に公的なもの、垂直的なものを目指す。おそらく、大衆の多くは「真に公的なもの=垂直的なもの」になど見向きもしないだろう。大衆の関心は私的領域における幸福に集中する。その結果、どうなったか。五十年ほど前に三島由紀夫は次のように嘆いている――「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」今や日本は経済大国ですらなくなったが、三島が嘆いた空虚な情況は依然として続いている。日本が「真に公的なもの=垂直的なもの」足り得るかどうかは別として、我々は今一度この世界に巣食う根源的なニヒルに立ち向かうべきではないか。
主人公の条件
ドラマの主人公には観客の共感が不可欠だ。かつてジョン・ヒンクリーは映画「タクシードライバー」を観て、レーガン大統領暗殺未遂事件を起こした。比較的最近では「ジョーカー」に影響された事件も起きている。これらはかなりヒネクレタ共感だが、ドラマを対岸の火事として高みの見物しているよりはマシではないか。少なくとも私は、良い意味でも悪い意味でも、ドラマの中でいつも主人公と共に生きようとしている。そして、主人公に対する共感と反感の狭間でドラマの意味を吟味する。しかし、大抵のドラマは主人公に共感できるように作られているので、共感に匹敵するほどの反感が問題になるような深いドラマは極めて稀だ。ドラマの途中で反感を抱いても、結末ではそれが共感に反転する場合が殆どだろう。それはそれで結構だが、昨今のドラマの主人公は共感とか反感以前の次元を彷徨っているような気がしてならない。例えば、この四月から始まった朝ドラの主人公は植物学の牧野富太郎博士がモデルだが、その生き方には疑念を抱かざるを得ない。もとより牧野博士その人を批判するつもりはない。立派な人だと思う。自分の好きなこと(植物学)に没頭して大きな業績を残した人はドラマの主人公に値するのかもしれない。しかし、何かが足りない。ここで朝ドラの分析をするつもりはないが、かつての「おしん」に代表されるような極貧からの立身出世物語には一般大衆の熱い共感を呼ぶエートスがあった。これに対して、裕福な家に生まれ、家業の承継について家との軋轢があったものの、結局は自由気儘に自分の好きなことに邁進している男にどんな共感を呼び起こせるのか。「自分の好きなことに没頭せよ!」という生き方への共感か。もしそうなら、私はこの主人公への違和感を禁じ得ない。と言うのも、この主人公は自由民権運動に巻き込まれながら、裕福な家の力で弾圧の危機から遠ざかることができると、そのまま何事もなかったかのように植物学に没頭しているからだ。すなわち、アーレントの「人間の条件」に即して言えば、この主人公にはlaborもなければactionもない。彼は公的領域とは絶縁された私的領域で単に「自分の好きなこと」に没頭しているにすぎない。今後のドラマの展開にもよるが、このままでは主人公の条件が満たされているとは到底言えないと私は思う。