actionへの渇望 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

actionへの渇望

通常、アーレントのactionは「政治的活動」と理解されることが多い。従って、私の俗物批判も「ノンポリの大衆は自分の好きなことだけに夢中になっていないで、選挙に足を運ぶなど、もっと政治に関心を持つべきだ」という苦言と見做されるだろう。しかし、政治への関心とは何か。大衆がそれぞれの好きなことに思う存分打ち込める社会環境を整えること――これが政治の目的なら、大衆もノンポリではいられない筈だ。ただし、その場合には、好きなことさえできれば、どんな政体でも良いことになる。すなわち、自分が好きなことに没頭できる私的領域が世界の中心であって、公的領域の機能としての政治活動はそれを常に安心安全な状態に保護することにすぎない。果たして、ここにactionがあるだろうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ない。むしろ、私の求めるactionは大衆の私的領域をその根源から大きく揺り動かすものだ。それは真に公的なもの、垂直的なものを目指す。おそらく、大衆の多くは「真に公的なもの=垂直的なもの」になど見向きもしないだろう。大衆の関心は私的領域における幸福に集中する。その結果、どうなったか。五十年ほど前に三島由紀夫は次のように嘆いている――「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」今や日本は経済大国ですらなくなったが、三島が嘆いた空虚な情況は依然として続いている。日本が「真に公的なもの=垂直的なもの」足り得るかどうかは別として、我々は今一度この世界に巣食う根源的なニヒルに立ち向かうべきではないか。