主人公の条件
ドラマの主人公には観客の共感が不可欠だ。かつてジョン・ヒンクリーは映画「タクシードライバー」を観て、レーガン大統領暗殺未遂事件を起こした。比較的最近では「ジョーカー」に影響された事件も起きている。これらはかなりヒネクレタ共感だが、ドラマを対岸の火事として高みの見物しているよりはマシではないか。少なくとも私は、良い意味でも悪い意味でも、ドラマの中でいつも主人公と共に生きようとしている。そして、主人公に対する共感と反感の狭間でドラマの意味を吟味する。しかし、大抵のドラマは主人公に共感できるように作られているので、共感に匹敵するほどの反感が問題になるような深いドラマは極めて稀だ。ドラマの途中で反感を抱いても、結末ではそれが共感に反転する場合が殆どだろう。それはそれで結構だが、昨今のドラマの主人公は共感とか反感以前の次元を彷徨っているような気がしてならない。例えば、この四月から始まった朝ドラの主人公は植物学の牧野富太郎博士がモデルだが、その生き方には疑念を抱かざるを得ない。もとより牧野博士その人を批判するつもりはない。立派な人だと思う。自分の好きなこと(植物学)に没頭して大きな業績を残した人はドラマの主人公に値するのかもしれない。しかし、何かが足りない。ここで朝ドラの分析をするつもりはないが、かつての「おしん」に代表されるような極貧からの立身出世物語には一般大衆の熱い共感を呼ぶエートスがあった。これに対して、裕福な家に生まれ、家業の承継について家との軋轢があったものの、結局は自由気儘に自分の好きなことに邁進している男にどんな共感を呼び起こせるのか。「自分の好きなことに没頭せよ!」という生き方への共感か。もしそうなら、私はこの主人公への違和感を禁じ得ない。と言うのも、この主人公は自由民権運動に巻き込まれながら、裕福な家の力で弾圧の危機から遠ざかることができると、そのまま何事もなかったかのように植物学に没頭しているからだ。すなわち、アーレントの「人間の条件」に即して言えば、この主人公にはlaborもなければactionもない。彼は公的領域とは絶縁された私的領域で単に「自分の好きなこと」に没頭しているにすぎない。今後のドラマの展開にもよるが、このままでは主人公の条件が満たされているとは到底言えないと私は思う。